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『私小説のために』①生活のうちにあって埋没しない精神

 すぐれた論はすぐれた問いから生まれる。福田は『理解といふこと』で、理解は本当に美徳か否かを問い、『批評家と作家との乖離について』で、散文とは何かを問うた。では、福田は『私小説のために』でなにを問うか。

「自画像とはいつたいなんであるか、肖像画とはいつたいなんであるか。そして私小説とはいつたいなんであるか、とぼくは問ひたいのである。」

『私小説のために』福田恆存全集第一巻

つまり、絵画、文学、方法は違えども、自分を描くとは、人間を描くとはいったいどういうことかを福田は問うている。そしてまずある芸術家に我々の注意を促す。

「まづ、レオナルド・ダ・ヴィンチの自画像を見るがいい。ここにすべての答へがひそんでゐる。(中略)ぼくたちのわかつてゐることは、この自画像によつてレオナルドのめざしたことは、人間精神の完成といふ一事であつたといふ、ただそれだけで充分である。」

『私小説のために』福田恆存全集第一巻

つづけて、福田はゲーテに目を向ける。

「ゲーテこそもつとも偉大な、もつとも典型的な私小説作家ではなかつたか。」

『私小説のために』福田恆存全集第一巻

「ゲーテの修業と遍歴とは、畢竟、教養、形成(Bildung)以外のなにを意味してゐるのでもない。それは環境のうちに埋没したたんなる生活者ではない。ひたすら自己を完成し、人間性の頂点に達しようと意思する精神である。」

『私小説のために』福田恆存全集第一巻

私は、上の福田の言葉の中の「それは環境のうちに埋没したたんなる生活者ではない」という箇所に注意を払いたい。我々は誰もが生活者である。肉体を持った人間である限り、生活からは離れられない。そしてその生活というものは、天才、凡人にかかわらず、傍から見れば、総じて地味で、つまらなく、醜悪でさえあるものだ。だからこそ、芸術があるのではないか。福田の主張の本質はそこにあると感じる。

だからこそ、そのような生活に埋没せずに、絶えず生活を超えていこうとする精神が詩ではないか、文学ではないか、自画像ではないか、絵画ではないか、芸術ではないか。

「醜悪を宿命として完成すること、弱点を自己の運命として描きだすこと、しかもそれが美と人間性完成とに道を通じてゐることー したがつてそれは自己の歴史を書くことであるがー ここに近代精神の、したがつてまた肖像画の、私小説の図式があるのである。」

『私小説のために』福田恆存全集第一巻

「醜悪を宿命として完成する」ために精神を働かせるのが芸術家であり、「弱点を自己の運命として描き出す」のが芸術家である。決して、身辺雑記の羅列やつまらぬ生活のありのままの告白が芸術ではない。少なくとも、自分を描くとは、そういうことではないのではあるまいか。

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