見出し画像

浅間山の麓から 第7話 ショートストーリー「半年遅れの墓参り」

下平健太は緩やかな霊園の階段を登っていた。東京の西、多摩にあるその霊園はJRの駅からバスで30分ほど宅地と武蔵野の林の間を走ったところにある小高い丘の上にあった。暖かな5月の晴れた日。空は広く青く、ゆったりと雲が流れている。

「不義理をしていた自分を赤羽さんは許してくれるだろうか。」健太は階段を一歩一歩登りながら考えていた。霊園にはほとんど参拝者はいない。段々畑のように広がる区画の中で一番奥にある、広く武蔵野丘陵が見渡せる頂上の区画に赤羽家の墓はあった。

墓の前にたどり着くと健太は心のなかで静かに語りかけた。「赤羽さん、やっとこれました。遅くなって本当にすみませんでした。」「今までお世話になりました。」健太は墓前で手を合わせた。ふと見ると墓石には「寛」という文字が刻まれていた。書道家でもあった赤羽俊夫は自分の墓石にその文字を入れることを選んだ。

話は15年前に遡る。健太は20年勤めた大手メーカーA社で早期退職に応募した。会社の状況も悪かったが自分自身に行き詰まりを感じていたためだった。その直接のきっかけは会社が提示した人事異動案に彼が異を唱えたことだった。

健太はA社で人事部門に所属していたが長くそのトップにいたのが赤羽だった。多くの人が健太の決断に反対し、冷たい言葉を投げる中で赤羽は健太の向こう見ずとも言える決断を受け入れ、応援してくれた人だった。「人にはチャレンジが必要だ。君がそう思うならやってみればいいじゃないか。」赤羽はそう言って送り出してくれた。

実は赤羽自身、常にスポットライトを浴びて歩んできた人ではなかった。だから人の心の痛みをわかってくれる人だった。何度も挫折し、周囲からも評価されない中で自分の信じる道を進んできたように思えた。そういった赤羽だからこそ、自分の選んだ道を理解してくれたのだと健太は思っていた。

A社を離れたあとも健太と赤羽の交流は続いた。健太は外資企業C社に転職し、小さいながらも日本法人の人事のトップとしてキャリアを積んでいった。会社はM&Aを繰り返しながら次第に大きくなっていき、健太もそれにつれてポジションを上げていった。

赤羽は人事部門のトップになったものの、大企業であるA社では役員になれず、やがてA社を離れた。赤羽を評価する人々に請われ、会社の顧問や相談役の仕事をするようになる。一方、健太は出世の階段を登っていく中で時々、赤羽に会って色々なことを相談をするようになった。赤羽は具体的にどうこうという話はしなかったがいつもニコニコと健太の話を聞いてくれた。

健太はいつの間にか外資企業C社において役員になっていた。多くの重要な経営判断にも参画するし、本社の直接交渉窓口にもなった。役割も重く、様々な難題にも対処しなくてはいけない。C社はアメリカの大きな会社で勢いもある一方、ご多分にもれず社内ポリティクスが盛んであった。健太も常に競争の中にいた。

やがて健太はその競争に疲弊していく。給与のアップによって暮らしは豊かになっていくが、常に何かに追いまくられ、誰かと競争し、評価された。健太にはその世界が永遠に続くように思えた。

A社を辞めて13年が過ぎた時、健太はC社を退職することにした。誰かに強要されたわけではなかった。また、定年になっったわけでもなかった。ただ健太は競争に疲れていた。ふと自分はこのまま、ここにいていいのかと思うようになった。そうして健太は会社を去った。

健太は人生で初めての長い休みを取ることになった。つまり働かないという選択だ。毎日メールを確認する必要もない。夜中の電話会議に出ることもない。土曜の朝にアメリカから来たメールを確認し、月曜の朝までに問題を分析しレポートを出す必要もない。今までのプレッシャーから開放された。

しかし半年ほど経ったころには健太はまた以前のような刺激が欲しくなった。そうして外資企業D社に再就職した。D社は海外では有名なブランドであったが日本で新たな組織を設立することになったのだ。今度の仕事は新しい組織を1から立ち上げるというものだ。健太は一生懸命働いた。プレッシャーはあったが組織の立ち上げなのでポリティカルな競争は必要なかった。

一方で組織は脆弱で人材もいなかった。だからすべて自分がやらなくてはいけなかった。今まではスタッフが対応してくれたことも誰もやってくれない。実務を知らなければ覚えなくてはいけない。健太は「俺は今までいかに多くの優秀なスタッフに支えられていたんだな。」と心から思った。

管理者は実務を知らない。だから物事はなかなかうまくは進まなかった。今まで当たり前にできていたことが自分だけではうまく行かない。今度はそのことで壁にぶつかった。

以前の会社を辞めたことは後悔していなかった。そして新しい会社にはいったことも悪い選択ではなかったと思う。しかしながら自分の中の自信が大きく揺らいでいった。「おれはこれくらいのこともできないのか。」という思いが膨らんで聞く。

そんな状況の中で悪銭苦闘していたある日、まだ残暑が残る頃に健太は赤羽ががんで入院してそのまま亡くなったことを風の便りに知った。まだ、80歳前だった。健太は大きなショックを受けた。自分も思うように仕事が進まない。そして自分の理解者である赤羽が亡くなってしまった。

健太は赤羽の葬儀に行かなかった。赤羽への思いはあったが同時に今の行き詰まった自分を昔の仲間に晒したくないと思ったからだ。だから忙しいことを言い訳に葬儀の詳しい情報を入手しなかった。

そうこうしていくうちに時間は過ぎていった。新しい会社に入ってちょうど1年半だった。健太は会社を去ることを考えていた。今までなんとかやってきたが自分には今のポジションがフィットしていると思えなかった。また自分がこの仕事を本当にやりたいと思えなかった。「俺はなんのために働くんだろう。」と健太は考えていた。

ちょうど12月にはいったある日、見ず知らずの山中美智子から喪中はがきが届いた。赤羽の妻は既に他界していて、山中美智子は赤羽俊夫の娘だった。健太は改めて赤羽俊夫がもうこの世にいないことを思い返した。そして赤羽との今までの縁を振り返った。

年が明け健太はD社の社長に退職を申し入れた。3月いっぱいで退職することになった。既に赤羽が亡くなってから6ヶ月以上が経っていた。4月になって健太は意を決して山中美智子にはがきを書いた。

山中 美智子様

前略、

突然のお便りを失礼いたします。昨年末、赤羽俊夫さんのご逝去のはがきをいただいた下平と申します。改めてお悔やみ申し上げます。

私は生前赤羽俊夫さんに大変お世話になった者です。A社を去った後もお付き合いさせていただき、たくさんのご支援を頂いておりました。心から感謝申し上げます。また、ご葬儀には伺えなかったことをお詫びいたします。

遅くなりましたが、もし可能であれば墓前にご挨拶と御礼に伺いたく、赤羽さんの眠られている墓所をお教えいただけませんか?不躾なお願いで恐縮ですがご理解を頂けますと幸いです。どうぞ宜しくおねがいします。

敬具

下平 健太

程なく山村美智子から返事が来た。そこには赤羽俊夫が眠る霊園の所在地が書いてあった。健太は晴れた日に赤羽さんに会いに行こうと決めていた。そして自分の不義理を侘びたいと思った。そしてそれを機に自分も新しい一歩を踏み出そうと考えていた。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?