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3分で語るままならない創作の日々(2024.3.24)

ありがたいことに、たまに作品の感想をいただくことがある。その際よく聞くのが「真に迫っている」という感想だ。ぼくの作品には必ず戦場が出てくるが、その描写に「迫真性」を感じてくれているらしい。そしてこれまたよくある反応なのだが、ぼくが元自衛官だと知ると、感想をくれた読者さんは「この真に迫った感じは自衛隊の経験ゆえですね」と妙に納得するのだ。しかし、自衛隊はこれまで一度も戦火の洗礼を浴びたことがないし、ぼく自身も戦争経験なんてない。にもかかわらず、ぼくの文章に戦場のリアルが宿っているように錯覚されてしまうのはなぜだろう。

ぼくの住む佐賀では、昨日今日とまとまった量の雨が降っている。昨晩は豪雨と言っていいほどの雨量だった。仕事机は窓に面しているから、執筆の手を休めてパソコンのモニターから顔を上げると、地面のアスファルトに当たって勢いよくはじける雨粒が目に入ってくる。雨を目にすると、雨の音を聞くと、雨のにおいをかぐと、ぼくの皮膚にはその冷たさがリアルによみがえる。

服や靴が雨に濡れてぐちゃぐちゃになった状態で24時間歩いたことがあるだろうか。雨に打たれ、夏なのに全身の震えが止まらず、耐えがたいほどの眠気なのに全然眠れなくてついには吐いてしまった経験があるだろうか。深夜、遠くの街明かりを眺めながら、雨を吸った迷彩服の冷たい感触に震えつつ人生の選択を誤ったかもしれない可能性について考えたことがあるだろうか。ぼくはある。おそらく、たいていの自衛官が似たような経験をしたことがあるはずだ。

ぼくの戦場描写が普通の人に「それっぽく」思われてしまうのは、自衛隊時代の特殊経験がぼくの感性を人とは違う形に育てた結果なのかもしれない。しかし繰り返すが、ぼくは本当の戦場を経験したことはない。イラクに派遣されたとき駐屯地めがけて迫撃砲が撃ち込まれることが何度かあったが、この状況を戦場と呼ぶほど自衛官は平和ボケしていない。だから、ぼくの戦場描写はあくまで「それっぽい」だけである。しかし皮膚感覚で兵士の悲喜こもごもを語ることができるのは、ぼくの武器なのかもしれない。

これを書いている今も、外では雨が降っている。あの日の冷たい記憶が、ぼくの皮膚の上をとめどなく流れている。

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