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作家は経験したことしか書けないってホント?

そんなわけない。

もし作家が経験したことしか書けないとしたら、世のミステリー作家はみんな殺人を経験しなければならない。

という理屈で切って捨てるのは簡単ですが、SNSで時々ネタになるこの話題には、なにかしらの示唆が含まれているような気がして、もうちょっと深掘りしてみました。

そもそも、書き手の経験がたびたび問題に上がるのはなぜでしょうか。

たぶん、作品内容に関する実経験を作者が持っていれば、リアリティーのある作品が書けるから、と読者や作者自身が思っているからではないでしょうか。

リアリティーとは?

このリアリティー、言い換えれば本物っぽさ、ですが、その構成要素のひとつは知識です。

警察官経験者が事件捜査を描けば、たしかに本物っぽい刑事ドラマができあがるでしょう。しかし、それが真実に近いのか否か、知見のない読者の側にはわかりません。これまで見聞きした既存作品と比較して、それっぽさを感じる程度に留まるのが普通です。

ということは、経験に基づく本物の知識は必ずしも必要とされていない。資料や取材を通じて勉強することは大前提ですが、大事なのは本物っぽさであって、経験・未経験はクリティカルな問題にはならない、と言えます。

リアリティーを構成するもうひとつの要素、それはメンタリティーです。

警官経験者ならではの視点、子供を亡くした父親ならではの価値観、官僚経験者ならではの哲学。

その世界に生きる人々は、なにを美しいと思い、なにに喜びを見出し、なにに憤慨し、なにに絶望するのか。

要するに、実際を経験したことによって培われた精神のありよう、それがメンタリティーです。

知識とちがって、メンタリティーというやつを勉強や取材だけでわが物とするのはかなり難しい。従って、未経験領域を作品に盛り込む際には注意が必要です。

たとえば、子育てしたことがない作家が子育ての苦労を綴ったとします。子育て経験があれば自明のことでも、この作家には感じ取ることのできないものもろがあるはずです。その彼が子育て経験のある読者を深く共感させるには、慎重な取材とたくさんの勉強と探偵並みの推理力が必要でしょう。

その反面、ほとんどの読者が経験したことがないであろう領域を描くなら、作家はかなり自由に書けるはずです。そもそも本物がなんなのかを外の人間は知らないので、そういうもんか、と思って読むだけですから。

これに対して「リアリティーがない」と文句をつけるのは、本物を知る一部の読者だけです。なので、割り切っちゃえばいい。商売するなら多数に目を向けるべきで、小さなコミュニティの人気者になろうとして四苦八苦するのはコスパが悪すぎです。

ということで、実経験はメンタリティーを学び取るのにかなり有効でしょうが、必須、とまでは言えない。ここでも大事なのは、本物ではなく、本物っぽさのほうですから。

作家の経験は諸刃の剣

さて、本論に戻ります。

作家は経験したことしか書けないのか。私の答えは否です。

じゃあ経験は創作に不要なのか、というと、それは作者の腕による、と申せます。

創作とは嘘を描くことだ、というのが持論ですが、嘘を嘘だと思われたら読者はしらける。そうさせないように、嘘を理論武装する。

知っている道を歩いていたはずなのに、気づいたら異世界にいた、みたいな状況を作り出すために。

もし、経験によって得られた知識とメンタリティーを理論武装の材料として縦横に使いこなし、結果としてリアリティーあるおもしろい創作物に昇華することができたなら、そのとき初めて、実際の経験はその作家にとっての武器となる。

一方で、実際を知っているがゆえに経験を語ることに一生懸命になってしまい、本来語るべき嘘がどこかにいってしまったら、それはエッセイもどきの小説ができあがるだけで、おもしろいからはかえって遠ざかる危険性さえある。創作に大事なのはリアリティーのほうであって、本物ではないはずなのに。

経験は、使いこなすことができれば強力な武器となる。
しかし使いこなすことができなければ、むしろ小説を殺す刃になるでしょう。

真実のなかに嘘を紛れ込ませて人を騙す。

一流の小説家とは、一流の詐欺師なのかもしれませんね。


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