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小説にしかできないことってあるのだろうか?

これだけエンタメコンテンツがあふれている時代において、小説にしかできないことってあるのだろうか? 

あります。いえ、あると信じたい。

今回は、物書きなら誰しも一度は考えたことがあるテーマ、小説の唯一無二性について作家の視点から話そうと思います。

1 まず小説の特徴を考えてみる

そもそも小説ってなんでしょうか。映像、音楽、そしてドラマ。この3つを使って目と耳と心に訴える映画と比べて、小説は文章しかない。ぼーっとしていても勝手に流れてくる映像系のコンテンツと違って、小説は自分でページをめくって、言葉を追って、文章を読んで、映像を頭に浮かべる必要がある。小説って、とっても疲れるコンテンツなんだというのがよくわかります。

紙と鉛筆と想像力さえあれば小説を作ることはできるので、製作のコストは低い。その一方で、お客さんに努力という名のコストを求める構造になっている。これでは、小説が滅び行くコンテンツだって言われてしまうのも当たり前。もっと簡単で楽しいコンテンツにお客さんが流れていってしまうのは自然な成り行きであろうと思います。

しかしこの、読者が自分で動かなければならない、という点にこそ、小説というコンテンツの唯一無二性が潜んでいるのではないかとも思っています。

映像系のコンテンツは見たまま、あるがままを受け止めて終わりですが、小説は文章を読んで自分の脳内に映像として再展開するとき、読み手の感性が混ざる。

読み手の知識、経験、価値観などが、作者が物語というキャンバスに塗り込んだ感性と混じり合って、新しい景色を作り出す。その風景は世界に1つだけの風景です。

映画の感想を誰かに伝えるとき、話し手の頭の中の映像と聴き手の頭にある映像は同じ物です。ふたりとも同じ映像を実際に目にしているからです。

でも小説は違う。

同じ本を読んでいても、脳裏に描かれた景色は人によって千差万別。同じ景色を全員が目で実際に見たわけではなく、それぞれが勝手に想像しただけだからです。だからこそ、いい本に出会うと誰かに感想を言いたくなるし、感想を聞きたくなる。「僕にはこういう景色に見えたけど、君はどんな風景だった?」という具合にです。

作品と読者の感性が混じり合ってこの世に1つしかない景色を生み出す作用、これは、AとBが触れ合ったことでCという別の物質が誕生する化学反応みたいなものです。しかしこの反応は、小説というコンテンツが、読者自身が動かなければならない参加型のコンテンツであるがゆえに起きる化学反応だと思います。

映像系のコンテンツはクローズドであり、視聴者が参加する余地がありません。このような非参加型コンテンツでは、水は水のまま、土は土のまま、新しい物質が生まれることはありません。そこに変化要素が加わらないからです。

しかし小説はいわばオープン系。読む人によって見える景色が違ってくる。同じ小説なのに、10歳のころに見えた景色と30歳のときに見えた景色が全然違う。小説とは、想像力の差が読み応えにものすごく影響するコンテンツなのです。

2 小説は不親切なコンテンツ

誰かに読まれて、反応が起きて、元の形が変わって初めてコンテンツとして完成する。このように、小説というコンテンツは、それ単体では不完全であり、完成させるために読者の助けが必要なのです。
 
この不親切さは、小説というコンテンツに、一見さんお断りのラーメン屋さんみたいな敷居の高い雰囲気を生み出してしまっています。これでは、ジムに行って汗を流すのが日課のストイックな読者しか近寄ってこなくなってしまう。実際、現在の小説にはそういうイメージがつきまとっているように感じます。

広がりやすさ、敷居の低さ、という点で、小説は映像系のコンテンツにはとても勝てない。ではどうしたよいのか。

水によく溶けるのは砂糖、だから水のような読者には砂糖のような作品を提示する、いわゆるマッチングは大事な考え方ですが、これは作家の仕事ではなく売り手の仕事。じゃあ、作家はなにをやるべきなのか?

横への広がりに強い映像系コンテンツと戦う作戦、それは同じ土俵で戦うことではなくて、深さで勝負すること。広がりを競うのではなくて、読者と強い化学反応を起こせるように、作品の純度を限界まで高めておくこと。作家の仕事はそれに尽きると考えます。

どうやったら純度を上げることができるのか、次にその話をします。

3 純度を高めるためには?

こういう話の流れだと、次に出てくるのはテクニック論だと思うかもしれません。しかし作家が最初に考えなきゃいけないことって、テクニックではないはずです。

物語を人に届けやすくするための技、それがテクニックです。つまり道具なんです、テクニックって。世の中にはテクニックを教える本があふれていますし、お金を払って小説講座を受講することもできます。でも、本当に大事なのは道具を使ってなにをするか、の方であって、道具をうまく使うことにばかり目が行くのは本末転倒と言うべきです。

英語の先生は英語というコミュニケーションツールの使い方は教えてくれますが、英語を使ってなにを語るのか、までは教えてくれません。作家第一の仕事とは、道具の使用目的を決めること、つまり語るべきなにかを確立することだと思います。

この、語るべきなにか、を別の言葉で言い換えれば、作者が読者に伝えたいこと、もしくは作者の主張、すなわち作品テーマ、ということになるかもしれません。人からこんなテーマがいいんじゃない?とアドバイスをもらったとしても、決めるのは作家です。書くのも作家です。従って作家の唯一無二性はテーマにこそ宿ると信じています。

さて、ここまで偉そうなことを言ってきましたが、僕も執筆の最初からテーマをクリアに認識して書けることはあまりありません。書いているうちに段々輪郭がはっきりしてきて、最初に戻って書き直す、みたいなことがほとんどです。プロットを詳細に詰めておけばテーマがぶれることはない、と言う方がいるかもしれません。でも僕の場合、どんなにプロットを詰めても、ある一定以上は解像度が上がらない。たぶん、プロットって人に説明するためのプレゼン資料だからなんだと思います。プロット作りで使う脳の部分と執筆で使う脳の部分が異なるからなんでしょうね。書いてみないと浮かんでこないことが多すぎて、結局たくさん手戻りが発生する。ことほど左様にテーマをはっきり意識するのは、自分のことなのに書き手自身にとっても難しい。

書き手によっては、求められるまま書く、流行りの物を書く、ウケそうな物を書く、という、自分の内面から湧き上がる物ではなく、外側から受ける力の作用によって作品を書く人もおられるでしょう。でも執筆のきっかけはなんであれ、また、作品の見た目が流行り物の体裁を取っているとしても、物語の奥底には作者なりのテーマが強く込められている。少なくとも、ヒット作はそのようにできあがっていると感じています。

でもこのテーマ、今言ったことと矛盾するようですが、読者にはっきり伝わる必要はない、とも思っています。純粋な読者からしてみれば、面白けりゃ良いじゃん、ってことですから。しかし面白い、という感情を因数分解していくと、そこには必ず「テーマの強さ」という要素が存在していると考えます。

テーマの強さ。大事なことなのでもう一度言います。テーマの強さ。これこそが、強い化学反応を引き起こす触媒、言い換えれば鍵だと思っています。

4 結論

本日のお題、「小説にしかできないことってあるの?」の答え、それは化学反応です。読者を取り込んで、読者を巻き込んで、読者と一緒になって、物語を作っていく。これは小説にしかできません。強い化学反応を起こすために必要なのは強いテーマ。テーマは作家にしか決められない。作家が作家にしかできないことに集中することで、小説にしかできないこと、つまり読者との化学反応の強度が高まっていく。だからテーマって大事なのよ。

はい、以上が本日の結論でした。
なんか、当たり前のことを言っただけのような気がしますが、誰かのなにかのお役に立てれば幸いです。

あー、でもですね、化学反応ってなかなか起きないです。僕もそういう小説には年に一回くらいしか出会わないのですが、化学反応が起きた作品って、すごーく強く印象に残る。文章は忘れても、そのとき頭の中で見た景色が、感動が、色濃く記憶に残る。

そんな小説に出会いたい。そして、そんな小説が書きたい。そんなことを考えながら、毎日机に向かっています。

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