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豊かさから不安へ(前)

(お読み下さい:訳者からのお知らせ

1.5 豊かさから不安へ

「彼は過去から切り離されなければならない。なぜなら、彼は祖先よりも恵まれた生活を送っており、物質的な快適さの平均水準も絶えず上がり続けていると信じる必要があるからだ。」(ジョージ・オーウェル作『1984年』)

私たちは退屈が人間存在のデフォルト状態と同じものだと完全に思い込んでいるので、それを定義しなさいと言われれば、「退屈とは何もすることが無い状態だ」とほとんどの人が言います。この状態が不快だというのは決して論理的必然ではありません。近代以前の人々だけでなく動物界の全体も、何もしないでいることは全く問題ないように見えます。この見立てが疑問を投げかけるのは、テクノロジーの歴史についての従来の説明に含まれる根本的な信条の一つで、それはステファン・ビューナーが醸造の発明という文脈の中で「不安理論」と呼ぶものです[22]。さらに広く見れば、この概念がいうのはこういうことです。人類のテクノロジーの進歩を推し進めているのは一般的に生存のための苦闘であり、この苦闘、つまりは存在の不確かさが、人体の生理や心理に不安という形で現れ、より良い生存手段を作り出すことでそれを癒すのだ。すると、不安とは生存への脅威を転換してそのような脅威を軽減する行動を起こす手段だということになります。不安理論は次のように言い換えてもいいでしょう。(1)生活は危険であり生き残るのは難しく、(2)このため私たちは不安を感じ、(3)この感覚の不快さが、たとえばテクノロジーを使って、危険で困難な状況をコントロールするよう私たちを駆り立て、(4)私たちの不安は軽減される。

個人のレベルでは、不安理論は退屈を次のように説明できると主張します。何もしないで座っている余裕はない。人生が生存競争であるなら、我々の遺伝子は生存と繁殖の可能性を増すために一瞬一瞬を最大限に活用するよう駆り立てるはずだ。何もせずに座っているのは遺伝子のプログラムに反しており、それが生む不快感が私たちに何か生産的なことをするように駆り立てるのだ。確かにこれが、空白のひとときや瞑想での意図的な実験のあいだに多くの人が感じることです。かきむしるような不安がこう言います。「私は何かしているべきだ。」この文化的な衝動があまりに強いので、瞑想のような精神修養や祈りでさえ、やるべきことの一つへと簡単に転換され、生活を改善する運動のための抵当に取られた時間となってしまいます。

不安理論は真実なのでしょうか? 街角で誰でもいいから尋ねてみれば、ほとんどの人がテクノロジー以前の原始的な生活に戻りたいとは思っていないのが分かるでしょう。私たちは原始的生活の暗い描写を生存のための不愉快で終わりの無い闘争だと思い込んでいます。この思い込みを根本に持つ私たちの文化的信念は、テクノロジーが私たちを自然の気まぐれから救い、より高い可能性を開発することを可能にしたというものです。要するに、ここにこそ「人類の上昇」があるのだと。

この見方の最大の問題は、石器時代の生活は必ずしも「不快で野蛮で短命」なものではなかったことです。孤立した石器時代の狩猟採集民と前近代の農耕民の民族学的研究が示すのは、それらの「原始的な」民族は、不安に駆られるどころか、比較的には余暇と豊かさのある生活を送っていたことです。よく引き合いに出されるのがアフリカ南部カラハリ砂漠のクン人の例で、人類学者のリチャード・リーが研究しました[23]。彼は4週間にわたってクン人に付いて回り、あらゆる行動を記録して1週間の平均的な労働時間を計算したところ、自給自足活動に費やした時間は約20時間でした。この数字は後に同地域でリーや他の研究者が確認しました。世界屈指の過酷な環境の中、クン人は栄養価の高い食物と余暇のある生活を楽しんでいたのです。これと比較される標準的な現代人は1週間に40時間の労働をします。通勤時間、買い物、家事、調理などを加えれば、余暇時間、食事、睡眠を除くと、典型的なアメリカ人は週に約80時間を費やします。これに対するクン人の数字は、道具や衣服を作るのに必要な活動を含め40時間です。

世界各地の他の研究と、常識を考え合わせれば、クン人は例外ではなかったことが示されます。緑が生い茂る地域なら、おそらく生活はもっと楽だったでしょう。さらに、この20時間の自給自足活動で行われる「仕事」のほとんどは決して重労働でも面倒な作業でもありませんでした。男の自給自足活動の多くは狩猟に費やされましたが、それは現在私たちがレクリエーションのために行うことです。いっぽう採集作業はお喋りや頻繁な休憩を含む時間でした。

原始的で小規模な農耕民は同じようにのんびりしたペースの生活を楽しんでいました。ヘレナ・ノーバーグ=ホッジによる前近代ラダックの記述を考えてみましょう[24]。ラダックはインド領のチベット高原にある地域です。栽培期間がわずか4ヶ月しかないにも関わらず、ラダックでは常に余剰食糧があり、長い祝祭日が何度もあり、(特に畑仕事がほとんど無い冬の間は)豊富な余暇時間を楽しんでいました。これは、ラダックの厳しい気候と、数多くある僧院に労働をしない仏教僧が(人口比で言えば)膨大な数いたことを考えれば、驚くべきことです。どんな統計よりも力強く、ノーバーグ=ホッジの映像ドキュメンタリー『懐かしい未来』は、そこでの余暇のある生活ペースの感じを伝えます。村人は仕事をしながらお喋りし歌を歌い、一年で最も忙しい時でさえ長い休みをたっぷりと取ります。ナレーターがいうように、「仕事と余暇は一体のものです。」

劣化した今の世界に生きていると、原初の世界にあった恵みを想像するのは困難です。

初期のヨーロッパ人入植者が記した新大陸の豊かさは、信じられない話と紙一重です。幾度も出てくる記述は、「相当な樹齢の森を満たす、シカ、ナキウサギ、ノウサギ、トリ、夏の盛りでさえ、信じ難いほどの数で」、島々は「鳥で完全に覆われ、そこで営巣する姿は、鳥の草原のように見え」、川は鮭で溢れかえり「その音で夜も眠れないほどだ…。」記述はさらに続き、川が魚でいっぱいなので「網だけでなく石を入れて沈めた籠でも獲ることができた。」[25]

この他にも、何日にもわたって空を黒々と覆ったリョコウバトやエスキモーコシャクシギの群れ(どちらも絶滅)のような驚くべき光景が、北米大陸先住民の原風景をなしていました。彼らの生活はどれほど苦闘に満ちたものだったでしょうか? この豊穣の園は、北米大陸に少なくとも1万2千年にわたって人間が住んでいたにもかかわらず存在していたことにも注目してください。アメリカ先住民には自然資源を使い果たすだけの時間が無かったという訳ではないでしょう。楽に豊かな生活をするという彼らの態度は豊富な自然資本がもたらした一時的な結果だったと断定することはできませんが、彼らが自然と結んだ関係もその豊かさを維持するのに一役買っていました。

実際に自給自足に費やした時間より重要なのは、自給自足に対する狩猟採集民の態度で、それは一般に鷹揚おうよう頓着とんちゃくしないものでした。マーシャル・サーリンズは次のように書いています。

[猟師は]熟慮した無関心の態度を取るが、それは互いに補う2つの経済的な傾向として表れる。第一は気前良さだ。客観的に見て困難な時期でさえ、野営地にある食べ物を全て食べ尽くしてしまう性癖は、リリアンがモンタニェイ人について言ったように、「あたかも彼らが狩ることになる獲物が馬屋に囲ってあるかのようだった。」バセドーはオーストラリア先住民についてこう書いた。彼らのモットーは「今日十分にあるのなら明日のことは気にするな、という意味の言葉に解釈できるかもしれない。このような理由でアボリジニは、今日と近い将来まで程々の食事をするよりも、手に入ったものを一度の大ごちそうにする方を取る傾向がある。」
…第二の相補的な傾向は、単に気前良さの負の側面だ。余剰の食料を取っておき、食料備蓄を増やすということができないのだ。多くの猟師と採集者にとって食料の備蓄は技術的に不可能だと確証されているわけでもなく、彼らがその可能性を知らないことが確かなわけでもないように見える。その代わりに、この状況でその努力を妨げているのが何なのかに目を向ける必要がある。グシンデはこの問いを発し、ヤーガン族について同じく筋の通る楽天主義に答を見出した。備蓄が「不要」だとされるのは、「一年を通じ、自然はほぼ無限とも言える気前の良さであらゆる種類の動物を自由に使えるように差し出し、男は狩りを、女は採集ができるからだ。嵐や事故によって一家がこのような物を奪われるのは、せいぜい2〜3日のことだ。一般に飢餓の危険を考慮に入れる必要は誰にも無く、誰でもほぼ何処にでも必要とする物は豊富に見つかる。ならば何故、皆が将来の食料について心配することがあろうか…。基本的に我々の(研究する)フエゴ島人は将来を恐れる必要の無いことを知っているので、手に入る物を貯め込むことがない。来る年も来る年も、彼らは何の不安もなく翌日を楽しみに待つことができる…。」[26]

意義深いのは、先住民たちは食物のことを大地や森や海からの「贈り物ギフト」と呼ぶのが多いことです。私たち現代人にとって、それは魅力的なたとえですが、農耕以前の人々にとって大地の賜物たまものは生きた現実でした。大地はあらゆる物を与えてくれます。植物は育ち、動物は産まれます。人間の努力や計画など必要ともせずに。贈り物は稼ぎ出さねばならぬものではありません。贈り物を受け取るという観点から人生を見ることは、豊かさの態度を意味し、感謝という心の働きを自然に養います。自由に受け取っていた大地の贈り物が交換の対象となったのは、農耕の出現をおいて他になく、まず収穫物は労働の引き換えとなり、やがて商取引の対象となりました。これと対照的に、贈与ギフトの精神は採集者の無頓着と一致し、生活に必要なものは与えられるのであって取り出すのでないなら理にかなっています。

それでもまだ、不安理論を救うことはできるかもしれません。病気はどうでしょうか? 学生たちに最も価値ある近代テクノロジーの成果は何かと問うと、彼らは決まって医学を挙げ、それが歴史上例を見ないほどの健康、安全、長寿をもたらしたといいます。しかしこのような見方は、その当時に一般的だった怪我や病気の治療に伝統的な薬草医学がもつ力とその洗練の度合いを認識できません。それはウェストン・プライスの知見とも対立します[27]。プライスは20世紀の初頭を生きたアメリカの歯科医でしたが、開業してから数十年間で目にした歯の健康状態の悪化に興味を持ち、虫歯や歯並びの悪さの他にも、以前なら希だった歯科以外の多くの病気の患者数が急増したのは、私たちの食生活に関係があるという仮説を立てました。彼は医院をたたみ、まだ近代の食物を取らずに暮らしている人々を訪ねて、その後長い間をかけて世界中の辺鄙へんぴな場所を旅しました。彼が訪れた社会は全て石器時代のものではありませんでしたが、私たちの基準からすれば原始的でした。彼はラバでしか行けない人里離れたスイスの村や、スコットランドの離島に行き、アフリカのマサイ族やアラスカのイヌイット、オーストラリアのアボリジニ、太平洋のポリネシア人と一緒に暮らしました。この全ての場所で、虫歯も肥満も心臓病も癌も全く見つかりませんでした。その反対に彼が見たのは、見事な肉体的スタミナ、安産、32本の歯が全て揃った堂々とした顎でした。食生活は場所ごとに異なっていましたが共通していることがありました。精製された炭水化物をほとんど食べることがなく、多量の生きた発酵食品と、相当量の脂肪と臓物を食べていました。ビタミン摂取量は現在の基準より何倍も高いものでした。私たちの健康を保ってくれているはずの現代医学を持たない原始的な人々が、少なくともいくつかの点で現代の標準よりも健康だったという主張を、プライスの研究は支持します。

近代テクノロジー以前の生活を理想化しようというつもりはありません。たしかに、以前の私たちは暑さ寒さや雨風という自然の力にさらされていました。ラダックの冬はかなりの寒さでした。クン人は一年のある時期に良い食物を手に入れることが難しく、乾季の間に1〜2キロ体重を落とすことが多かったでしょう。飢えることもあったでしょう。人口が集中する以前の時代に感染症は希で、食品加工産業がない頃に変性疾患は希だったものの、命や手足を失うような他の脅威はたくさんありました。子供がライオンやハイエナに殺されることもあったでしょう。クン人は平和的で分かち合いの精神を持つ民族ですが、それでも時には殺人があり、男女関係の嫉妬がきっかけとなることが多く、血で血を洗う抗争が何十年にもわたり断続的に続くことにもなりました[28]。

世界の他の場所では、狩猟採集民は絶えず続く低レベルの戦争状態に生きていて、ときに残虐な暴力が勃発していた、という主張があります。最もよく知られているのはニューギニア高原の部族で、成人男性の暴力による死亡率は20〜30%と報告され[29]、アマゾンのヤノマモ・インディアンはナポレオン・シャグノンの著書『ヤノマモ:残忍な人々』で一躍有名になりました。シャグノンの主張によれば、このような「生きた祖先」が暮らしていたのは、成人男性の約44%が殺害される永続的な戦争状態でした[30]。他の人々の主張によれば、彼の数字は大きく誇張されたものです[31]。論争のポイントはこういうことです。おそらく暴力は我々の遺伝子に刻み込まれている。シャグノンの師である遺伝学者のジェームズ・ニールは「近代文化が弱者のために支援的介入をするのは〈劣性な〉行為だと考えていた。近代社会は人類の元々の〈人口構造〉から掛け離れてしまった。元々の社会は小さく比較的孤立した部族集団で、男は女に近付く権利をめぐって〈暴力的に〉争っていた。ニールが当然視していたのは、このような社会では最高の戦士が最も多くの女と子供を持つことになり、〈先天的能力の指標〉という遺伝子をより多く次の世代へと渡し、その結果として遺伝子プールの継続的な資質向上につながるということだった。」[32]

私たちはホッブズのいう暴力と恐怖の過去から上昇したのでしょうか? 私たちが出会った原始的な民族のこれほど多くがもつ好戦的な性格を、他にどう解釈できるでしょうか? 社会を支配する「悪魔的な男性」という遺伝的プログラムを文化によって克服するまで、私たち人類は永続的な戦争に閉じ込められたままなのでしょうか?

じつは、よくあるパターンなのですが、シャグノンが出会った暴力は大部分が西洋との接触がきっかけとなって始まる混乱から発生したもので、皮肉なことに彼自身の存在が原因でした。調査ジャーナリストのパトリック・ティアニーは次のように書いています。「博士課程でシャグノンと共同研究したケネス・グッドは、ヤノマミ族の中で12年間生活し、これはアメリカの他のどの人類学者より長い期間だった。グッドはシャグノンのことを『当て逃げ人類学者』と呼び、『彼は自分の研究に協力するよう買収するために山刀マチェーテを幾抱えも持って村にやって来た。残念ながら、彼は行く先々で争いと分裂を引き起こすのだ』と書きました。」[33] ティアニーはさらに続けます。

1995年に、ラトガーズ大学の人類学者、ブライアン・ファーガソンは、『ヤノマミ族の戦争:その政治史』を出版したが、その本は『残忍な人々』などのシャグノンの研究から引き出された社会生物学的な理論に疑問を投げかけるものだった。ファーガソンの本は何百もの資料を分析し、記録に残っているヤノマミ族の戦争のほとんどは外部からの撹乱によって、特にはがねの製品と新しい病気が持ち込まれたことによって発生したと書いた。斧と山刀マチェーテは、農耕の道具として、また交換の対象として、ヤノマミ族では誰もが熱望するようになったとファーガソンは記した。彼の説明では、キリスト教福音派の伝道者が50年代にヤノマミ族の領地にやって来て、改宗者を増やすために斧と山刀マチェーテを分け与えたため、うかつにも同地域を戦争に陥れてしまった。やがて、布教本部のなかには社会安定の中心となり需要の高い医療を提供するところも出てきた。だがシャグノンはヤノマミ族の死亡率の研究で村から村を回り、鋼の製品を分配して説得したのが、死んだ血縁者の名前を彼に教えることだった。これは部族のタブーを犯すもので、…このような方法が地域の安定を損ない、実際には、シャグノンがヤノマミ族の残忍さにその原因があるとする、ある種の戦争を助長した。

これは極端な例かもしれませんが、その原理ははっきり分かります。「接触以前」の社会がどのようなものだったかを知るのは非常に難しいのです。西洋テクノロジーや細菌、通商の影響は、どんなに人里離れた場所であっても、最初の人類学者よりも先に来ていて、それが社会の崩壊を引き起こすのが普通です。同じことが人類以外にも当てはまります。霊長類学者のマーガレット・パワーが示すように、野生のチンパンジーが見せる仲間殺しの行動は、私たちが生まれつき持っている悪の証拠として引き合いに出されますが、それが起きるのは撹乱された群れだけです(厳密にいえば、研究者が接近できるのは撹乱された群れだけなのです)[34]。特に、研究者が使う方法は群れの移動性を減らし、争いを生み出します。

私たちが類人猿や原始社会に好戦的な性質を見るとき、その多くは私たち自身の影を見ているのかもしれません。

後半に続く

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注:
[22] ステファン・ハロッド・ビューナー [Stephen Harrod Buhner] , Sacred and Healing Herbal Beers. Siris Books, 1998.
[23] リチャード・ボルシャイ・リー [Lee, Richard B.] The Dobe !Kung. Holt, Rhinehart and Winston, New York, 1979. p. 50-55
[24] ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ [Norberg-Hodge, Helena.] Ancient Futures: Learning From Ladak. Sierra Club Books, 1992.
[25] デリック・ジェンセン[Derrick Jensen], A Language Older Than Words, Context Books, 2000. p. 85-86.
[26] マーシャル・サーリンズ[Sahlins, Marshall], Stone Age Economics, Aldine-Atherton, 1972. pp. 30-31
[27] プライスの知見が書かれた古典的著書, Nutrition and Physical Degeneration. Price-Pottenger Foundation, 1970.
[28] リチャード・ボルシャイ・リー [Lee, Richard B.] The Dobe !Kung, Holt, Rhinehart and Winston, 1984. p. 81, p. 91
[29] リチャード・ランガム [Wrangham, Richard], デール・ピーターソン [Dale Peterson]. Demonic Males: Apes and the Origins of Human Violence. New York: Mariner, 1996. p. 76
[30] ナポレオン・シャグノン [Chagnon, Napoleon A.] “Life Histories, Blood Revenge, and Warfare in a Tribal Population”, Science, Feb 26, 1988 v239 n4843 p985(8)
[31] トーマス・メランコン [Thomas Melancon], Marriage and Reproduction among the Yanomamo Indians of Venezuela. PhD dissertation, UMI, 1982, p 42. Cited in a Brazilian Anthropological Association letter to Anthropology News, 1989.
[32] ジュノー・グレゴリー [Gregory, Juno.] “Macho Anthropology”, Salon , Sep. 28, 2000.
[33] パトリック・ティアニー [Tierney, Patrick.] “The Fierce Anthropologist” The New Yorker, Nov. 6, 2000.
[34] マーガレット・パワー [Power, Margaret.] The Egalitarians: Human and Chimpanzee: An Anthropological View of Social Organization. Cambridge University Press 1991


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-1-05/


2008 Charles Eisenstein


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