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5/17(金)公開 『ありふれた教室』映画評と『システム・クラッシャー』(おまけ)

『ありふれた教室』

「スコラスティック・スリラー」って言葉、はじめて聞いた。
たしかにこの作品の大人たちが右往左往していく様はまさに「スコラスティック」、衒学的で高慢だった。

本作、スリラーとしての起承転結の流れは分かりやすいものの、画面上では描かれない大人たちの腹心とオスカーの最後の行動について考えれば考えるほど、教育現場の心理を丁寧に描写する傑作だと思える作品だ。


ルービックキューブが示すこたえ

作中で主人公・教師のノヴァクがルービックキューブを生徒に託すシーンがある。その生徒・オスカーは成績優秀で、母親は彼が通う学校の教員として、つまりノヴァクの同僚として勤務している。オスカーは物語を動かすキーパーソンであり、彼に託したルービックキューブもまた、この物語を締めるキーアイテムとして、エンディング間近で異彩を放つ存在だ。

このルービックキューブは「アルゴリズムの象徴」としてノヴァクがオスカーに渡していて、非常に意味ありげな演出を含んでいる。本作の終盤、オスカーがノヴァクに全面が揃ったルービックキューブを戻すシーンから逆算して、本作のことを考えてみる。

あのルービックキューブは答えを導き出すアルゴリズムの例としてオスカーに渡されたものなので、この物語の結末にオスカーがノヴァクに「答え」を提示したことにつながる。

その答えとは、自分の母親に嫌疑がかけられた校内窃盗騒動に対して最後まで反抗するという表明。オスカーは謹慎中にもかかわらず教室に居座って沈黙を貫き通すことを反抗の手段として選んだのだ。

彼は方法を変えながら何度も母親の無罪を主張してきた。最終的にはノヴァクのパソコンを奪って川に投げ捨てる暴挙に出たけれど、そこでもまだ彼は声を荒げて母親の無罪を主張をしていた。そして破壊行為の末に停学処分に処されてしまった彼の最後の抵抗手段は沈黙、ということをあのルービックキューブが示唆している。

とすると、この物語の真髄は「対話と沈黙」にあるのかもしれない。
本作では、公用語であるドイツ語以外の言語をそれを理解しない人の面前で話したり、騒動の火付け役であるノヴァクが学生新聞に教師陣を密告するような真似をしたり…その内容に関わらず「軽はずみな発言とコミュニケーション」が目立つ。大人と子ども・教師と生徒という関係性の中の軽薄で高慢なコミュニケーションが延焼を招いた。「口は災いの元」を1番理解していたのがオスカーであり、彼の最後のアクションが「沈黙」なのは、あまりにも聡明で力強い。椅子に座したまま警備員に担ぎ出されるエンドロールのオスカーはさながら王様のように見える。学内の悪政に屈しないぞと言わんばかりの、さながらダークヒーローのような佇まいだった。

教室の定義や在り方について

話は変わって、教室という場についての考察をしてみる。

冒頭の抜き打ち荷物検査で男女に分かれるシーンが印象的だった。
我々に見せつけるかのように「女の子に見える」生徒が男子サイドに残ったのが記憶に焼き付いている。一方、物語の後半でトムに「裏切り者」と言い放ったジンという生徒の一人称は「僕」だったが、荷物検査のシーンでは他の女子生徒と同じように席を立った。

他にも、一口に移民という要素を持つ生徒でもアリのように成績が振るわない子もいるし、成績優秀な子(あのムスリムっぽい子。移民に"見える"が、実態は分からない。)もいる。多様な人種とLBTGフレンドリーであることから、教室の中がドイツ社会の縮図であること、或いはそうあるべきだという願望が反映されている気がする。では、肝心の教師陣のマインドは作中でどう描かれているか。

職員室の騒動を教師の視点から俯瞰してみると、彼らは子供たちのことを「個ではなく集団として」「人間ではなく管理対象として」見ている。アリの両親にも「移民」というレッテルを貼ることで、そのカテゴリを用いて統制しようという傲慢な思惑を感じた。

さらに、教師が子供たちのことを「集団」として見做しているのなら、その両親への眼差しも同じだ。彼らは学校が隠匿する事実を公表するには値しないただの「保護者集団」として見做すーつまり教師にとって子供たちの延長線上の存在に過ぎないのだ。

そうして集団として管理される生徒や保護者が真相を求めてボイコットしたのも当然だろう。生徒たちがオスカーを擁護するだけの一枚岩ではなかったのも、個としての好奇心や意見の様々を感じられて、ジャーナリズムに旺盛な先進国の縮図のようで良かった。

生徒たちの個性や価値観が校内で爆発し放散していく一方で、教師陣は生徒のことを個々の人間ではなく、教室・子供・移民といったフィルターを通して認識している。だから教師と生徒の間に軋轢が生まれるし、オスカーからルービックキューブを受け取ったノヴァクが(解決したわね…)と微笑むような表情を見せたのだろう。個人としてではなく子供として言いくるめることができた、社会の民意ではなく教室を管理できた、といった具合に。

そう、この映画はオスカーとノヴァクの仲直りハッピーエンドではないと解釈できる。

5/17(金)~公開中

社会>学校・教師>教室・生徒、というスケール感に陥りそうなところで、実は社会と教室がイコールであることを示唆している。学校と教師の在り方、ひいては生徒や保護者とのパワーバランスが問われる作りだ。劇中の学校の教育方針は圧政に近いものがあって、それがサスペンスとしての高揚感に一役買っているのはもちろんなのだけど、現実問題として生徒たちを「統制」しようとする教育現場の存在は想像に難くない。

犯人が誰かというのを探るサスペンスとして以上に、生徒たちが持つひとりの人間としての考え方や権利を無視してはいけない、でも組織の中である程度の統率は図らなければならない、と権力勾配と学校教育のバランスを問いただす作品。

自分は教育者でも親でもないけれど、そこそこの学校教育を修了したひとりの大人として、考えれば考えるほど良い作品だなあ…… と思う。なにより、12歳の子供のことが真摯に考えられていて、「大人が考えました」感のない生徒の造形のリアルさに感動した。

おまけ『システム・クラッシャー(2019)』との類似性

『ありふれた教室』は、4/29(金)公開の『システム・クラッシャー(2019)』と合わせて鑑賞されたい。

嵐のような9歳の女の子ベニー。幼少期、父親から受けた暴力的トラウマ(赤ん坊の時に、おむつを顔に押し付けられた)を十字架のように背負い手の付けようのない暴れん坊になる。里親、グループホーム、特別支援学校、どこに行こうと追い出されてしまう、ベニーの願いはただひとつ。かけがえのない愛、安心できる場所、そう!ただママのもとに帰りたいと願うだけ。居場所がなくなり、解決策もなくなったところに、非暴力トレーナーのミヒャはある提案をする。ベニーを森の中深くの山小屋に連れて行き、3週間の隔離療法を受けさせること…。

https://crasher.crepuscule-films.com/

『システム・クラッシャー』は『ありふれた教室』より1か月前に公開された教育系映画、さらにどちらもドイツ発という親戚のような類似作品だ。

『ありふれた教室』では教室や学校という組織を描いている一方で、『システム・クラッシャー』はひとりの少女が道場破りさながら施設を転々とする様子を描く。

その様相はまるで非対称のように見えて、『システム・クラッシャー』の主人公ベニーは『ありふれた教室』の舞台である学校が掲げる「不寛容方式」に拒否反応が出た子供なのだ。

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同一直線上に存在するこの2作品、子供を切り取るその眼差しは素晴らしいものだが、こと『システム・クラッシャー』に登場する大人たちの存在を考えると、手放しでほめたたえることも難しい。

『システム・クラッシャー』は、エンドロールの曲にもあるように、ベニーの生き方そのままを肯定する作品だ。物語後半、ベニーがスケート場の氷面に男児の頭部を何度も打ち付けて半殺しにしてしまうのだが、それに対して本人が罪悪感を覚える(=大人が罪悪感を教える)様子は描かれなかった。

絶対に肯定してはいけない行為に対する罪の意識や反省が見られなかったこと、それはこの映画を作った人たちも含め、教育者たちの諦めも大きなテーマだと解釈できる。問題児のベニーを野放しにするほかない、というエンディングだとすると、一見明るい幕引きに見えてもとても不幸でやるせない物語なのだ。

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『システム・クラッシャー』でベニーと心を通わせたミヒャという男性が登場する。彼が言い放った「自分なら彼女を救えるはず、そう思い上がってしまった」というセリフが頭から離れない。

『ありふれた教室』でこのような謙虚な教育者がいただろうか。

改めて教育者の傲慢さは子供たちに筒抜けなのだと実感する。



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