「天皇国日本」史観を終焉して、日本の人間を始めよう。



東大史観~修正皇国史観。これは異端で廃棄。


当然に、旧皇国史観・縄文過剰評価は、棄教。




カトリックは、カルトなので、日本国のDへの弔辞は間違いではない。



ハリストスが始められた教会は一つです。しかし現実的に残念ながら教会は分裂してしまいました。同じ正教会(オーソドックス)と呼ばれるものの、すでに5世紀ごろから分離した教会があります。ハリストスに神としての一つの本性しか認めない「単性論派」の教会です。現在、エチオピア正教会、コプト正教会、シリア正教会、アルメニア正教会などがあり、非常に伝統的である点はまさしくオーソドックスです。これらの教会と私たち正教会との正式な和解は未だですが、歩み寄りはなされています。
次に「②ビザンチン時代」で少しだけふれたように、ローマ・カトリックと正教会の分岐が起こりました。実は地理的な問題、文化的な問題、政治的な問題もあいまって、ローマを中心とする教会と正教会は早い時期から亀裂を生じていました。
「カトリック」とはもともと「完全」とか「普遍」とか「公」という意味をもつギリシャ語で、正教会も、すべての時代すべての場所に共通する真理をもっているという意味では、「カトリック」です。

しかし、ローマ・カトリックでは、ローマ法王を最高権威として全世界に教会を行き渡らせるという意味をもっています。
そいう意味では正教会は「カトリック」ではありません。

正教会とローマ・カトリックとでは明らかに伝統も歴史も文化も神学も組織も異なります。日本では認識不足の故に、しばしば正教会がカトリック教会の二つとして説明されたりしますが、全くの誤解ですのでご注意ください。ローマ・カトリックと正教会の違いは、ここでは説明できないくらい大きくまた細部に渡ります。

一番大きな差は、全世界の最高権威を主張するローマ法王を正教会は認めないことです。

神ハリストス以外に世界の最高権威は存在しません

習慣的な差としては、カトリック教会側か妻帯司祭を認めないこと、ミサに無発酵パンを用いること、礼拝に楽器を使用することなどがあげられます。つまり正教会では、妻帯者を司祭に任命することができ、聖体礼儀には発酵パンを使い、奉神礼では一切楽器を使用せず肉声だけで行ないます。

新教の教会は普通「聖書のみ」がキリスト教の土台であり、聖書に書いてないことは教会として認めないという立場をとります。
聖書が正教会の聖伝から生み出されたことを全く無視しているわけです(実際的な面から見ても聖書を原語のギリシヤ語で写本して守ってきたのは他ならならぬ正教会です!)。

もちろん、正教会はその聖書に根ざした信仰を正しく守っています。プロテスタント各派は、正教会のイコンを偶像視しますし、十字架なども切りません。

中には三位一体の神を唱えなかったり、ハリストスが人となった神であることも無視したり、ただ愛の教えを命がけで説いたお方だとか、十字架によって人類の負うべき罪(罪というより罰)をハリストスが身代わりに背負ってくれたことが救いであるとだけ言って満足する教会もあります。


西方教会では、「原罪」の考え方から、全人類に対する神の罰をハリストスが身代わりに受けてくれたことによって救われると強調します。つまり十字架を、全人類のため、私たちの代わりにハリストスが引き受けてくれた刑罰だったと解釈します。
私たちはそのままでは全員地獄行きだけども、私にはその刑罰に耐える力はないので、ハリストスが身代わりになってくれたというわけです。
確かに、聖書には、「苦難の僕」という有名なイサイヤの預言があり、そこには、人々の罪を引き受けて受難するメシアの姿が記されています(53章)。

正教会でも、この「苦難の僕」は、ハリストスを指すと解釈します。

しかし、ハリストスは罪だけではなく、私たちのすべてを引き受けて十字架にかかったことを見落としてはなりません。
では、正教会の教える「救い」とは何でしょうか

「罪」が「あるべき姿を失う」ことであるなら、「救い」とはそれを取り戻すことです。

「罪」が神との分離、神の像の破損であるなら、「救い」とは神との一致であり、神の像の回復です。

「罪」が悪魔、苦難、死と一つのものなら、「救い」とは悪魔の敗北、苦難の終結、死の死滅です。

これらすべてを、私たちのためになさったのが、人となった神ハリストスの十字架と復活です。

神が私だちと同じ人間になったという「籍身」によって、すでに私だちと神との一致の道が開かれました。完全な神の像であるハリストスによって、私たちの神の像は回復されます。

そして私たちがどうしても通らなければならない死という究極の不条理を、ハリストスはご自分の死と復活によって、敗北させました。

正教会では「ハリストス、死より復活し、死をもって死を滅ぼし」と復活祭の時に歌います。かリストスの死と復活は、死の本質を変容させました。

死はもはや不敗の敵ではなくなりました。

死を滅ぼすハリストスの十字架は、悪魔の敗北でもあります。

ハリストスの十字架は、復活の印です。ハリストスの十字架は勝利の旗です。ハリストスの十字架は生命を与える力です。洗礼を受けるということは、救いを与える十字架と復活のハリストスと一つに結び合わさるということなので、「信経」で「我、認む、一の洗礼、以て罪の赦を得る、を、」と言います。もちろん究極的にこのハリストスの「救い」をいただくか拒絶するかは、私たち一人一人の意志にかかっていますが、「救い」は人の努力によってではなく神によってのみできることを忘れてはなりません。


聖書・預言に「時間を与えるカス共」がおかしいのよ
聖書・預言は形而上の「音」であるならば「時間と時間性は皆無」なわけで…正直、アルプス山脈超えた先にいる原住民の「知能に合わせた愚論」というのが的確
数字自体に意味がある場合と意味がなく別義がある場合を読み違えるとそーなる
午後7:59 · 2023年11月13日

天皇を終わり、日本を始める。

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みの富む社会になりますように。

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