静かな部屋


都合のいいバカ


空から金が降ってくりゃあいいのに、
そんな都合のいいことは起こらない。

生きていく中で都合がいいことほどそうそう起こることはなく、現実を見れば見るほど起こることは現実的なことばかり。そりゃあ金でも降ればいいとかバカなことも書いてみたくもなる。この世を生き抜くためには、バカでいる方がいいのではないかと最近思う。自分がどれだけ被害を被ったのかとか、どれだけ搾取されてきたのかとか、反対に誰に何を与えたのかとか、そんなことを思わずに、ただ何も気づかずに生きている方がいいのではないかと思う。

生きることは減らしていくことだ。ライフを減らして、気持ちをすり減らして、金を減らしていく。減っていくばかりの日常。ホント、バカになった方が得かもしれない。



出しがい


毎日出していると体力が落ちていく気がする。
そしてあからさまに量も減っていっている。
「何が」かは言わない。
「何が」まで説明するのは野暮である。
ただ減っていっているのは明確なる事実である。

そして“出しがい”もない気がする。

”出しがい”とはなんぞやという話である。
自分も初めて使う言葉である。
しかしこれ以上に表現する言葉が見当たらない。
なので、”出しがい”と表現する。
やっぱり日をおいて出した方が”出しがい”がある。
量が少ないとなんだか出したとしても程度が知れた感覚で終わる。
出し方を変えた方がいいのかもしれない。
ネットで検索すると、それ相応の道具があったりする。
そういうのに頼った方がいいのかも知れない。

「何が」とは言わない。



静かな部屋


やけに静かだ。

この部屋には音がほとんどない。
上の階の人が風呂でも入っているのか、チョロチョロと排水溝を流れてくる水の音だけが響いている。そのうちに水の音もしなくなって、誰の存在も疑わしいほどに沈黙が訪れる。今までこんなに静かな空間に住んでいたっけなと考えて、合点がいく。
窓を閉めているからこんなに静かなのだ。試しに開けてみる。まだ10月に入ってもいないのに札幌の夜は肌寒い。窓の隙間から、街のほんのりと騒がしい喧騒に加えて、ひやりとした空気が流れ込んできた。ああ。ようやく自分は生きていると実感できている。
外部とのつながりだけが、かけがえのない生命の証だ。自分だけの世界では自分はまるで息をしていない。誰かとの触れ合いが、誰かの認知が、息を繋ぎ止める。だからどれだけ内向的で人付き合いが辛くても、決して孤独を貫いてはいけない。孤独を貫けば、それは生きることを諦めるも同然だ。
それだけは忘れないで生きている。










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