都会の人、田舎の人
都会に住んでいるが、やはり街が目まぐるしく移り変わっていく。
お店の入れ替わりも激しくて、駅で見かける広告はやたらとギラギラしていることがとっても多い。
片や田舎は、街が全く変わり映えしない。
数年前と同じ景色が、数年後も続くことがなんとなく予想される。
自分は田舎育ちだが、田舎で育った期間、街の景色が大きく変わったことはほぼない。
どちらも一長一短。
けれど、個人的な感覚としては、都会に住んでいる人はやたらと呼吸のペースが早いと思う。
息をするのをとっても急いでいるような感覚。
いや、生き急いでいるとも言えるのかな。
都会は好き。
けれど、都会にいる人の呼吸の早さや、歩くスピード、人が多すぎてほとんど目の前の人に意識を払わない都会独特の空気感に、時折辟易する。
都会では、街を発展させたり、ビジネスがたくさん行われている。
どちらにしても、まるで体の細胞が光速で入れ替わるように、人々は新しいものを求めていく。
そして、少しずつ本来の感覚が麻痺してしまう。
心が少しずつ、つめたくなっていく。
自分は都会に出てきて、まる二年と少しだが、昔と比べて随分人の目が気にならなくなったなぁと感じる。
自分はそこがとっても悩みだったので、気にならなくなってよかったーーと安心する反面、過ぎ去る人に無関心になっているのだなとも感じる。
田舎であれば、人と人との距離はおそろしく近い。
「〇〇に住んでいる、〇〇の息子です!!」
と言えば、大抵伝わる。
それにもし知らなかったとしても、どこかしらから情報が漏れるのである。
何か問題が起きたら、それもすぐに尾ひれがたくさんついて広まる。思えば、人の目が気になっていたのも、田舎に住んでいたからかもしれない。
田舎では、都会ほど自由気ままに振る舞うわけにはいかないことがとっても多い。
田舎は田舎で謎の不文律というものが多々あるのである。
田舎にいる時と、都会に出てきた時とではたくさん考え方が変わったなぁと思う。
それは、自分の成長にも関係あるのかもしれないけど、環境に影響を受けている部分も大いにあると思うのだ。
都会は、たくさんの人がせまーーい土地をやりくりし合って暮らしている。
パーソナルスペースは自宅以外には望むべくもない。
ゆえに、都会ではやたらとマイホームにこだわる人が多いように思う。家が1番くつろげるから、その人の価値観における住環境の優先度が高いのである。
都会に住んでいて、本当に便利だなぁと日々感じているし、アクセスの良さや、ベタベタくだらない噂話に花を咲かせない土地柄も好き。
けれど、なぜだろうか。ときどき、あの田舎の田んぼの景色や、小学生の頃歩いた通学路や、公園の景色や、その他もろもろがなつかしくてたまらなくなる。
むしょうに自然に触れてのびのびしたくなるのだ。
都会では、なるべく多くの人が住めるように、街が整備されていることがほとんどである。
言葉を変えれば
「誰かの意志のもとに生きている」
とも言える。便利すぎる交通事情、街の区画、秩序だってバランスよく植えられた樹木。
どれもこれもが、誰かの意志のもとに整備されている。
けれども、田舎では、自然と共生していることがほとんどだ。綺麗に整理された街の区画などどこにもないし、木々も(人の邪魔にならない範囲内で)放ったらかしである。
田舎には、誰かの意思の元の統制は全くなく、寧ろ大自然のリズムに沿って生活が展開される。
だからなのかな。
何十年も都会で過ごした人が、なーーんにもない田舎に移住したがるのは。
人は、誰かの意思に人生を縛られるのは、本能レベルでは望んでいないのだろう。
そして、人がある意味で、本当に安心するのは母なる大地の元で安らいでいる時なのだろう。
昔、アメリカに行った時、ぼーーーっと海を眺めながら、共に留学した友人と語ったことがある。
・「死の迫った人は何を最後にのぞむのか?」
について。
答えは、スマホや、お金や、名誉や、地位ではなく
「母なる自然に抱かれて眠ること」
なんじゃないのかなという結論に至った。
このお話が、賛否両論あることはもちろん理解しているし、価値観を押し付けるつもりは全くない。
けれど、人は、本来は
「自然のリズムの中で生きること」
をのぞんでいるのじゃないかなと思った。
もちろん、自然は過酷だし、容赦ないし、その過酷さに耐えられるように文明を発展させてきた一面もあるから、簡単に善し悪しでは語れないけど。
けれど、人はいつか自然の中に還りたいと思うものなのかなーーなんてふと思った(*´ω`*)
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