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『空』とは何か?

【空とは何か?】

仏教に

『色即是空』

『一切皆空』

『本来空』

とあります。

『ささめごと』(心敬 著)には、こう書かれています。

「仏五十年の説法も、三十年は畢竟空を説けりとなり」

『空』は、

仏教の根本教理であり、

仏教を理解するうえで、

『空』が非常に重要なキーワードになります。

では、『空』とは一体何でしょう?

『わかりやすい 仏教用語辞典』
(大法輪編集部編 大法輪閣)

に、こう書かれています。
(224頁〜226頁)

「空は『シューヌヤ』の訳語であるが、シューヌヤとは、『ゼロ』の意味である。

ゆえに本来の意味では空と無とは違いがない。

しかし『無が有る』とはいえないが、『無が無い』ともいえない。

無は主語になり得ないものである。

すなわち無は『虚無』の意味であるか、或いは何物かの欠除態を示す言葉である。

すなわち『本が無い、太郎がいない』等と、あるものの無を示す場合に使われる。

これが『無』の原意であるが、しかし老子の説く無や、禅宗の説く無などは、このような欠除態としての無や虚無ではなく、もっと積極的な『無という在り方』を指している如くである。

仏教の説く『空』も虚無の意味ではなく、存在の本性を示す積極的な意味を持っている。

ここに空と無が合する面と離れる面とがある。

(中略)

一切法の空を説き、縁起は空であるという場合の空は『媒介性』の意味である。

存在に変化が可能なためには、存在は動的でなければならないが、動的存在の本性は空であるという意味である。

すなわち空は媒介性の意味である。

ゆえに存在が無限に豊富な内容を持っていることと、その本性が空であることとは矛盾しないのである。

これが『般若経』や中観派の理解する空である。

この空は無と同じでない。

(中略)

老子に『天下の万物は有に生じ、有は無に生ず』の言があるが、この無も万物の源泉としての動的な無を示したものであろう(静的無は虚無である)。

中国に『般若経』が伝わったとき、この老子の無の思想が『般若経』の空思想の理解に読みこまれ、心無義・本無義・即色義等が説かれた。

そのために中国では、仏教の空を『無』の語で理解することが行われた。

『空』の訳語の方が優勢であるが、『無』の語も用いられる。

この場合の無は虚無の意味ではなく、『般若経』の空を示す語であるが、しかし中国の伝統的な無の思想がふくまれており、『般若経』本来の空の思想とは同じでない面がある。

禅の無の思想もこの系統の思想である。

動的な無の意味である。

動的な存在は把握できないので、把握できない点を無というのであり、無なるがゆえにかえって無限に豊富な内容があるのである。」

空の解釈には諸説あり、その真偽は言明できません。

『空』はサンスクリット語で『シューニヤ』といい、数学の『ゼロ』を表します。

個人的見解ですが、

『空』とは、

『原点、物事の起点・起源』

だと認識しています。

則ち、

『宇宙の本源・起源』

です。

つまり、

『純粋意識の場・純粋な可能性の場・知性の泉』

です。

今風に言えば、

『ゼロ・ポイント・フィールド、宇宙意識』

です。

天風哲学的に言えば、『宇宙霊』です。

古代インド思想で言えば、『ブラフマン』です。

則ち、宇宙の根源であり、生きとし生けるものの中心であり、源です。

宇宙は一元です。

宇宙に存在するものはすべて、

ゼロ・ポイント・フィールドから生み出されました。

一切皆空です。

物質も空間も時間もすべて、『空』です。

私たちは宇宙意識のアバター(分身)です。

私たちは本来、ワンネスです。

“We are the world.”

”We are the children.“

です。

『私たちは宇宙のさざ波である』

“aham brahman asmi”
(アハム・ブラフマン・アスミ)
『私の中心は究極の実在であり、宇宙の根源であり、生きとし生けるものすべての源である』

『わかりやすい 仏教用語辞典』
(大法輪編集部編 大法輪閣)




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