井口潔氏に学ぶ⑵一「敗れて目覚める」

 九大医学部教授でNPO法人ヒトの教育の会の井口潔前理事長の「第76回終戦記念日を迎えて一「敗れて目覚める」の再確認!」と題する講演資料が同会現理事長の小柳左門先生から送られてきたので、昨日のノートの続稿として、その一部を紹介したい。

 江戸・明治時代は「武士道精神」に従うという理念によって、「人間の五ケ条」(本ノートの前稿参照)は自然の秩序に従うものでしたが、昭和期に入ると自我の臭気粉々し、この自然の秩序とは異質なものになりました。

伝統的子育て・道徳教育を否定した戦後

 人間の親は「ヒト」の赤ん坊を生んだが、それは「人間の子」ではありません。「ヒト」は、チンパンジーの体に巨大脳が備わった生物、ホモ・サピエンスです。「ヒト」はどのようにすれば「人間」に育てることができるのでしょうか?
 今次大戦前には、伝統の子育ては各家庭や地域に継承されていましたが、敗戦後は伝統的道徳教育は禁止され、伝統は破壊されたので、生物学的視点から人間教育というべきものを私は創ってみました。そのために「万物」にはなく、「人間」だけに存在する特異点は何かを追究すると、その一つは「自意識」です。
 「自意識」は「万物」には存在せず、本能で生きて旺盛な繁殖をしています。「自意識」は心で生きる生物には不可欠の機能ですが、それには善もあれば悪もあり、美もあれば醜もあるので、正しい「自意識」を自分で選別することができるかの問題については、前川孫二郎氏(京都大学内科学名誉教授)は「直観と自覚」によって可能との学説を出して、哲学界の大御所、西田幾多郎氏を驚かせました。
 これらは宗教という「超人間の秩序」の不可思議さを感じさせます。宗教には排他的な面もありますが、宗教はずっと人類を統一する不思議な智慧の一つになっています。人間の気まぐれではなく、至上の権威が定めたもの、「超人的な秩序の信条に基づく規範」を人間に提供します。宗教という「超人間的秩序の智慧」を持たないと、人間は「知性の自我」に陥り、「大自然の秩序」に従うことなく、身体的・物理的な欲望の淵に飲まれてしまうのです。

自我による道徳の変容

 13世紀頃、西ヨーロッパではルネッサンスが起こり、大学ができました。神学、哲学、法学、医学が大学に必須の学部であり、神の「召命」に対して受託を告白(profess)した者が、「教授(professor)」なのです。
 大学の仕組みはこのように神の「召命」と人格の「使命観」に支えられて出来上がっていたのです。ところが、18世紀頃になると科学技術の発明を契機として、科学者という知的専門家集団が現れ、価値観の規準は「神から自然」に、「自然からもの」に、「ものから情報化された物欲」に変貌し、知性とは「欲望を求める自我の源とも解される世相」となりました。イギリスの哲学者フランシス・ベーコンは1620年に「科学は力なり」と主張しました。
 昭和初期の世相には、「知性の自我」の臭気を感じます。私は「敗けて目覚める」との決意には「人間教育」の基盤として神格による「召命」と、それを享けた人格の「使命観」の「超人間秩序」をここに設置することを提案したいのです。
 心で生きる生物「人間」の営みが、「形而下」の物欲、身体的なものにすり替えられることがないように、つまり、「魂」で生きる生物であることを明確に貫くことを祈念します。

クリスティン・ホークス「おばあさん仮説

 1997-8年にかけて、クリスティン・ホークス等数人の人類学者が興味ある学説「おばあさん学説」を提案しました。それは、女性は自らの繁殖の後、自分の娘や近縁者の子育てを援助することによって結局は繁殖成功率を向上させることができたというものです。
 人間の離乳期後に行うべき使命の期間は実に長いのです。この長さは義務ではありません。ヒトの寿命の長さを示す尺度の一つに霊長類などの肝臓のSOD(スーパーオキサイド分解酵素)があり、SODが分泌されるので寿命が延び、おばあさが現れるのです。母親一人で子育てするよりもよりよい子育てをすることができ、子育ては孫にまで及び、母親自身の子育ての労力を軽減して結果的に子育ての質を高めることになります。何とありがたいことか!
 おばあさん仮説では「躾の四訓」で古くから語られているように。「乳児は肌を離すな。幼児は肌を離して手を離すな。少年は手を離して目を離すな。青年は目を離して心を離すな。」の心がけのように、おばあさんの心、すなわち「内部環境」がどんどん改善して進化しているのであり、心で生きる生物「人間」の場合には躾をするおばあさんの「内部環境」の質が改善しているのです。
 つまり、子にとっての躾・養育環境(子にとっての外部環境)が改善しているという進化現象がおばあさん仮説には起こっているのです。これは、神格の召命」、それに応えての人格の「使命観」のもたらす「超人間秩序」の恩恵ではありませんか。心で生きる人間の「魂」の不可思議な妙技に打たれる次第です。
 神格は人格と共同で大いなる理想の企画を進めようとしているのではないでしょうか?これが神格の「召命」、人格の「使命観」の本体ではないかとふととんでもないことを思ったりします。神は人間に対して「そこまで本気で考えるのであれば、こんな奇蹟もしてあげられるよ!」と寿命の延長の鍵を見せて下さる茶目っ気もおもちなのです。


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