見出し画像

新しい小説

 以前の投稿で、現在翻訳中のトリスタン・ガルシアというフランスの若手作家が書いた『7』という小説のことについて、ほんの少しだけ触れました(河出書房新社から来年には刊行されるでしょう、たぶん)。
 なにしろ文庫本の原書で650ページもある大著なので(400字原稿用紙換算だと1300枚ほど)、ようやく三分の二程度まで達したところです。
 長丁場の仕事なので、半分ほど先にゲラ(初校)を出してもらいました。前半の直しと後半の翻訳を同時に進めるという、初めての試みです。
 そして、とても不思議な体験をしています。初めての体験だからというのではありません。緊張しているわけでも興奮しているわけでもありません。ゲラを読んでいると、名状しがたい感覚に襲われるのです。あえて言うなら、初めて印刷されて出てきた文字組(版面)を見ていると、異様な静けさがやってくる。まるで命が吸い取られていくような……。
 こんな思わせぶりな書き方をすると、え、いったいどういう内容なの、と膝を乗り出してくる人もいるでしょう。
 でも、予告のようなことはやったことがないし、そもそもあまり気が進まないのです。
 どうしてかというと、翻訳(執筆)は密室の仕事であり、仕事の進行は企画の段階から本ができて、見本が手元に届くまで、編集者とのあいだで、阿吽の呼吸というか、暗黙の了解というか、そういう閉鎖的な場所で進められるものなので、途中経過を白日の元にさらしてしまうことに抵抗を感じるのです。
 このnote を初めてすでに半年以上になります。すべての投稿は、読者の反応を探るための実験的なものでした。反応を度外視して、好きなことを書いていたいのなら閉ざされた(?)ブログで十分です。でも、フォロワーの数もスキの数も可視化されているのですから、それを何らかの形で取り込んでいかないと、note を始めた意味がありません。実験というのはそういうことです。ひとつの投稿に対して、数として、あるいはコメントとしてどんな反応が現れるか。
 というわけで、今回の投稿は新しく出る本(といっても来年になるでしょうが)について、今までよりも踏み込んだ内容紹介をしてみようと思います。と言っても、ブラックボックスに照明を当てて、丸裸にはしたくないので、その辺はご容赦願います。

 タイトルの『7』は、サブタイトルのことも含めて、はたして原書どおりになるかならないかは、蓋を開けてみないことにはわかりません。まぁ、今のところは仮題ということにしておきましょう。
 さて、この『7』という、あまりにも素っ気ないタイトルの由来ですが、小難しいことを考えなければ、作品の構成が七つのパートから成り立っているということが挙げられます。「パート」という言葉を使っているのは、日本語の「部」も「章」のこの作品には当てはまらないからです。
 要は短編小説集かと思う人もいるかもしれません。でも、違います。一編一編が平均50ページくらいあって、なおかつ最後の一編は300ページ近くもある。これだけで長編小説と言えるくらいの分量です。
 じゃあ、なんなのか? 中編小説集? 残念ながらフランス語には「中編小説」という単語も概念もありません。日本語にしたって、一般読者にはあまり馴染みがないだろうし、たんに短めの長編小説や長めの短編小説を指して言っているにすぎない。
 じつは長編小説と短編小説の違いを明確に定義するのは、けっこうむずかしいのです。長編小説には「人生」(世界)が描かれていて、短編小説には「人生の一場面」が切り取られているいると言っても、あまりしっくりこない。
 フランス語で長編小説はroman と言います。短編は nouvelle です。英語だと、長編はnovel 、短編はstory とか conte とか、フランス語とは違います。
 で、この『7』のフランスの版元(Gallimard)は、roman miniature と名付けている。すなわち、「ミニチュアの長編小説」、うまいこと言うものだと思いました。
 でも、形式的なことにはあまり拘らないことにしましょう。
 問題は内容です。
 最初の一篇(タイトルがついていますが、あえて伏せておくことにしましょう)は、記憶を自由に操作できるドラッグについての話です。語り手は四十代のドラッグの売人です。ちょっとした偶然から、この売人が奇妙なドラッグ・セクト(?)と関わりを持つようになる。このセクトの中心人物は男二人に女性一人、往年の名作映画『冒険者たち』を思わせるところがあります。
 第二篇目は、エジソンが発明したあの「蝋管」の百年も前に作られた木製の録音媒体の話です。語り手は、アメリカ人の初老(六十代)のロックンローラー、生涯たった一つヒットした曲のおかげで生き延びている冴えないミュージシャンが、これまた奇妙な偶然から、この木製の筒を手に入れ、そこに録音されている曲を突き止めるという物語。
 第三篇は、「顔」というニックネームを持つスーパーモデルの話。名前はサンギーヌ(Sanguine)、あえて日本語にすると「血まみれ女」。おそらく「シンデレラ」(フランス語ではサンドリヨン Cendrillon、すなわち「灰まみれ」)にヒントを得た命名だろうと思います。現代版「美女と野獣」でもある。
 第四篇は、フランス共産党の女性党員が晩年になって党に失望して離党し、パリ北部の下町を彷徨する過程で「幽体離脱」を経験するというパラレルワールドの物語。
 第五篇は、UFOの目撃者を探してフランス全国を旅して回る奇妙な三人の兄弟(マーロンという名の兄、その許嫁のアナイス、そしてムーンという名の歳の離れた少年)の物語。
 第六篇は、近未来物語。あらゆる種類の電磁波を遮断するドーム状の空間に引きこもって共同生活を送る人々と、それを監視する「原理監察官」の駆け引きと葛藤の物語。なんらかの理念や宗教を信じる無数のセクトと「普遍主義」を奉じる国家公務員の物語と言い換えてもいい。
 そして、最後を締めくくる最長の第七篇目は、輪廻転生の物語。七歳で大量の鼻血を出して、七つの波瀾万丈の人生をおくる少年の物語。この長い物語もまた七つのパートから成り立っている。
 駆け足の要約に不満を感じる人もいるでしょうが、これ以上詳しくは説明できません(ネタバレを恐れるわけではなく、最初に少し触れたように、本が完成するまではひっそりと仕事を遂行したいので)。
 そう、これは——言わなくてもわかるでしょうが——「世にも奇妙な物語」のフレンチ・ヴァージョンなのです。
 翻訳していて、あのタモリがナレーションをつとめたオムニバス・ドラマを何度も思い出したものです。同時に、エドガー・アラン・ポーの短編群も思い出しました。
 そして、知っている人はそんなに多くないと思いますが、このポーの短編を最初にフランス語に翻訳したのが、あの『悪の華』の詩人、シャルル・ボードレールなのです。かれが選んだその短編集の名こそ、Histoires extraordinaires、すなわち「世にも奇妙な物語」でした。
 ああ、この物語に命が奪われませんように!

この記事が参加している募集

海外文学のススメ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?