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社会的スローガンを安易に受け入れる危険 〜今回の「ジェンダー平等」の話題について〜

そもそもの話ですが、私達は社会を形容する言葉に従う義務はありません。一切ありません。
社会の動きと個人の行動や思想はだからです。社会の動静を指しているはずの言葉が、そのまま個人の義務や指針とされたり社会活動を制限する根拠とされ始めたりした場合、そこには極めて重大な問題が存在します。
それは歴史から見て明らかなことなのですが、それぞれ端的に解説していきたいと思います。

「ジェンダー平等」が話題になるきっかけとなった報道ステーションのCMに動きがありましたが、その動きが起きる前の段階で公開しようとした内容をあえてそのまま公開します。


ジェンダー平等なんて従う方がおかしい


驚く方もいるかもしれませんがこれは「従うべき」「従わせるべき」と思う方こそ振り返って考えて欲しい部分です。

「ジェンダー平等」は社会に現れる動きを指す言葉であるはずです。
個人の視点では必ずしも「男性であるから」「女性であるから」という規範で生きているわけではありません。性別や国籍や人種などあらゆる社会にある要素より、それ以前の自分自身という主観に生きるものです。
その上で、社会にある様々な基準や規範を意識しつつ生きているのです。

つまり「ジェンダー平等」は、「社会の性別に関する動きや問題」の評価であったり形容したりする言葉であるということです。何らかのスローガンとして掲げられる言葉ともいえるでしょう。

では社会問題を表す言葉として、「ジェンダー平等」を考えてみましょう。
社会を眺めることで見いだせる社会問題であると誰かが認識したとします。それは有名な学者でも結構です。
しかしその提起がいかなる時点であっても、あくまで収集した情報知覚した情報というその時点までのデータから導きだしたものでしかありません。

社会を構成するのは私達一人ひとりです。社会を形容した人が、その一人ひとりや人間関係に生まれる複雑さを形容し切ることなど絶対にできません。人は社会を主語にして生きることができませんし、社会も個人を主語として進むことができません。それと同じことです。
そのできないことが人類の歴史上では長らく正しいと認められてきたのですが、そのおかしさを説明しつつ、解決の指針として発明されたのが人権です。
社会や人々を権威的に形容したり決めつけたりするのを否定するのが人権思想の始まりでした。
人権は、人間や人種や性別といった要素で人を一緒くたに形容することができないことを理論的に説明しています。人には平等に精神の自由があり、社会で扱われるようなあらゆる要素それ以前に、人として心や思考の自由を持ち、社会に向けそれを表す自由があるとしているからです。

いかなる社会問題があってもそれに対応しているのはまず個人です。そこを基点にし、あるグループがその問題に対応している可能性もまた否定できるものではありません。
災害を予見し周囲に警戒を呼びかけても誰も信じず対応できない場合、それは社会問題といえるでしょう。しかし、いくつもの街が壊滅的被害を受ける程の津波を、予見した上で大きな堤防を建て街をまるごと守ることに成功した所もあります。
アメリカの南北戦争の時代にどちらの勢力にも付かず、平等を実現したグループもあります。

いかなる時代でも本当の問題に、対応し、抗い、出来る限りの解決をする人はいるのです。
「社会問題」として形容されるのは、そうした個人の取り組みの存在の後なのです。

よって、社会の様相を表す言葉や社会問題としてあるいはスローガンとして掲げられた言葉に、個人が従う必要も寄り添う必要もありません。順序が逆です。
形容する言葉が先ではなく、問題に向き合っている私達自身が先なのです。

それと同じように、問題が解決した世界や対応している自身を表現物にして社会に発信することも全く問題ではありません
個人やグループがそうした世界を夢見て物語を創ることは人としての尊厳です。
それが踏みにじられてきた歴史があるからこそ、表現人権として定めたのです。


「社会を形容する言葉」を安易に受け入れる危険について


それは「贅沢は敵だ」などのスローガンが分かりやすい例です。
皆さんは戦前の人々の装いを見たことがあるでしょうか。今と変わらないと形容する人もいます。
最近話題にもなりましたのでご覧になった方も多いかもしれません。

それが戦中になるとこうです


皆さんはこれを見て美しい流れだと思うでしょうか。
スローガンを提唱していた人の中には正しいと信じて疑わず、他者の批判に陶酔する人が存在したことでしょう。

この動きの中で、既に持っている洋服から国民服やもんぺに変える必要はないと唱える人もいました。
それを支持する人も貫く人もいました。学校単位で子供達と一緒にその意思を示した事例もあります。


しかしそして様々な権威世論は、個人に対し「社会が直面する問題に向き合えない愚か者」と攻撃したのです。
非国民という言葉が有名ですね。

この時代は社会に起きていることの全容を捉えるのが難しい時代でした。テレビもネットもありません。
しかし人権思想を受け入れてからは、そのような時代であっても、世界情勢を理解するだけの理解力を備えるのと同時に個の意志や尊厳に基づく自律の態度を持つことが推奨されていたのです。
ただ、それでも戦争を止めることはできませんでした。
国家の規模で動いていた争いの因果関係は、人権思想が生まれて以降の近代国家の体制でも止めることができませんでした。国民主権に基づく議会と政府が調印した国際条約(つまり軍事同盟)は、争いの火種から戦争の連鎖を引き起こす可能性をほぼ確実なものにまで引き上げてしまったのです。

その中で、いかに戦時下の生活をまともなものに保つか苦心した人々がいます。人権理念を唱えつつ戦時体制に協力した人も存在しました。
国家規模で起きていることと個人の尊厳を守ることの間を取り持つのは非常に困難なものであったということです。
戦争に男性が出征することで男手のいなくなった家庭を助ける団体なども立ち上げられました。社会の中で、次々に家族の死を迎えるそのお互いを純粋に助け合うために取り組む人もいれば、その活動の中で「スローガンに沿った組織の拡大」や「従わない人の攻撃」に夢中になっていった人々も存在したのでした。

海外では戦後、性別による不平等な人権の制限が次々に撤廃され、人権運動を行った女性達の戦時下での動きは評価されていきました。今でも顕彰されています。しかし日本では戦争に協力したとして、各国と同じ動きをした女性の人権運動の参加者を徹底して非難し続けてきました。
今ではその再評価も検証も話題にすることすらも社会でほぼ見られなくなりましたが、「スローガンを掲げて他人を否定した人」つまり「社会の動きに合わせろ」という理屈を振り回した人が責任を取ることはありませんでした。

一体だれが「社会の問題に取り組め」「問題意識に沿って表現を自粛しろ」「このスローガンに反している」という糾弾の責任を取るのでしょうか。


エスカレートした他の事例としては、ペットを殺害しその皮を献納しようという動きも市民がこぞってスローガンを新聞に投稿し社会の空気を盛り上げました。実際には軍はそれほど毛皮を必要としておらず、スローガンへの忠誠を示すことに夢中になった市民が各家庭で拒否できない犬猫の無意味な大量撲殺という事態を生みました。

「欲しがりません勝つまでは」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」という戦中を代表するような言葉も、市民から報道機関に投稿された、社会の動きに個人を埋没させることを促すスローガンでした。

戦後も、年ごとに若い人の特徴を断定する「○○世代」という言葉(レッテル)がもてはやされました。しかしそもそも、少数でない限り世代という単位で特徴を表現することなど到底困難なのですが、そのような非常識なことが長年まかり通ってきました。

オタクという言葉もそれに類するといえるでしょう。一切罪も反社会性も帯びない「趣味を楽しむ人」を社会規模で「犯罪者予備軍」に仕立て上げ、全国でいじめぬいて自殺に追い込むことが発生し「オタク」を狙った強盗暴力が多発しました。この極めて深刻かつ残忍な社会規模での人権侵害も、それに賛同していた(いる)人は一切責任を取ろうとはしないのです。

そうしたおぞましい「社会を形容する言葉」や「社会問題へのスローガン」を安易に受け入れることにより起きる異常性を指摘することになるのは、その大体は、無意識な差別性を持たず人々の異様なその動きを客観的に見ることが可能である若い方々なのです。

ついこの前に流行った歌がありますね。
世代や性別などの要素全体を主語にして「○○だから不健康」と決めつける乱暴な定義を、疑いなく個人にぶつける者は間違いなく迷惑なのです。
流行っている歌の歌詞だから正しいのではなく、思い込みを人にぶつけないのが人としての常識なのです。踏み込む前に冷静になるのは極めて常識的かつ健康的な観念です。
全体に向けて乱暴な定義付けをひたすら訴え続け、他者に正しいと認めさせるまで叫び続け促し続け、一体人権のどこまで踏み込めば気が済むのでしょうか。

個人やグループが発信する表現にまでそれが及ぶのです。
問題が解決した状態」を描いた表現に対してもです。


まとめ


いくら言っても足りません。
この文章は「正当な社会問題の提起に抵抗するおぞましい人間の醜い反論」のように捉えられたり、あるいは黙殺といったことが起きます。
それが歴史上の「社会全体を評価する言葉に従え」という動きを指摘した場合の常だからです。

あらゆる人間はまず愚かなのです。愚かであるとを知るからこそ、学び、自らの判断に慎重になり、自分以外の他者は多様であるため一つの理念で語り得ないことを理解するのです。
そして社会全体に起きている問題には、まず個人の常識の範囲で振る舞うことを第一にするのです。
決して全体や属性で決めつけを行ったり、他人の思考を自分の「正しい思想」で塗り替えるべきといった発想を前提にはしません
常識的な範囲での主観や主体性を基準にするからです。
そうした判断ができる人が多くなってこそ、社会の問題は解決されるということです。

今回の話題になったことがどのような推移を辿るのか、皆さんには是非注視して頂きたいです。
もし表現が「社会を評価する言葉」に沿わないという理由で否定されその結果、社会に出すのが取りやめられるようなことになった場合ですが、
その次の矛先はあなたです。

なぜなら、その恐怖を危惧し問題であると提起しようとしても既に撤回という事態を経過していた場合は、そこから個人の思想が「正常」か確認するという段階に事態は進むからです。

もしくは否定されるのを恐れて危惧を提起することを控えた場合ですが、提起を控えたその瞬間に自分がその危惧の範疇にいるのと自覚することでしょう。

願わくば、心ある方々にこの危惧が届き理解されることを願います。


補足

※上記は本日(令和3年3月24日)の、話題が発生した朝の段階で主旨をまとめていたものでした。
急いでメモにし、夜の時間ができた時に整えて発表する予定だったのですがその前に事態は進んでしまいました。

恐らく悲しいことにこの予測は的中すると思いますが、発信者や追従した人のほとんどは巨大な問題を進行させたことに責任を取ることはないでしょう。
「問題は他人にある」「相手にある」という理屈を集団で発信したため、問題に見えるような相手が悪いですとか、皆が糾弾していることに文句を言うのはおかしいという帰結に至ります。
有名な人あるいは学術的な権威とされる人が提起していた場合は、自身の立場に関わるため正当化を行います。

この時点でこのまとめは特定の誰かを指したものでは一切ありません。歴史上の出来事と照らし合わせた私達の中で起きていることを評価する文章だからです。
私の知る人やTwitterなどでフォローしてくださっている方も、この指摘に真正面から当たる方も恐らくいるのではと思います。
気を害することをとても恐れるのですが、それでも言わなければなりません。
知る限りの歴史において繰り返されていることであり、またそれは私の知る限りの人々に当てはまる事柄だからです。
この言葉が見た人の参考になればと思いますが、結論は考え調べた方の個々の判断に任せます。

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