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この時代にこそ本を読むことは大事だと思うんです(幾分、おそるおそる)

文学研究者でありながら、つい最近まで僕は「小説や文学も、いずれ役割を終えるコンテンツなのかもしれない」と思っていました。というのも、読むのにものすごく時間がかかる文字、特に小説のような大部のテクストは、あらゆるコンテンツが充実し始めている現代社会においては、もはや時代遅れに見えたからです。

さらには、適切に集約されたネットの情報は、集合知の塊のようにも見えました。ネットにアクセスすれば、大体の「解答」、あるいは少なくとも「解答に近いもの」はすぐに調べることができる。わざわざまだるっこしい本など、誰も読まなくなるし、読む必要もなくなるんではないか・・・

そんな風に文学研究者でさえふと思ったんですね。でも最近はむしろ逆に思えています。今こそ、やはり本は大事だと思います。

というのは、一つはこの「集団知」の理想形に思えたネットにおける知識が、数年前に比べると圧倒的に断片化及びノイズが増えたことによって、かえって効率が悪いように見えてきたからです。望む情報にアクセスしえないだけではなく、あまりにも多い情報にかえって迷うような状況です。

それに加えて、SNSの充実は、作為的/無作為的どちらにせよ、偽情報を簡単に流通する「場」を作り出してしまいました。昨年マサチューセッツ工科大学が大規模調査をフェイクニュースに関して行いましたが、真正なニュースよりも偽のニュースの方が拡散するスピードが速かったという結果が出ました。

この結果さえ、もはや「フェイクニュースではないか?」と疑う癖が付いてしまうほど、我々は「ニセ情報」に日々接しています。

そしてこういう状況においてこそ、改めて「本」の価値が出てきます。

「本」というのは、ある著者が長年かけて考えた、いわば「知の偏差」です。限られた人間の知識、リソース、時間によって作り上げられた「知識の総体」などは、実は大したことがありません。特に、ネットに集積されている知識の量からすれば、ある一人の人間の目を通した見解や表現などは、たかが知れています。だから、「量」が問題ではないんです。上に書いたように、問題は「偏差」なんです。

その「見識」や「表現」が集められるに至った、その個人の人生の経験の偏差が、一つの知の集積に対して固有性を与えます。我々はいわば、その本を通して、その著者の「目線」を読んでいるといえます。それは「偏差=偏り」に過ぎず、信頼性の欠如の現れと考える人がいるのは承知の上で、その「偏差」こそが実は読むべき「物語」であると言いたいのです。そして知識は量ではなく、その知識をどの様に配置して、どの様に見せることができるかというパターンこそが重要であるという立場に立つならば、できるだけその「物語の径路」をたくさん習得することこそが、何かを「知る」ということの効率の良いやり方ではないのかと思うんです。それこそが「知」の理想的な有り様ではないかと。

無作為の知識を頭に詰め込むことほど無意味であるのは、中学や高校の時、英単語帳を覚えさせられた経験のある人なら誰もが実感できるでしょう。全ての「知」=「情報」は、何らかの「物語」の路線の上に載せられなければ、使うことさえ出来ないんです。

というわけで、こんな世知辛い世の中だからこそ、できるだけ多くの人に本を読んでほしいなと思った次第です。本が苦手という人は、簡単な、できるだけ言葉遣いの優しい本から読んでいってください。絵本とかでもいいです。僕は高校生になっても、文学の傍ら、たくさんの子ども時代からの絵本を読んでいました。

「おしいれのぼうけん」や「エルマーとりゅう」は、未だに僕の部屋の本棚にあります。それは今でも僕にたくさんのことを教えてくれます。

そして多分、そのような流れに気づいた人たちが、noteを書き始めてるんじゃないかなと言う気がしています。ある人間の「偏差」の塊が、かつてのブログであり、そしておそらくは今このnoteであるだろうという気がします。これは最後、思いつきの話ですが。

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