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呼吸するように喧嘩する兄弟の話

うちにいる二人の男児、八歳と五歳。バッチバチに喧嘩しまくる。くっついて戯れあっては、「⭐︎が蹴った!」「最初にやったのは♪!」などと、毎日叫んでる。(「⭐︎」が八歳。「♪」が五歳。なんか楽しそうだから星と音符。)次男が生まれてからずっと喧嘩し続けているので、彼らの喧嘩歴は、もう五年だ。すごいね。

そんな二人を観察していると、本当に彼らは呼吸するように喧嘩しているなと思う。イベントではなく日常。故意ではなく自然と、いつの間にか喧嘩している。そして、これまた不思議なのだが、仲直りも自然にできているのだ。私はついつい「はい、じゃあ謝ろっか。はい、で、ギュッてしてな・か・な・お・り!」とかやってしまうのだけど、そういう時に限ってふくれっつらをして納得していない表情のお二人。「余計なことをしてごめんよ」と母。大抵私は余計なことをしている。

そんな二人の姿をみていると、呼吸するように感情をぶつけ合うって、すごいことだなと思えてくる。でも、二人の喧嘩はすごく苦手だ。私は争いが苦手なので、大人になってからはほとんど喧嘩したことがない。私がする戦いといえばほぼ冷戦なので、イライラして無言を貫いたり、ものにあたってみたり、なかなか呼吸するようにとはいかない。息を止めて止めて、そして爆発!みたいな感じだな。

でも、そんな私でも、悲しむ時は呼吸するように悲しんできた。失恋した時とか友人とイザコザした時とか、大切な人を亡くしたときとか、私は呼吸するように悲しんできたと思う。呼吸するように悲しむことで、悲しみ自体は風化しないけれど、悲しみが日常になって慣れていく、そんな感覚を味わってきた。悲しみはいくら爆発させても、なかなか消えないんだよね、悲しいことに。ただただ呼吸するようにじっと悲しんで、それが日常になって慣れる日を待つしかないんだ。シャワーの音を聞きながらとか、雨の日に坂道を登っていきながらとか、子どもたちの爪が伸びた、切らなきゃとか思っているうちに、悲しみがいつの間にか隣にやってきて、「やあこんにちは、きたよ」って言う。「あぁ、またきたね、元気?」とか会話できるようになるまでには、しばらくかかるんだけどね。

今日も兄弟は、呼吸するように喧嘩していた。顔を真っ赤にして拳を握りしめて、いかに相手が悪いかを訴える。その表情は真剣そのもので、一生懸命だ。でも、きっとあと数年もしたら、喧嘩のめんどくささが怒りをヒョイっと乗り越えて、喧嘩は日常ではなくなるんだろうな。彼らも冷戦状態を迎えて、怒りを胸に仕舞い込んで、耐えられるまで溜め込んで、爆発させる日が来るんだろうなあ。そう思うと、今の喧嘩だってなんだか大切だし貴重なんだろう。

苦手な喧嘩も、たまには「やれやれー」と心の中で応援してみよっかな。きっと、呼吸するように喧嘩していた今の日々を、懐かしいと思える日が来そうだから。

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