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戦国時代にサムライとなったアフリカ人がいた! 信長に仕えた弥助の実像とは

織田信長(おだのぶなが)に、外国人の家臣がいたことをご存じでしょうか。最近では、信長を描いた映画やドラマでも、信長の側に大柄な黒人が控えている様子が描かれることがあります。その黒人がそうで、「弥助(やすけ)」と呼ばれていました。信長は彼を物珍しさから身辺の飾りとしたのではなく、れっきとした家臣として取り立てており、弥助は本能寺の変において重要な役割を果たすことになります。今回は、そんな弥助とは何者だったのかについてまとめた記事を紹介します。

ハリウッドで映画化される『Yasuke』

2019年5月、ハリウッドでチャドウィック・ボーズマン主演の新作映画『Yasuke(原題)』の制作が発表され、話題になりました。チャドウィック・ボーズマンといえば、全米で大ヒットした映画『ブラックパンサー』や『アベンジャーズ』シリーズでブラックパンサーを演じた人気俳優です。

そんなボーズマンを起用したことからもハリウッドの力の入れ方がわかりますが、実は映画の製作発表より前から、弥助の存在はヨーロッパにおいても知られ始めていました。そして非アジア系人種で初めて日本のサムライになったのがアフリカ人であったことは、驚きとともに好意的に世界で受け止められ、特にアフリカの人々が喜んだとも伝えられています。では、アフリカ人の弥助はなぜ、戦国時代の日本に来たのでしょうか

南蛮屏風と黒人の戦士

戦国時代の日本には、実は少なからぬ黒人が来訪していました。16世紀末頃に多数描かれた「南蛮屏風(なんばんびょうぶ)」はポルトガル人来航の様子を描いたもので、そこにはポルトガルの商人や宣教師とともに、多くの黒人が描かれています。彼らの大半は使用人として働く奴隷で、主人に日傘を差しかけたり、荷物の運搬などの労働に携わりました。使用人はインド人、マレー人、そしてアフリカ人などです。

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では、弥助も奴隷だったのでしょうか。アフリカ人を指す「カフル」という表現で記録された彼の場合、雇い主が商人ではありませんでした。イエズス会の巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノ。イエズス会総長の名代という相当に高い地位の人物です。イエズス会は奴隷を禁じていますので、弥助は奴隷ではありません。

またイエズス会の要人であるヴァリニャーノが、戦乱の続く日本に赴くにあたり、雇った弥助がただの使用人であったとも考えにくいでしょう。万一、ヴァリニャーノの身に危険が迫った時にはこれを守り、危険を排除することができる人物。つまり、高度な戦闘能力を備えていることが条件であったはずなのです。『信長と弥助』を著したトーマス・ロックリーは弥助を、ポルトガル領インド植民地軍の主力で、獰猛(どうもう)なことで知られた軍事奴隷「ハブシ」の戦士ではなかったかと推測しています。

弥助の本質を見抜いた信長

そんな弥助の運命は、ヴァリニャーノが京都に上り、時の権力者・織田信長に面会した際に大きく変転します。信長ははじめ、漆黒の肌で大柄な弥助の容姿に驚きますが、すぐに彼が単なる宣教師の使用人ではなく、異国の戦士であることを見抜いたのでしょう。彼を丁寧にもてなしました。時に天正9年(1581)2月、本能寺の変のおよそ1年半前のことです。

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信長に気に入られた弥助は、ヴァリニャーノのもとを離れ、信長に仕えることになります。それも使用人などではなく、信長に近侍する小姓(こしょう)として、でした。その後、弥助は信長からどんな厚遇を受け、また本能寺の変に際し、どんな行動を取ったのかについては、ぜひ和樂webの記事「ハリウッドで映画化!信長に仕えた黒人、弥助とは何者だったのか?」をお読みください。

正真正銘のサムライ

さて、記事はいかがでしたでしょうか。人間の本性というものは、切羽詰まった時、生きるか死ぬかという時に、嘘偽りのない本当の姿が現われてくるのかもしれません。そうした意味で弥助は、逃げることをせず、あくまで自分の務めを果たし、主家と運命をともにしようとしました。それだけ織田家の家臣であることに、誇りを抱いていたのかもしれません。それは戦国を生きた武士たちと同じ価値観であり、あるいは洋の東西を問わず、戦士の身の処し方として共通するもののようにも思えます。いずれにせよ間違いなく言えることは、弥助は「正真正銘のサムライであった」ということではないでしょうか。

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