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【TARL 思考と技術と対話の学校】の

【TARL 思考と技術と対話の学校】
ディスカッション5「みんなで看取れば怖くない?」
生活圏のフレンドリーな死を考える

私たちが生きているのは、多死社会だ。
日本における死者は2030年に年間160万人を数えるといわれている。
すでに首都圏では、火葬場や遺体安置所、
墓地の不足が顕著になってきたという。

近代以降、都市の生活圏において「死」は日常生活から遠ざけられている。病院でなくなり、火葬場で荼毘に付され、墓地に入れられる。
見ようとしなければ、死は
どこか他人事のように存在しているように錯覚できる。・
一方、iPS細胞をはじめとするテクノロジーの進歩は
「生」や「死」の概念を拡張し、その意味の変容を問うている。

今回は、金沢21世紀美術館で「Death LAB: 死を民主化せよ」を企画した
キュレーターの髙橋洋介さんと、
東京の江古田地域をフィールドに「看取り」を考えるアートプロジェクト
「東京スープとブランケット紀行」を展開した
劇作家の羊屋白玉さんの話を聞きながら「死」を見つめる時間となった。

今回のディスカッションは、私の中でさまざまリンクが呼応し
個人的に非常に重層的なものとなった。

たとえば、二十数年連れ添った愛猫の死をきっかけに
クローズドな取り組みとして始まった
羊屋白玉さんの「東京スープとブランケット紀行」。
それは、幾度も月命日に仲間が集まり、
羊屋さんの連れの死を悼み続けたプロジェクトだ。

このことは、2018年に、21_21 DESIGN SIGHTで中沢新一氏を監修に迎え展開された「野生展」を私に思い起こさせた。そこにあった南方熊楠のことばが浮かび上がってきたのである。

まず、中沢新一は「『即』の論理」と題してこう書いている。
「『縁起』によって活動する野生の心(脳)では、通常の論理で考えると矛盾していたり、互いに排除しあうことになるものが、矛盾なく共生しています。たとえば『生』と『死』は、私たちの通常の思考では、互いに同居を許さない背反し合う現象です。『生』と『死』は絶対に交わらないのです。ところが『縁起』の思考では『生』と『死』は分離できず一体のものととらえられます。すなわち『生即死』『死即生』なのです」

そして、熊楠の言葉を引用している。
「〜人が死に瀕しておると地獄には地獄の衆生が一人生まるると期待する。その人また気力を取り戻すと、地獄の方では今生まれかかった地獄の子が難産で流死しそうだとわめく。いよいよその人死して眷族の人々が哭き出すと、地獄ではまず無事で生まれたといきまく」

死は生に繋がっているのだ。羊屋さんの猫の死は、あの世では子猫の誕生なのである。

こんな夢想に浸っているときに、高橋さんに死をエネルギーとして加速度処理するアメリカの考えを紹介されて目が冷めた。

高橋さんが自ら仕掛けたのは、コロンビア大学の「死の研究所」の全容を知らせる「DeathLAB:死を民主化せよ」という企画展。
そこで展示された「星座の広場」というプロジェクトについて高橋さんは話しだした。
「棺の中の遺体を、バクテリアが一年かけてゆっくりと分解し、そのときに生じるエネルギーで棺を光らせようというアイデアです。それは個々人の死を弔うというものではありませんが」

つまり、人の死が総体として抽象的に捉えられるということのようだ。
そこには宗教観や、墓地の問題、あるいは環境的な視点なども絡み
構想は依然として構想にとどまっている。
が、人は宇宙の塵の凝固点のようなものであるという感覚が
個人的にはしっくりくるので、この弔い方は魅力的に映る。

また、高橋さんがフランスの歴史家フィリップ・アリエスの著書から
紹介した「死の四つの種類」、すなわち
(1)静かな諦観とともに共同体の一員として死んで行く「飼いならされた死」
(2)ついで12世紀に始まる、現世に執着し自分個人が不幸にも死ぬと感じる「己れの死」
(3)葬儀などの出来事として出合う「他者の死」
(4)死の決定権が病院や医者という専門知識によって測られ、自身の手から離れ隠蔽される「タブー視された死」
の話を聞くと、いかに今の我らの死が、
自らと切り離されてしまっているかを思わざるを得ない。
(株)シルバーウッド代表取締役の下河原忠道さんが、
「救急車を呼んだが最後、自分の死を自分で、あるいは家族で決められなくなる」と
話していたことがあった。救急車を呼ぶことは、
専門知識による延命を求めることなのだ。
「DeathLAB:死を民主化せよ」はそこを立ち止まって
考えようとしているとも言える。

また、これらの話は、その少し前に聞いたトーク・イベント【Inspire Talk /Presented by DESIGN ACADEMY: バイオの想像力】
とも脳内リンクもした。

東京大学生産技術研究所70周年記念展示
「もしかする未来」展でも展示を見た
池内与志穂さんの話で最も印象的だったのは、
人間の意識というもが実際のところ何であるのか
わかってはいないということ。
それは脳波に関係しているかも知れないとのことだが、
では、脳波とはなんなのかということは、
まだ解明されていないということだった。

ならば私たちは「死」について、どのような“意識”で
「縁起」のような物語をつくり出すのだろう。
あるいは、どのような意識の働きで
「DeathLAB:死を民主化せよ」のような
新しい「死」を模索するのだろう。

おそらく人は、草木のように生まれ、ただ死ぬのである。
それをこんなにも面倒なものにしているのは、
物語のせいに違いないと、私は勘ぐっている。

スペキュラティブ・デザインによって、
人の性や生殖や性愛について問う長谷川愛さん。
アーティストであり東京大学大学院情報理工学系研究科で
電子情報学を専門としている特任研究員でもある。

たとえば、受精卵からつくりだしたES細胞によって精子をつくり
別の女性の卵子と受精し生まれてくる子ども。
つまり、三人以上の遺伝的親をもつ子ども“Shared baby”。
それを提示し、なぜダメなのか?と問う。
あるいは、これは人体実験なのか、
医療行為なのか。既存の概念で捉えきれないものを提示し、
人々の硬直した思考に一石を投じる。
その他にも、女性が例えばイルカを出産して動物の減少に歯止めをかける、
同性カップルに子どもを設ける方法といった
バイオテクノロジーが可能にするかもしれない、
人類が向き合うことになるだろう生の問題を
アートの形で投げかけ続けている。

それは私たちがどのような物語を読みたいのか、ということだ。きっと。「生」は「死」であるなら(事実、細胞自身に死が内包されている=アポトーシス)、「生」の物語は、必然的に「死」に向かう。

人と人がつくり出す社会という物語の
次のページを想像する力が
私たちの「生」と「死」を形づくる。

まとまらない思いを抱えて、ディスカッションが終了し高橋さんと話してみようと思って列の最後に並んだが、あまりに前の人の話が長く、時間切れ。お話をすることは叶わなかった。

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