「自由」

 「自由とは無数の選択肢がある事を言う」と子供の頃に教師から言われたのを思い出した。しかし、もしそうなら大人に成るとは選択肢が少なくなって行く事なのかと、子供ながらに思った。選択肢は何歳に成っても無限に存在しているとの感覚が、今の私にはあったが、要は「やる、やらない」の問題かと思える。それが「自由」なのかと疑問に思えるが、この「自由」なる言葉自体が何を指しているのかと考えてしまう。

 「自由」なる言葉は明治時代に海外から持ち込まれた言葉である。英語の翻訳をする為に「Freedom」などに当たる言葉として「自由」なる言葉が使われて出した。それなので言葉としては新しい部類に入るのではと思える。明治から数えて百年以上経つので、新しいと言うには語弊があると言う人も居るだろう。私感としては古典文学を愛好して居るので「百年くらいではまだ新しい」との考えである。

 元々「自由」なる言葉は仏教用語として明治以前から存在はしていた。しかし、江戸時代に一般的に普及しなかったのは何かしらの理由があるのだろう。封建社会での考え方には「滅私奉公」なる言葉があったのを思い出した。自分の事は度外視にして公の組織の為に尽くすのが、江戸時代までの考えなのだろう。そこには「公私」は無く、ただ「公」だけが存在している。そんな社会に「自由」意思なる物は不要との感覚が、世間を覆っていたのかも知れない。

 それが明治の文明開化なるスローガンによって、盛んに「自由」なる言葉が踊る様に使われてしまったが、英語の「Freedom」とは、些かニュアンスの違う捉え方をしていたのではと思えた。辞書を引いて「自由」を調べてみると「きままに生きる」との意味と「社会的責任の下に置いて制約されずに生きる」と、この二つの考え方に要約できる。「自由」との言葉を単純に文字だけ見れば「自らに由る」と表現できるので「きままに生きる」の方が本来適切だろう。

 それは「社会的責任」を強要された江戸時代まで続く、封建社会からの変革としての「自由」が存在している事を意味している。それなので「きままに生きる」との意味として理解している人が多い。英語の「Freedom」は単純に「きまま」との意味は無く、社会に置いての責任を果す必要があるとの意味が含まれている。その上での自由意志を唱えている点が大きく違うのだ。その為、今現在でも「自由」と口にする時に何方の意味で用いているのか分からない表現がある。

 冒頭に書いた「自由とは無数の選択肢がある事を言う」なる表現は、付け加えるなら社会的な責任を全うした上での「自由」との意味が含まれているのだろう。子供にこの様な事を言うのは社会通念を教える為だろうが、そもそも選択肢は無数にあるのかと疑問に思う。私は捻くれた子供だったので「自由なら勉強しない選択もあるよな」と思ってしまうのだった。それが証拠に学校の宿題などした事は無い、と言ってしまうと「自由を履き違えている」とのお叱りを受けるだろう。

 それならば「自由」を教える前に社会における責任や義務に付いての方が先で、教条的に知らしめる必要がある。「自由」は仏教用語だったと書いたが、現代の日本人で自らを仏教徒だと認識している人は少ないと思える。となると「自由」の本来の意味が曖昧に成ってしまったのだろう。要は宗教的な背景を持っている「自由」だったが、言葉だけが独り歩きしてしまったのが混乱の原因だと。

 仏教の意味する「自由」とは「世の中は生き辛い物だから、心の中くらいは思うがままにあるべし」との事だと理解している。殊更、仏教に精通している訳でもなく、仏門に入った事も無いので飽くまでも私感としてだが。その様に「自由」を捉えられる様になれば「Freedom」と比較しても意味する所に違いは少なくなるだろう。しかし「自由」が語られる時に偽善と言いたく成って来る時がある。

 「成人に成ればタバコを吸うのも自由だ」と口にする人は多い。私もその一人で二十年以上タバコを吸っている喫煙者である。持病があり定期的に病院に行っているが、医師からは「タバコをやめろ」と言われたりもする。その時は「禁煙します」と言うのだが、長年の悪癖なので気が付くとタバコを吸ってしまう。それが「自由」なのかと言えば「違う」と、今ではそう思っている。

 タバコの健康への害は知っているので、吸い続ける言い訳として「自由」なる言葉を使いたくはない。「理由なき反抗」と気取りたい訳でもないが、喫煙者として周囲への配慮はしている積りだ。具体的にはタバコが吸える飲食店でも隣席に赤ん坊などが居れば、私は吸わない様にしている。大げさに言えば「社会的な責任の下に判断している」と。タバコを吸わないのも「自由」なのである。

 あるハリウッドスターが喫煙可能の場所でタバコを吸って居たが、見ず知らずの他人から注意される事が多々あり、それが嫌になりヨーロッパに引っ越したとの記事をネットで見た。ネットの記事なので真偽の程は分からないが、アメリカで喫煙者への非難の多さを見聞きすると強ち嘘ではないのかと思えた。タバコを吸うのも注意するのも「自由」なのかと思うと、何とも世知辛いと言いたく成ってしまう。

 身近な話としてタバコの喫煙に付いて書いたが、社会的な責任を持つ必要が成人には必要であると言いたいのだ。では、学生は社会的な責任から外れた環境に居るとの見解があるが、私は間違っていると感じる。学生が事件や事故などを引こ起こしたらならば、法的にも社会的な制裁も受けるので、学生だからと言って責任が無いので無罪とならないとは理解している。しかし「自由」を一番欲しているのは学生なのではとの思いがある。それは私自身の経験から来る物でもある。

 ここで「アイデンティティー」の問題が思い浮かぶのだった。自己の存在証明を成すには何をすれば良いのかと、学生時代に思い悩んだ人も多いだろう。所が私の場合は高校卒業後に就職してしまって「アイデンティティー」なる感覚を強く持つ事が出来なかった。少々、文学的な表現にすれば「誰かの敷いたレールの上を走っているだけの人生。それを選んだのは私だが、それで一生が終わるのも仕方のない事だ」と。

 その当時、私は思っていたのは「自由とは無数の選択肢がある事を言う」と言うのならば、選択肢が無くなって行くのが大人なのだと。これも若い頃までは本気でそう思っていたが、今では「そんな事はない。大人に成っても日々選択を迫られている」との考えに変わった。その契機は十年以上勤務した会社を早期退職した事であった。退職の理由は心身ともに疲弊してしまい、退職に追い込まれたと言った方が適切であるが。

 結果でしかないが会社から退職した私は「自由」に成れたのかも知れない。少なくとも時間に追われて仕事をする必要が無くなり、抑圧から開放され精神衛生的には向上した。かと言って、それが「自由」なのか私には分からなかった。恥を承知で書くが三十五歳で退職した私は初めて「アイデンティティー」とは何か、との問題にぶち当たった。しかし、「自分探しの旅」と言って旅行する様な事はしなかった。「もうそんな子供っぽい事をする歳ではない」との思いからだった。

 では何をしたのかと言えば、都会に出て映像関係の専門学校に入学した。三十五歳にして自主的に行動するのは初めての事である。それは選択肢の一つとして私が選んだ道であった。その後、専門学校を卒業して十年以上が経過したが、その選択肢が間違っていたとは思っていない。少なくとも「自由」な環境を手に入れたのだから文句を言う積りは無い。しかし、「アイデンティティー」の発露が三十五歳にしてでは何とも遅いと我ながらに呆れているが。

 責任なき「自由」しか欲しない人は、現代の社会に存在しないのと同じである。となると「アイデンティティー」とは「自己の存在証明」ではなく「自己の責任証明」なのではと思えた。私はその責任を果たす場所を必要として生きているので「自由」で居られるのかも知れない。それは飽くまでも精神的な話なので「金銭的に自由か」と訊かれたら「苦しい生活をしています」と答えるしかない。だが、「金銭」による「自由」とは何を指すのだろうか。

 単純に考えると金があれば生活に「不自由」しないとの意味に成るだろう。それが当たり前の世の中であるのも承知しているが、それは「不自由」しないだけで「自由」とは別の物だと言いたい。そう思う気持ちを辿ると仏教の指す所の「自由」が私には似合っている様な気がする。それは「きままに生きろ」との精神なのである。ただ、間違わないで欲しいのだが責任を持たなくて良いとの意味ではない。

 「きままに生きろ」と言われても迷う人が多いだろう。残酷な話だが「人生の道標」など無い。現代人は自己証明をする為に存在しているだけなのだ。だからと言って、封建社会が良いと言いたいのではないが、その家に生まれて「侍の家なら侍に、百姓の家なら百姓」に成るしかない。それは自己証明に明け暮れる現代人からすると、精神的には楽に写って見える。だが、封建社会は責任を絶えず求めて来る。逃れられない環境が引き起こす悲劇は数多く語られているので、ここでは書かないが。

 封建社会の制約された環境の中から、適切な選択肢を選び出す事の方が簡便であるとも言える。有り余る無限の選択肢を前にして人は迷うものである。そして逡巡していると機会を逃してしまう事が多い。それなので「自由」の名の下に「御為倒し(おためごかし)」をしている様な人には成りたくないと思っている。「御為倒し」とは人の為に良い事だと思わせて、自分の利益しか考えない人の事を指す。

 「自由」にもランクがあるのだろう。「タバコは身体に悪い」と思い啓発活動に従事するのも「自由」である。しかし、そう言っている人が何かしらの健康促進グッズなどを物販していたとする。そこには「御為倒し」でしかないのだ。自分の利益の為に発言しているだけで、タバコを吸っている人の身体を、本当に気にしているのか疑問に成ってしまう。これは一例として上げただけだが、世間を見ると同じ様なケースが散見している。少なくとも「自由」意思とは懸け離れた程度の低い物だと言わざるを得ない。

 適切な例かは分からないが昔のフォークソング歌手に、こんな人が居た。ヒット曲を出したが芸能活動を辞めて、低所得者の支援活動を始めたそうな。その歌手を知っている人は皆「あの人こそ、真のフォークソング歌手だ」と称賛したそうな。そのフォークソング歌手が芸能人で居る事への不満が何処にあったのかは分からない。しかし、「自由」を歌うよりも支援活動に勤しむ事の方が「自由」を勝ち取る行為だと、その歌手は思ったのかも知れない。

 前段のフォークソング歌手の事は口先だけで「自由」を求める人よりも、ランクは上だと思えたので書いてみた。「きままに生きている」と私は良い意味で、そのフォークソング歌手を解釈している。「自由」を歌っただけで手に入れられる物など、ランクの低い「自由」なのではないか。今の自分が置かれている状況を捨ててまでも欲しい「自由」ならば、私は声援を贈りたくなる。

 結論として「自由は勝ち取る物である」。抑圧された環境が貴方に降り注いだら行動に移すべきである。それは貴方の個人的な環境かも知れない。または大きな紛争の中に居るかも知れない。そこから逃れる為には「自由」を手にしなくてはならない。だが、責任無き「自由」に飛び付いても痛い目に遭うだけである。自分の責任を全うして勝ち得た「自由」こそ、大事にするべきである。

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