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現実の厳しさとゆるさ

べとりんさんのnote『悪ではないが敵である 〜「Mother2」感想〜』を読んで、非常に興味深い一文があった。

「現実は厳しい」なんて言い方をよく聞くが、誤解を恐れずにいえば、むしろ、私は現実とは「ゆるい」ものだと思っている。

べとりんさんのnoteより

「現実は厳しい」「努力は報われない」「現実とは世知辛いもの」
そういう言葉を何度も聞いたし、「報われないなぁ」と思うこともある。

だからこそ、べとりんさんの“現実とは「ゆるい」ものだと思っている”という意見に興味が湧いた。

ポーキーやネスにとっての現実

べとりんさんのnoteに登場する「ポーキー」や「ネス」にとって、ゲームの世界(彼らにとっての現実)は厳しいものなのだろうか。

ポーキーは、主人公・ネスの幼馴染で、行く先々でネスを邪魔するライバル的な存在なのだそう。
そんなポーキーについて、べとりんさんはこのように述べている。

とりあえず私が感じたこととしては、ポーキーは結構人懐っこい奴だということである。プライドが高く、人に甘える方法が分からなかったが、主人公のことが好きだったし、仲良くなりたいと思っていたのだろう。

べとりんさんのnoteより

ポーキーのような少年を、わたしは知っている。言葉でのコミュニケーションが苦手で、好意を向けてほしいのにできない。無関心でいられるくらいなら敵意でも悪意でも向けてほしくて、意地悪したり邪魔したりしてしまう。

そんなポーキーの目に、現実はどう映っていたのだろう。
友達ができない孤独な世界だったろうか。素直になりたいのになれない厳しい世界だったろうか。大切に思っている相手に倒される、救いのない世界だったろうか。

一方、ネスはどうだろう。

私たちプレイヤーは、おそらくポーキーが「主人公と仲良くなりたい」と思っていることを、物語のところどころで知らされる。

べとりんさんのnoteより

べとりんさんはこう言っていたが、ネスもこの「主人公(自分)と仲良くなりたい」というポーキーの想いに気付いていたのではないだろうか。相対した時の言葉や態度などから、確信は持てずとも、「もしかして」と予感はあったのではないか。

そんな相手を倒すことを、ネスはどう捉えていたのだろう。敵だからしょうがないと考えていたかもしれないし、やるせなさを抱えていたかもしれない。ネス自身も、「本当はポーキーと仲良くしたい」と考えていたかもしれない。

ポーキーやネスは、ゲームの中に存在するキャラクターだ。彼らはシナリオに沿った動きをするし、例えばポーキーがプライドを捨ててネスに素直な愛情を伝えることはないし、ネスがポーキーを倒すのをやめることもない。
彼らがどんな考えを持っていたとしても、彼らの行動からプレイヤーがどんな想いを読み取ったとしても、物語は進んでいく。ポーキーが「敵」で、ネスが「主人公」の物語はいずれ終焉を迎えるのだ。

そんな彼らにとって、現実は厳しく、どうしようもないものだ。
ゲームや小説、漫画など、物語は総じてそうで、現実の世知辛さや仕方なさを懇々と伝えてくる。

現実の「厳しさ」の正体

では、わたしたちはどうだろう。
ポーキーやネスのように、シナリオに沿って進むしかないだろうか。相手への愛情を持ちながらも敵として向かうしかないだろうか。

べとりんさんはnoteの中で、ポーキーを倒さなければならなかったことに「気持ちのひっかかり」を感じたと言う。

私は、悪ではないが敵であるポーキーを倒した。私も、たとえ悪ではなかったとしても、私を敵とする誰かに倒されることもあるのだろう。たかがゲームの中のことではあるのだが、ポーキーを倒した後の、私のこの胸のざわざわは、たぶん、そういう不安の顕れだ。

べとりんさんのnoteより

べとりんさんはきっと、ネスやポーキーを友人のように捉えているのではないかな、と思った。“たかがゲームの中のこと”ではあるが、ネスは共に冒険した仲間であり、ポーキーは幾度も対立したライバルだ。

ポーキーやネスを友人のように感じる一方で、ゲームの世界と現実の世界では決定的な差がある。

そのひとつが「シナリオ」の有無だ。
もちろん「この現実世界さえ誰かにコントロールされているのでは?」なんて言われたらそれを証明する術はないが、少なくともわたしたちは、各々の意思に従って動いている。

シナリオがある現実は、厳しい。ポーカーを倒す運命は変えられない。

しかし、わたしたちの生きる「シナリオのない現実」は、べとりんさんが言うように「ゆるい」のだと思う。

現実を厳しくしているのはいつだって私たちの心の方で、現実の方は、私たちの心のことなんて関心を持たずに、いつだって私たちの考えを乗り越えてくる。現実とは、厳しくて、ゆるくて、よくわからないものなのだ。

べとりんさんのnoteより

現実を厳しくしているのは、わたしたちの心の問題。単なる事実に意味づけをするわたしたちの問題。シナリオを自分で作って、その通りに動いてしまう自分自身の問題なのだ。

シナリオを描くのをやめる

シナリオがない人生は、怖い。たまに「レールのない人生」と言う人がいる。このレールとは、まさしくシナリオのことではないだろうか。

どこへ進むのか分からない、どんなことが起きるのか知る術がない。そういうのは怖いから、どうにか先を見据えようとする。
ないものは見据えられないから、「仮定の未来」と、そこに至る「仮定の道」を思い描くのだ。シナリオを作り、レールを作り、どうにかその通りに進もうとする。

でも、現実世界はそう理想通りにはいかない。トラブルだって発生するし、想定外の動きがうまれることもある。そういう時、人は「現実は厳しい」と言うんだ。きっと。

レールの上にあるトロッコは、一度走り出したらなかなか止まらない。あれよあれよという間に坂を下っていき、石ころに引っかかったり急カーブで落ちそうになったりしながら、どうにか先へと進んでいく。
だから、現実世界で想定外の出来事があると、それを悲観し、「現実は厳しい」と嘆く。トロッコの上で。

でも、考えてみてほしい。
わたしたちは暴走列車じゃないんだから、いつだって自分の意思で止まることができる。レールを組み替えたり、レールのない道を進んだりだってできる。
目の前に線が引かれたら、その上を歩かないとと思うかもしれないけど、そんなの誰も言ってない。言っているのは、あなただけなんだ。

レールなんて、ない。シナリオなんて、ない。
ないものを探すのはやめよう。分からないことを怖がるのをやめよう。まだ知らない道があることを楽しもう。曲がったことのないところで曲がってみよう。
そういう考え方・選択ができたら、きっと現実は、ゆるくてやさしいものになる。もちろんこの想定も、現実はひょいと乗り越えていってしまうのだろうけれど。

べとりんさんのnoteは、ご本人もおっしゃっているように非常に論理的で理にかなっている。でも今回のnoteは、べとりんさんの中にある雑さや素直さがよく出ていた。こうやって、どんどんその人の違う面が見えてくるのは、楽しい。

大好きな企画「私のお気に入り #cotree_advent_note 」に寄せて。

cotree advent note はどれもイイので、ぜひ。

どれもイイから全部紹介すると決めた、
takaren advent note 17日目。


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