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心が痛い

 ……小学一年生の、土曜日の、午後のことだ。

 まだ、土曜日に授業があった時代。
 幼馴染のひろ子ちゃんと遊ぶ約束をした私は、お昼ご飯を食べた後、一緒に小学校に遊びに行った。花壇の花の蜜を吸ったり、オオバコ相撲をしたり、ブランコに乗ったり、校庭で文字隠しをして遊んだりしていた。

「ねえ、かくれんぼしない?」
「うん!」

 別の友達もやってきたので、みんなでかくれんぼをすることになった。

 私は、どこに隠れようかなと考えて、芝生の上の百葉箱の中に隠れることを決めた。百葉箱の中は、やんちゃな男子が好んで隠れる場所だった。いつもすばしっこい男子に先を越されてしまうけれども、今日は女子しかいないから隠れることができそうだと思ったのだ。白い箱のふたを開けてよじ登らなければならないが、一度は隠れてみたいと思っていた、憧れの場所だった。

 はやる気持ちが、足もとの確認をおろそかにした。

 ぽきっ・・・・・・。

 儚げな、破壊音が、足もとでかすかに響いた。

 百葉箱の手前に、地温を測るための温度計が刺さっており、私はそれに気が付かず踏んでしまったのだった。

 その瞬間、きゅっと、心臓をつかまれたような、痛みを感じた。

 学校のものを壊してしまった、その罪悪感と、怒られる恐怖。
 どうにかしなければいけないという焦り。
 壊れたものをもとに戻せるはずがないという絶望。
 ごまかしたところで、なぜかいつも隠したい事実は露呈して詰問にあうのだという諦め。

 思い込みの激しい、偏った思想で凝り固まった親に厳しく育てられていた私は、悪いことをしてしまった後の尋問と、反省を促すための苦悶の時間が恐ろしくてならなかった。

 悪いことをしたら謝らなければならない。
 悪いことをしたら反省しなければならない。
 悪いことをしたら罰を受けなければならない。
 悪いことをしたら繰り返してはならない。
 悪いことをしたら学ばなければならない。
 悪いことをしたら幸せになれない。
 悪いことをしたらバチが当たる。
 悪いことをしたらみんなが迷惑する。
 悪いことをしたからご飯抜き。
 悪いことをしたから掃除しろ。
 悪いことをしたから宝物を捨てろ。
 悪いことをしたから遊びにいくな。
 悪いことをしたから朝まで正座しろ。
 悪いことをしたからものさしで十回叩くよ。
 悪いことをしたからお年玉は無しね。
 悪いことをしたから髪の毛切るよ。

 自分の物を壊した時、激しく怒られた。
 自宅の物を壊した時、激しく怒られた。
 家族が物を壊した時でさえ、激しく怒られた。

 学校の物を壊してしまった、自分に、呆然とする。

 物を壊すのは、悪いことだと、知っている。
 私は、悪いことを、してしまった。

 立ち尽くす私は、かくれることもできず、鬼をしていたひろ子ちゃんに見つかってしまった。

「みーつけた!」

 ・・・・・・ぼきっ。

「アッ……。」

 駆け寄ってきたひろ子ちゃんが、折れて転がっていた温度計を踏み潰した。細いガラス棒から、赤い液体が流れだした。

「ヤバイ!隠しとこう!!!」
「え……。」

 ひろ子ちゃんは、どちらかというと、狡賢い子だった。

 怒られるくらいならば、黙っておけばいい、そう考える子供だったのだ。
 怒られるくらいならば、証拠隠滅すればいい、そう考えることができる子供だったのだ。

「いい!このことは内緒ね!!言ったら絶交!!!」

 割れた温度計に土をかけ、かくれんぼは続行されることになった。

 二度ほど鬼を務めた後、私は家に帰った。

 心臓が、きゅっと痛んで、遊ぶどころではなかったのだ。

 帰宅し、宿題を終え、お風呂に入り、ごはんの時間になっても、心臓が痛かった。
 いつ家族にばれるのか、いつ学校の先生が訪ねて来るのか、心配で眠れなかった。

 悪いことをしてしまった。
 悪いことをして黙っている。
 悪いことをしてなにも罰を受けていない。
 悪いことをして悪いままだ。

 私は、悪い。
 私は、悪い。
 私は、悪い。


 日曜の朝、子供会のイベントがあったので学校に行くと、百葉箱の前に先生がいた。

 校長先生か、教頭先生だったと思うが、ガラスの破片を集めているのを見て、また、心臓が痛くなった。

 ……まるで、心臓を鷲掴みされているような。

 このまま、逃げるのか。
 このまま、悪いことをした事実を隠し通せるだろうか。
 このまま、心臓の痛みをずっと感じて生きていかなければいけないのか。

 吐きそうだった。

 自分のしでかした悪事に飲み込まれて、死んでしまうのではないかと思った。

「・・・ごめんなさい。」

 私は、痛む心臓を押さえながら、先生に謝った。

 私には、逃げ出す勇気も、隠し通せる強さもなかったのだ。

 どうせ怒られ慣れている。
 どうせ怒鳴られ慣れている。
 どうせ言い分を聞いてもらえない事に慣れている。
 どうせ自分が一番悪いのだと納得する事に慣れている。

 もしかしたら、謝れば少しは罪が軽くなるかもしれない。
 なにもしないで罪を放置するよりは、ましかもしれない。
 罪がばれて徹底的に叩きのめされるよりは、楽かもしれない。

 ひろ子ちゃんの事は言わずに、全て自分がやったことにして、謝った。
 ひろ子ちゃんに絶交されるわけには、いかなかったのだ。

「君がやったんですか。」
「はい、わたしがひとりでふみました。」

 どれほど怒られるのだろうか。
 どれほどゲンコツされてしまうのだろうか。

 もしかしたら弁償しろと言われるかもしれない。
 もしかしたら家に連絡されるかもしれない。

 祖母が怒ったらどうしよう。
 母親がおかしくなったらどうしよう。

 今度こそ橋の下に捨てられるかもしれない。

 追い込まれていく中、私の心臓は、どんどん締め付けられていった。

 このまま、死んでしまうのかもしれない。

 覚悟を決めて、先生を、見上げた。

「正直に話してくれたから、良いですよ。もう、同じ事はしないようにね。」

 許された瞬間、私の心臓が、解放されたのを感じた。

 胸の痛みが、スッと消えた、瞬間を、今でも思い出す。

 私が苦しむところを見せなくても、許してくれる人がいる。
 それが、とても、印象に残ったのだ。


 それから何度も、心を痛めた。


 友達に借りた本を祖母に捨てられてしまった時も。
 花係をしていた時に手を滑らせて花びんを割ってしまった時も。
 理科の実験で絶対にこぼしてはいけないと言われた過酸化水素水をこぼしてしまった時も。
 カンニングの手伝いを断り切れなかった時も。
 パチンコ屋の前で落ちていた千円札を友達がくすねた時も。
 知人に彼氏を奪われた時も。
 同僚に手柄を奪われた時も。
 親にウソをついた時も。
 恋人にウソをついた時も。
 自分にウソをついた時も。
 家族に本当の事を言えなかった時も。
 親の世話を放棄した時も。
 人生を投げ出すと決めた時も。

 許してくれる人もいれば、決して許さない人もいた。

 私は、できる限り、許してきた。
 私を許さなかった人たちと、一緒には、なりたくなかった。
 私を許さなかった人たちと同じ目を、誰かに向けるような事はしたくなった。

 いつしか、何をしていても、言い様のない胸の痛みを感じるようになった。

 穏やかに過ごしているはずなのに。
 誰一人自分を責める者はいないのに。
 一人で気ままな暮らしをしているのに。

 私の心を傷つける人は、どこにもいないのに。

 ひとりで病院に行き、検査を受ける。
 どこも悪くないと言われて、ひとりで家に帰る。

 ひとりぼっちで、黙ってご飯を食べる。
 ひとりぼっちで、黙って仕事をする。
 ひとりぼっちで、黙って眠りにつく。

 心が、痛い。

 心臓が、痛い。

 胸が、苦しい。

 胸が、張り裂けそうだ。

 いつになったら、この痛みは消えるのだろうか。
 いつか、この痛みは消えるのだろうか。

 この、痛みが、消えるのは。
 私の、心臓が、止まる時なのかも、しれない。

 あと、どれくらい?

 あと、どれだけ、耐えられる?

 不安が過るたびに、痛みを増す、心臓。
 過去の記憶を振り返ると、仄かに痛む、心臓。

 確かに昔痛みを感じた出来事なのに、あれほど痛かったはずなのに。

 今の胸の痛みを忘れるために、過去の痛みを思い出す。

 過去の痛みを切望するほどに、……今の痛みは。

 昔、心臓が止まるんじゃないかと心配した痛み。
 一度も止まる事なく、規則的に鼓動し続ける、心臓。

 心臓が、止まっていたら、今頃私は。

 こんなにも、つらい、日々を、送らずに。

 痛む、胸を押さえながら。

 ……私はそっと、目を、閉じた。


ただの肋間神経痛という噂…。


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