見出し画像

制作日誌④:後悔先に立たず

ここでは本作の監督がつづった制作日誌を全7回にわたって掲載します。
本作のご鑑賞と併せて、是非ご一読ください!

**************

春。桜が満開に咲き、緑も豊かで心地よい陽気。冬に比べ高沢の雰囲気はガラッと変わっていた。

春は撮影項目が多く、気合いは入っていたが1つ不安なことがあった。忠男さんのことだ。

高澤忠男さん(当時82歳)は集落の一番奥の場所に暮らしている。前年の秋。二度目に高沢を取材した日はあいにくに雨だった。できるだけ多くの人に出会って、撮影対象を選びたいと思ったのだが、案の定、外に出だしている人はいなかった。諦めかけていたころ、ずぶ濡れになりながら乗っていた原付バイクを車庫に入れる人を見つけた。その人が忠男さんだった。車庫にあった無数の工具と手作りの手すり。働き者且つ、控えめな話し方に惹かれた。冬に忠男さんの撮影はしたが、それからの撮影に関しては断られており、交渉は春へ持ち越していた。

そして、春になり忠男さんに再度撮影を申し込んだ。全く乗り気じゃない忠男に何度も何度も、頭を下げて頼みこんだ。忠男さんも気の毒に思ったのか、最後は折れてくれた。ホッとしたのと同時に、ちょっと申し訳ない気持ちになった。

しかし、自宅での撮影が始まると忠男さんはスタッフにお酒を注いでもてなしてくれた。撮影を続けていると点けていたテレビから『鶴瓶に乾杯』が流れる。すると「あんたらが来てからこれを見て勉強してる」と忠男さん。どうやら撮影スタッフを番組のようにもてなせるか気になっていたらしい。その後は空気が和んで良い撮影になった。

それからは撮影が無くとも忠男さんの自宅で酒を飲んだ。普段、物静かな忠男さんが酔っぱらって陽気になるのが、話していて楽しかった。映画が完成し、高沢で上映した時も丁寧にお礼をしてくれた。大学を卒業してからも、忠男さんは僕に電話をくれて、僕やスタッフを気にかけてくれた。

撮影から3年後。仕事を言い訳に僕は一度も高沢へ行くこともなく、その間に忠男さんは亡くなった。知らせを聞いて数か月後に僕は高沢へ向かった。忠男さんの自宅を訪ねると、奥さんの弘子さんは集落から離れた施設で生活しているため、誰も住んでいなかったが、無数の工具とバイクはそのまま残っていた。

せめてもう一度会いたかったと、亡くなってから思う薄情な僕に優しくしてくれた忠男さん。電話で、作品を収録したDVDの観方が分からないと言う忠男さんに、方法をいくつか伝えたがあの後観ることができただろうか。今更何を思っても仕方ないのだが、やっぱりもう一回会って、一緒に焼酎を飲みたかった。

忠男さんの家で宴(2014年撮影)
ほつれたビニール紐で「縄ない」をする忠男さん(2014年撮影)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?