見出し画像

「自分がされて嫌なことを人にしない」は簡単か

「己の欲せざるところは人に施すなかれ」。自分がされて嫌なことは、人にもやらないように。「論語」の中にある、孔子の有名な言葉だ。

傷つける。脅す。いじめる。虐待する。命を奪う。あるいは、より規模の大きな搾取や弾圧、武力行使などなど。人が人を苦しめる行為の形は、数え上げれば果てしもない。


「自分がされて嫌なことは人にもしない。」あなたはところで、これを難しいことだと感じるだろうか。寄付や奉仕を求められるわけでもない。ただ一つ、「自分がされたら嫌なこと」を、他人に「するな」とだけ言っている。この規範を守るのに、何の犠牲もコストも必要としない。


私は、この簡明な規範の偉大さに深く感服する。もし世の人がこの簡単な規範を守ったなら、先に挙げた数えきれない苦しみの内、果たしてどれがこの世に残るだろうか。

あなたの近くの学校で起きているいじめは消える。あなたの家の数軒隣でおこなわれているネグレクトも、強迫的な教育虐待も消える。あなたがニュースで見た大量殺人も、あおり運転も起こらない。

しかしそんな未来を、すぐ明日のこととしてイメージ出来る人はほとんどいないだろう。そして人が人に与える苦しみは、遥かな昔から未だ一度も私たちのかたわらを離れたことがない。


すなわちこの簡単に見える規範は、実際には簡単ではないのだ。こんな簡単なことさえ出来ない自分勝手な人がまだまだ多いから?私はそれが理由の本質とは思わない。

私自身を含め、この簡単に見える規範を本当の意味で守れる人は、実はほとんどいないのだ。誰もが、必ず何かを、この規範の「対象外」にして暮らしている。そして多くの場合そのことに無自覚だ。


他人に嫌がらせなどしないような人でも、身体に障害のある人が困るような街の環境や、自分のまとう衣料や口にする食べものを生産する見知らぬ外国の人たちの苛烈な労働環境については、無関心であったりする。あるいは医療の進歩と人の命の救済は願うが、その研究過程で実験に供される無数の動物の命は視野に入れない。花を愛でる人も、雑草には除草剤を注ぐ。

誰もが皆、自分の眼中にない何者かに対しては無慈悲なのだ。ここに、この簡単な規範の困難さの本質がある。


自分がされて嫌なことをしない「対象」と「適用対象外」の線引きは、最も大まかな枠組みとしては、その人が無意識に自分の「同属(身内)」と見なしているものと、それ以外との間に引かれる。

ある人における同属は例えば家族や知人などであったり、「ペット」までだったりする。あるいは日本人と外国人の間、犬と豚の間などに線が引かれるが、状況によってもその線の位置は変動する。概ね、何らかの窮状が発生すると「対象外」は拡大する。

私たちが己の欲せざるところ…を実践したとしても、それは常に「ある限定された範囲の対象」に向けてなのだ。どんな人も、その対象が相対的に広いか、狭いかの違いしかない。


そして私たちは一個の生物として「生きる」ために、最終的に己の欲せざるところを何者かに施すことを宿命的に避けられない。それは「食べる」ということにおいてだ。私たちは食べられたくない。しかし食べなければならない。

感謝して食べる、は良いことだと思う。しかし感謝して食べたからと言って、食べられる側は喜びも救われもしない。あなたが食べられる側になったならすぐわかるだろう。

私は菜食主義ではないが、食べた者が必ず食べられた側の生き物に生まれ変わる摂理がこの世にあったらいいのにと思う。それでこそ命は平等で、感謝は対等な意味をなす。

画像2

苦しめない対象から外される者が必ずあり、かつ、対象の範囲は変事に狭まる。だからこそ、私たちは日常でその対象を可能な限り広げ、自分自身から遠い存在も自分の同属としていくことに努めなくてはならないのだと思う。あなたとあなたの大事な人とが、決してその境界線で分かたれることの無いように。

宮沢賢治が記した「農民芸術概論綱要」というテキストに、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉がある。この実現困難に見える言葉は、しかし事実に他ならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?