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寝てる間の私は賢い。昨夜の謎・違和感が、早朝に解けてる。

『気付き』にも大小ありまして、
ときどき大きな気付きを得たときというのは、
本当に、次から次へと思考が前進するものです。
まるでそれは、トランプの七並べで、ずっと止まっていた部分を誰かがやっと出したときのよう。

そんなとき必ず私は、その全てを「書く」ようにしています。
というか、「書く」ことで、頭にあることを外に出すから、その奥にある言葉が次々に頭の最前線に浮かんでくるわけですが。


さて、
今日は、
ほんの7時間前にインプットしたこと ~友人から「この人の言うこと聞いてみて」と言われ聞いてみたら、私にとって何とも新鮮で新しい感覚で、いろいろ思うことはあるけど言葉にはならなくて~ に対し、
早朝、目が覚めて、まだ朦朧としている最中、勝手に頭が働き始めて、
ボーっとしながら「あぁ、そういうことかぁ」と深い納得をし、これは寝とる場合じゃないと、無理やり文字を書き始めた、
その際の記録を、
ほぼそのままここに書いておこうと思いまして。
お腹が減って仕方ないですが、
これは今やっておかないとスッキリしなやつだ、という直観のもと。

脈絡はメチャクチャかもしれませんが、
とりあえず書きます。


テーマ的には、

【人は、
小さい頃にしつけや教育を受け、あるいはいろんな大人の言うことを素直に聞き入れるがあまり、
ときに、自分を抑える癖が強く出るようになり、
生きづらくなる、
ということがあり、
その後、ラクに生きれるように、自分を縛っている何だかんだを外していく、
という工程をとる】
というようなことに対し、
なんで、ひとりひとりがそんなまどろっこしい工程を経る必要があるんだろう?
それで人生のほとんどを使ってるじゃん?
という漠然とした違和感が私にはあり、
そういう問いに対する回答として聞こえてきそうなのは、
「その『学び』のために生まれてくるんです」
というような回答。
私は、
正直、
そういう言い回しに対し、
腑に落ち切らない部分がある。
そういう点に対する、
新鮮で腑に落ちる見解が、
私の中に芽生えた…


というようなテーマ。

長すぎるテーマではありますが、
いいんです。
これは、まとめた文章ではなく、
『人が気付くときって、こんな感じよね』
を、そのまま文字に起こそうとしていることが目的なのです。



以下👇、2022/11/8気付き。

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小さい頃、抑えられたことを、外していく。
その際、
実は、全部を外しているわけじゃない。

「自分で」きちんと、細かく見極めて、
『ここはそのまま。ここは外す』
と、細分化して外している。



小さい頃に抑えられたことを、
外していく際、
実は全部を外しているわけではなく、
細分化して、
これはいる、これはいらない、
と、細かく見極めて、
いらないものは外している。

何故そう言い切れるか?

排便の際、
トイレに行く、という点は、
誰も外さないだろ?



日々、生活することは、

自分を、ちょっとずつ細分化することであり、

細分化して、そのひとつひとつに、白か黒かの判決を下すことであり、

『腑に落ちる』とは、
これ以上ここらあたりは細分化できない、というところまで細分化できて、それぞれに白か黒かを丁寧に裁決できたこと、
ということなのだ、きっと。

すなわち、
小さい頃に、「1」という単位で、広く、抑えられた部分、
それが、例えば「100」にまで細分化して捉えることができるようになった段階で、
その「100」の内、いくらかは、抑えたまま、
残りを、外す。残り「のみを」外す。
納得してそれができることが、『腑に落ちる』ということ。

その細かい分別には時間がかかる、
何故なら、
自分の中の違和感と対話しながら、納得のいくまで、細分化しなければならないから。
少しでも違和感が残るのは、
細分化があと少し足りないということ。
残すべき部分も一緒に外そうとしてしまってる、ということ。
ホントは最終的に「3/100」を削ることになる部分で、まだ細分化がそこまで届いてなくて、「4/100」で削ろうとしている、というか。
その際、
自分の中にある違和感を信じることが大事。
まわりからの言葉に屈しては駄目。
それは腑に落ちてないということであり、未練が残ったままということ。
きれいに腑に落ちるには、
「納得」が必須であり、「納得」とは、違和感が完全に消えるまで『細分化&白黒判決』を繰り返した結果、のことだ。



『腑に落ちた』瞬間というのは、
本当にスッキリした感覚で、
過去に「1」で捉えてたことを、
「100」にまで細分化した、なんてことには自分で気付いていないというか。
そもそも論、
「小さい頃に抑えられる→年齢を重ねそれを外す」という工程を、何故、ひとりひとりみんながやらなきゃならないのか?
まどろっこしいよね?
という問いに対する答えといえば、
宗教のイメージでも、
スピリチュアルなイメージでも、
『学び』という言葉でまとめてしまったり、
という、
大人にとって都合のよい言葉で言いくるめるというか、
それこそ「UFO」と一緒だ。
俺は、
そこにずっと違和感があり、
もっと「納得」のいく説明があるはず、と、追求してきたが、
間違ってなかった、
と、今強く思う。



人間、小さい頃というのは、
物事を、『大きく』しか捉えられないのだ。
最初から「100」で細分化して物事を見れる人間なんていない、
ということ。
この事実・現実がまずあり、
その上で、
最終的に、
自分が、この世界で、無限のような数の人間の中で、
誰とも違う「自分らしさ」を身に付けるには、
『まずは大きく抑える』が最も手っ取り早いのかもしれない。
効率も、よいのかもしれない。
最終的なカタチには、
『腑に落ちた』という、その後、揺るぐことのない『納得』が不可欠であり、
その点においても、
『まず大きく抑える』は、もしかしたら必須なんじゃないか?

仮に、
小さい頃から、
親が、細かく細かく『1/100』ずつ丁寧に教えようとしても、
それは無理な話だ。
「なんで?どうして?」という反応になるに決まってる。
こういう場合はこう、こういうときはこう、
なんてことは、
時間をかけて経験する中で「なるほど」と思うしかないもんな。



まず大きく抑え、
時間をかけて、それを細分化して見ることができるようになり、
小さくなったひとつひとつに対し、
「必要?不必要?」を自分に問い、判決を下していく。
その判決は、
他の誰でもない自分がおこなうし、
その点は、
何をどうしようと、自分でしか出来ない、と言える。
仮に他人がそれをしようものなら、不具合が必ず起きる。
だよね?




小さい頃、まず大きく抑えられる、

とは、

ひとつのルールで、「広く」抑えられる、
ということだ。

それは、いわゆる、100か0かで考えてしまう、というあれだ。

それでいいのだ。
それが必要なのだ。




「機が熟す」とは、

「細分化・白黒判決」が、とどこおりなく完了する、
ということ




小さい頃に抑えられたこと、
それを外していく、

とは、

小さい頃に与えられたものに対し、
必要なものと不必要なものを、「自分」で見極めて、不必要なものは捨てていく、
ということ。

「自分で決める」という部分は重要だと思う。

「どっちが正しい?」「何が正しい?」の線引には、『判断力・決断力』が必要で、
それは、経験の積み重ねから手に入るもの。



『自分の人生は自分で決める』ためにも、
親や大人から、
『まず大きく抑えられる』というプロローグが、必要なんだ。

何かしらの枠組みがあって初めて、
『選ぶ』『選び抜く』ということができる。

何の枠組みもなく、
世界中の何を選んでもいいよ!と言われても、
戸惑うだけだろ?
そこには『怒り』もない。

やはり、
『怒り』は大事。
エネルギーの源だ。
『本当は自分はどうしたい?』を追求する強い意志であり、原動力。



「親を選んで生まれてくる」
に、初めて納得してる気がする


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以上、
2022/11/8 早朝の気付きでした。

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