見出し画像

「聞かなくても教えて」とは思っているけど「知らないヒトに教えるのは大変」ということもある程度はわかっています(ちょっとだけ昨日の続きと思ったら長くなりました)

昨日は「知らないヒトが損をしない社会のために、聞かなくても教えて」という話を書きました。それのちょっとだけ続きです。

ヒトには人生に数回、もしくは一回、場合によっては一度も経験しないことというのがたくさんあります。自分は教習所に2回通いしました。1回目は学生の頃に自動二輪中型の免許を取るために。せっかく取った免許は更新が面倒で流してしまいました。2回めに教習所に通ったのは40歳前後に普通免許を取りに行った時です。何事もちゃんと完了することができない自分は今度も免許を取れないのではないかと思いながら土日を中心に通い続けました。免許を取った時に思いました。人間、やればできることって本当にあるんだな、と。免許は流すは大学はふたつも中退するはの私は、例え小さなことであっても成し遂げられないのではという思いに常に囚われています。免許なんて、多くのヒトが別にたいしたことのない通過儀礼のように取得するものだったりします。だからこそ身分証明書としてこれだけ普及しているわけです。そういえば免許を流して以降はずっと写真付きの身分証明書が無くて苦労しました。パスポートも作っていなかったので。パスポートも更新しないで流してしまった。家族で行った韓国旅行、楽しかったけど、旅先で疲れた(元)妻はひとりで不貞寝したりもしていました。すごく「らしい」エピソードです。懐かしい。

話が逸れてしまいました。教習所に通うのは普通は1回だと思います。2回目は心の準備が出来ているので楽でした。原付の講習は楽勝でした。なんだよ、みんなスクーターとか乗ったことないのかよ。

乗ったことないのが当たり前です。先に原付や自動二輪の免許を取っているヒトは極一部で、私のように「若い頃にバイクに乗っていたが免許を流して今回は普通免許取得に来ている」というおっさんは例外中の例外なんです。そんなことにも気がつけない自分が間抜けで、後から反省しました。そうだよな、教習所で生まれて初めて原付に乗るのはおかしくもなんともないよ。

家を買った時は「こんなこと一生に一回しか体験しないだろうな」と思いました。実際にそうなっています。しかし、一生に一度のことなのにわからないことだらけで困り果てました。生まれて初めて見る書類の山、山、山。その後、住宅ローンの借り換えの時には初めて買った時の記憶がほんの少しだけ役に立ちました。とはいえ、借り換えもわからないことだらけで気持ちが擦り減りました。

それでも、家を買う時やローンを借り換える時はこちらが「お客さま」なのでわからないことも気軽に聞けます。いや、本当はわからないことだらけで何を聞いたらいいのかもわからないのに全然教えてくれなくて嫌気がさしました。そりゃ、不動産会社や銀行で働いていたら家を売るなんて日々の業務だからイヤというほど繰り返しているはずです。でも、こっちは一生に一回なんだよ。もう少し親切に教えてくれよ。心の底からそう思いました。

娘が病気になってからは病院でも役所でも保健所でも年金事務所でも、生まれて初めて聞く話ばかりで理解もなにも追いつきません。これも、先方に取っては日々の業務の一環でしかないのはわかります。わかりますが、こっちは生まれて初めてだし、書類や手続きによっては一生に一回しか書かなかったりするんだって。

ですが、私は実はこういう「うんざりするぐらい繰り返している側」の気持ちもよくわかります。

私は出版社で働いています。私の会社の扱っているジャンルでは「著者が一生に一冊だけ出した本」というのは滅多にありませんが、一般的にそういう「一生に一冊だけの本」は少なくありません。著者にとっては生きた証とも言える大事な一冊だったりするのですが、出版社で働いていると「たくさん扱っている商品のひとつ」にしか思えなくなってしまう瞬間も多々あります。大事にしていないということではなく、生きた証としての熱い思いをぴったりシンクロして完全に共有するのが難しい場合もある、という意味です。なので、正直に言うと、たくさん書いているドライな著者とのお付き合いのほうが気は楽です。もちろん、たくさん書いていても「すべて熱い人生の滾りなのだッッ」と激熱な方も多いので、あまりドライに接するのはよろしくありません。なんというか、そこはちゃんと考える必要があります。

そんな自分ですが、たまに思うのです、「ああ、この本は本当に著者の人生の証としての一冊なんだろうな」と。そして、そういう思いを裏切らないように務めなければならないなと。だから、宣伝などでも諦めきれずに「もう少し」と粘ることもよくあります。それが著者や社内に伝わっているとは思いませんが、私の中にもそういう思いはあるということです。

自分の人生の証をもっと多くのヒトに届けたいという熱意を持った著者から「なにをしたらいいのか」と聞かれたり、場合によっては「できることはなんでもやります」と言われたりすることもあります。これも正直に言うと、実はけっこう困ります。なぜなら予算や人員の都合などもあり、採算を度外視してまでの販促や宣伝は出来ないことが多いからです。個人的に一番困るのは「サイン会をやりたい」でしょうか。幸い、今の会社で著者の先生から言われたことはないです。私は若い頃に書店でバイトもしていたのでサイン会は「すごく売れてる著者以外は厳しい」という現実をイヤというほど見ています。そりゃCLAMP先生や田中芳樹先生なら整理券配らないと行けないぐらい集まるんだけどさあ……。芥川賞作家でもサイン希望者の列が足りなくて店員総出でサクラで並んだりもしたよ。書店に挨拶に行きたいも厳しいです。私は大きな書店2箇所でバイトしましたが、著者に突然来られても、社員の皆さんもけっこう困ってましたよ。いやそれもすげえ売れてたら全然いいんだよ。そういうもんです。

また話が逸れました。

そういう「熱意」に、私はなるべく詳細に答えるように心がけています。心がけているだけで実際にはきちんと出来ていない場合もありますが。先ほども触れましたが、「一生に一度の生きた証」を大事に熱心に多くの人に知ってもらいたい読んでもらいたいという気持ちはよくわかります。なので、なにかできないかと聞かれたら相手が何をどうしたいのかを聞いた上で、こちらが出来ること出来ないことやらないこと等をちゃんとお返しするようにしています。出来ないことは多いです。なので色々言っても言い訳に聞こえるだけかもしれませんが、可能な限り「こういうことなら出来ます(やります)」ということもお伝えします。

そんな時に思うのです。私が一生に一度のことでよく分からずにちゃんと教えてもらいたいと思うのと一緒だな、と。私自身も先方には「日々のことで飽き飽きしている」ように見えているかもしれません。いやほぼ間違いなくそう思われているはずです。なんかすみません。

そういう時に説明することの難しさも思います。先方が知らないことを教えるというのは、時と場合によってはとても難しいことです。決して一回説明してそれで終わりではありません。

これは著者に対しての説明だけでなく商品として書店に並べた本の存在を読者に対して知らせることについても一緒です。本の存在は、出版社や著者が思うのより遥かに読者に知られていません。「そんなの宣伝足りないからだろ」と言われそうですが、興味関心が細分化された現代においては、例えばあれだけ話題になった『鬼滅の刃』ですら知らないとか、大ベストセラーの『ハリー・ポッター』シリーズですら一冊も読んだことがないとか、そういうのは、ごく当たり前の話です。誰もが知ってるというのはテレビで宣伝しても難しい。ましてやテレビどころかネットでも宣伝しないような本であれば知っているヒトのほうが珍しくて当然です。

つまり、本は誰にも知られていないことを前提に、何度も何度も繰り返して宣伝し続けるしかありません。宣伝する側にとっても面倒で手間のかかる話です。ですが、そうするしかありません。

そういう意味では私も、「聞かなくても教えて」とは言っても「知らないヒトに教えるのは大変」ということについて、ある程度はわかっているつもりです。本当に、本だろうが福祉への道筋だろうがローンの借り換えだろうが自動車修理だろうが、多くの人に何かを伝えるのは面倒で手間のかかる話です。だから、それを日々業務にしているヒトがなんとなく面倒になる気持ちもわかります。逆に常に暑苦しいぐらい熱血のヒトの気持ちは自分はあんまりわかりません。すみません。

わからない相手により広く伝えるということ、それは社会の仕組みとして、もっと考えるべきことなのかもしれません。そういう気もします。ですが、どんな仕組みを作ったとしても、ひとりひとりの「面倒だなあ」とか「言ってもどうせわかんないだろうな」という気持ちをちょっとだけ越えるのは難しいです。

難しいからこそ、なんとかして越えて欲しいし、自分も越えたいです。

なんか、勝手言ってすみません。


いただいたサポートは娘との暮らしに使わせていただきます。ありがとうございます。