見出し画像

これという書物に出会うためには

おはようございます!
 
歎異抄を読み直しています。
 
歎異抄に関心を持ってから、
10年くらいたつでしょうか。
 
はじめは読むのをあきらめました。
何が書いてあるかわからないからです。
 
ですので、マンガ歎異抄から始め、
現代語訳をよみ、解説本を読み、
100分de名著を経て、
ようやく原本で
何とか読めるようになりました。
 
はじめは仏教の単語がわからないので、
その単語を調べていると時間がたち、
1ページを読み終えられませんでした。
 

 
しかし、歎異抄に限らず、
新しい書物に触れるときはいつもそうです。
 
言葉がわからないので、
遅々として進みません。
文体もそれぞれに独特で
慣れるのに往生します。
 
それに何とか慣れてきて、
中身が少しずつ分かるようになります。
 
ただそのエネルギーや時間は結構なもので、
それに値する内容があるかわかりません。
新しいことを学ぶときは、
必ずそういう状況になります。
自分にとって意味があるかどうか
わかりませんが、
えいやっと取りかかります。
 
直観がすべてですが、その杖となるのは、
その書物や人物を紹介してくれる人です。
 

 
私の歎異抄でいえば、3ルートほどあります。
 
「最後の親鸞」を書いた吉本隆明さん。
吉本隆明さんを取り上げた糸井重里さん。
糸井重里さんが気になったのは、
コピーライターであった彼が
ほぼ日というインターネットで
再び世の中に出てきて、
そのHPをまねしたくなったからです。
 
もう一つは、
浄土真宗の僧侶、釈徹宗さん。
釈徹宗さんは彼と親交のある内田樹さん。
内田樹さんが気になったのは、
仕事で心底疲れ切った時に駅前の書店で
手にとった「疲れすぎて眠れぬ夜のために」
という書籍との出会いです。
 
最後の一つは、
大好きで読み込んだ司馬遼太郎さんが、
太平洋戦争の戦地に一冊だけ持っていった
書物が歎異抄であったためです。
 
もう一つ忘れていましたが、
中学高校が浄土宗増上寺の学校だった
ことでした。
 
たまたまの縁が複層的に重なり合って、
きっと何かあるに違いない
という思いに繋がり、
何気に手に取ってみたということです。
 

 
ここから縁の大切さ
を導くこともできますが、
私はそうではなく、
「何かある(学べる)に違いない」
と師を求め続ける構えが大切なのだと
今は思っています。
 
その意味では、シラバスという仕組みは
効率的ですが、あまり好きではありません。
学びの醍醐味、学ぶリスクを取る勇気
を後景化させるからです。
 
自分にあった飲み屋も、
ネオンサインを見て、
えいやっと入って見つけるもの
ですしね(笑)
 
今日もよろしくお願いします。
 
安島

この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?