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旅人の僕が実際に目にしてきたシリア難民についての一大レポート(後編)


中編からの続き。

(かなりの長編ですが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。)


さて、僕が見た限り、お昼前の時点で国連ボランティアの方が手にしていた手動式カウンターが「1703」という数字を示していたので、


この日一日で少なくとも4000人以上の難民の人たちが、この線路を通ってハンガリーに入国したんじゃないかと思われます。

僕はずっと、警察や軍隊が見守る中、線路を歩いて入国する難民の人たちに対して、英語やモロッコで覚えたばっかりのカタコトのアラビア語で「こんにちは」とか「ようこそ」と声をかけ続け、写真を撮らせてもらっていました。

ハンガリーに住んでるわけでもない僕が「ようこそ」という言葉を使うのは少しおかしいのかもしれませんが、それでも僕にとって「ようこそ」は「ようこそ」なんです。

そしてやっぱり、「グッドラック」という言葉も。


あと、これは何度かあったんですが、僕が「グッドラック」という言葉をかけた後、

「You too !!(君もね)」

と満面の笑顔で返してくれる難民の人たちがいました。


これには心底びっくりしました。

「君もね」

こんな何の不自由もなく安全な場所から見守っているだけのただの傍観者に対して、今生きるか死ぬかの苦労を繰り返している彼らが、です。

なんて心が広くて情が深い人たちなんでしょうか。

僕は「You too」と返される度に、こらえていた感情が崩壊してしまい、何度も涙を流さずにはいられませんでした。

結局僕は、この日「ロスケ」に滞在していたうちの4分の1ぐらいはずっと泣いていた気がします。


ただ、午前11時頃、突然場の空気が変わり、軍隊が報道陣やボランティアに、この場から少し離れるよう指示を出しました。


そして、どこからともなく、何かを運んだ大きなトラックがやってきます。


そう、ついにこの線路周辺にもフェンスが作られ始めたんです。

これが完成すれば、セルビアからのハンガリー国境は完全に封鎖されることになります。

ハンガリー政府はついにそういう決断を下したんでしょうか。

ならば、今もどんどんここへ向かって来ている難民の人たちは一体どうなるのでしょうか。

この場に、今までにない緊張感が走りました。


地面に支柱を埋め込む重機。


フェンスが作られる横を通って、国境を越えて行く難民の人たち。


フェンスを作る作業員の人たち。


そして、あっという間に、全ての支柱は打ち込まれました。

やっぱり一気に175kmものフェンスを作り上げた彼らにとって、このぐらいの作業は朝飯前なんでしょう。


でもこの日、結局これだけで作業は終わり、このままフェンスが完成することはありませんでした。

そしてその後も、ただ支柱と支柱の間を通り、特に問題なく次々と難民の人たちは入国していきました。

ただ僕には、これは政府からの予告・アピール・意思表示のように感じられました。
今後の混乱を少しでも回避するために。

近いうちにここも完全封鎖するから、もうお前たちはハンガリーには入国できないぞ、と。
仲間たちにも伝えておけよ、と。
言ったからな、と。

やはり状況は決して安泰ではありません。



さて、この国境地点に5時間ぐらい滞在した僕は、この後彼らは一体どこに向かってるんだろうと思って、一緒に線路を歩いて彼らの後を追ってみました。


すると1kmぐらい歩いた線路の横に、たくさんのテントが並ぶ広いキャンプ地がありました。


ただ、ここは正式な難民キャンプではなく、国境一時預かり所といった感じで、全員一旦ここでしばらく過ごした後、順次正式な難民キャンプに向かうバスに乗り込むようです。

そして、そこでようやく難民登録が行われます。


難民キャンプに向かうバスに並ぶ、長い難民の列。


難民キャンプに向かうバスに乗り込むのを待つ難民の人たち。



ここで気付いたんですが、朝ロスケの村で出会った何組かの難民グループは、もしかしたらこのキャンプ地をこっそり抜け出して、自分たちでなんとかブダペストなりドイツを目指そうとしていたんではないでしょうか。

ここにいたら、登録までにもまだまだ時間がかかるし、その間に状況も悪い方向へ変化してしまうかもしれないから。
ここまで来て、もう待ってられない、と。


ここでも僕は、たくさんの人たちとお話をさせてもらいました。

でも、特にそこまで深い話をしたわけではありません。大半はごく他愛のない世間話です。

このキャンプ地には、前にも言ったように、たくさんのシリア人の他にも、イラクやアフガニスタン、さらにはアフリカのコンゴから逃れて来た人までいました。

世間では、彼らを「難民」と呼ぶのか「移民」と呼ぶのかで意見が割れているようですが、僕にはそんな区別なんかより、紛争からでも貧しさからでも、とにかくみんな生き延びるために自分の国から逃げて来たっていう事実だけで十分です。


そして、ここで一つ知ったことがあります。

僕はさっきの国境ポイントでよく難民の人たちから

「この後、登録の時に指紋を取られるのか?」

という質問を受けていて、その度に

「ごめんなさい。それは僕は知らない。」

と答えていたんですが、

これは実は、一部の難民の中で

「ハンガリーの首相はイスラム教徒を憎んでいて、ここで難民登録をして指紋を取られると、全員自分の国に強制的に還されてしまう」

という不確かな噂が流れていたからだということが分かりました。

やっぱり自分の国に還されるということが、難民の人たちにとっては何よりも一番怖いことなんです。

僕たちにそんな想像ができるでしょうか。


さて、前回載せきれなかった写真も含め、またたくさん写真を載せます。


「ロスケ」の村の中で出会った、難民グループ。


線路を歩いてハンガリーに入国する難民親子たち。


難民少年たち。


木陰や畑の中で休憩する難民の人たち。


線路を歩いてキャンプ地に向かう難民の人たち。


キャンプ地での難民の人たち。


「FUCK THE POLICE」と書かれたテント。


キャンプ地を抜け出す人たち。


アフガニスタンからの難民の人たち。
アフガニスタン人はたまにモンゴリアンの血が入っている場合があるから、とてもアジアチックな顔。


バスを待つ難民男性と少年。


どの国から来たかチェックを受ける難民の人たち。


ようやくバスに乗れることで、警察に喜びの表情を見せる難民の人たち。


難民親子がバスに乗り込むのを手助けする警察。


乗り込んだバスの中から笑顔を見せてくれた人たち。


警察と談笑する難民少年たち。


とても貴重な写真。
警察と難民少年の笑顔の2ショット。



全てを悟ったようなこういう難民少年の表情を見ると、とても胸が痛む。


ボランティアから配給された食事を食べる難民の人たち。


僕が見た限りでは、食事は全員に問題なく行き渡っているようでした。

野菜やお菓子や飲み物なども豊富に大量にあり、この地においては食事に関しての混乱はありませんでした。

衣類や靴なども大量にあります。

おそらく各地からの寄付品だと思います。


でも、そこら中にゴミも大量に散乱しています。


最近、<難民受け入れ先の国ドイツ・ミュンヘン駅で、難民が残した大量のゴミ画像>が、ネット上で拡散されて、

「ほら、難民を受け入れるとこういうことになる。難民のマナーは最低だ。だから難民は受け入れるべきではない」

といった流れが一部でできていたみたいですが、

ただ、僕からしてみると、そんなゴミ問題と根本的な難民問題を一緒に並べて語るなよと、とても悲しい気持ちになります。

もちろん、ゴミが散乱してることが良いことだなんて全く思いません。
そりゃあ、地元に住んでいる人からしたら、かなり不愉快なことでしょう。

でも、もちろん大変なのは分かりますが、ゴミは誰かが頑張って掃除したら、それで綺麗になるんです。
問題は終わるんです。

一方、今の難民問題はそんな単純な話ではありません。

彼らにとって生きるか死ぬかの話なんです。
マナーがどうこう言ってる余裕などないんです。

そしてそれは、誰かが掃除して終わり、なんて簡単な問題ではありません。
ゴミ問題とはあまりにも大きさが違いすぎます。

「ゴミがたくさん出る = 難民を受け入れるな」

なんて、あまりにも乱暴な理論です。

それなのに、誰かが面白半分か、何らかの意図を持って、インパクトのある写真だけを使って印象操作をする。

そして、それに本当に簡単に流されてしまう人がたくさんいる。

前も言いましたが、僕は別に「難民受け入れ絶対賛成!」とか「可哀想な難民を全ての国が受け入れるべきだ!」なんていう一方的な強い思想を持っているわけじゃありません。

でもやっぱり、こういうインパクトだけで行われる明らかな印象操作と流される人たちを見ていると、すごく悲しくて虚しい気持ちになります。

まあ、いつもこれが世の中だってのも理解しますが…。


というか、そもそも「受け入れ先の国ドイツのミュンヘン駅の様子」として出回ってる写真、

僕は何度も行ってるから分かりますけど、あれ完全に、ドイツじゃなくて「ブダペスト東駅」の写真ですからね!

ブダペストは難民受け入れの場所じゃないですからね!

いや、そもそも根本から嘘の情報って…。

そして、今はもうその東駅も綺麗になっています。

それが現実です。



さて、僕はこのキャンプにも2時間滞在し、結局この日「ロスケ」全体に7時間ほどいたことになるんですが、幸いなことに、その間特に大きな混乱や衝突はありませんでした。

ただ僕自身はというと、一日中必死に動き続け、歩き続け、緊張し続け、声をかけ続け、考え続け、写真を撮り続けたことで、最終的に気力も体力も僕の中の全てを使い果たしてしまったようです。

疲労困憊のままこの日最終の午後4時ロスケ発の列車(乗客はまた僕一人)に乗った僕は、行きでも乗り換えた「セゲド」の町で、予約していた宿に向かったんですが、駅から宿までの徒歩20分の道さえが、永遠に続く果てしない道のように感じられました。

そして宿に着くと、部屋から一歩も出ることができなくなってベッドに倒れ込んだんですが、それでもどうしても今日撮った大量の写真をバックアップしたり整理しなければならないので(データ容量に余裕がなくて、それをしないと明日また撮ることができない)、ずっとその作業をしていました。

でも、その日撮った写真が一日で3000枚近くっていうバカみたいな数だったので、結局明け方まで寝ることができず、僕はたった数時間だけの睡眠で朝を迎えてしまったのです。


そして、次の日もそのまままた「ロスケ」の国境ポイントまで向かったんですが、この日のことはあまり書けることがありません。
僕がもうあまりにも限界だったから。

立っていることがやっとっていう僕は、昨日とは打って変わってこの日は写真すらほとんど撮ることができず、とにかくその場の状況をずっと眺めていました。

そして、僕は水を持っていくのも忘れていて、喉が渇いて仕方なかったんですが、そこら中に大量に置いてある難民の人たち用のミネラルウォーターにはなんとなくどうしても手をつけることができず、ただひたすら喉の乾きに耐えていました。


ただ、昨日と変わったことといえば、警備に新たに警察犬が導入されていたことぐらいで、


この日もフェンスは支柱が刺さっただけの状態で、たくさんの難民の人たちが次々と国境を越えて行きました。

あ、でも、この日数人の外国人ジャーナリストの人たちと友達になったり、僕がここ数日では一番長くここにいるということで、
「この2日間で僕は一体何を感じたか」
っていうインタビューを海外メディアから受けたりもしたんですが、そういう話はまた機会があれば別の時に。


とにかく、9月12日・13日と、こうして僕の国境での2日間は終わりました。



そして、難民の人たちはあの後どうなるかというと、難民キャンプで登録が終わると、ようやく首都ブダペストに向かい、国際列車の発着する「ブダペスト東駅」からドイツなどの国に向かうわけです。

ただ、もちろんそんなにスムーズで簡単な話ではありません。

なんとか東駅に着いても、そこでまた何日間も、いつ乗り込めるか分からない列車の到着を何が起るか分からない緊張感の中待ち続けなければいけないのです。
駅構内で再びテントを張って生活しながら。

そして数日前に実際に東駅でその様子を見て、僕は国境行きを決めたわけです。

それでは、その東駅での様子も載せておきます。


駅構内に張られたテント。


列車の到着を待つ難民の長い列。


東駅構内で過ごす難民家族たち。


臨時で設置された水道装置で足を洗う難民男性。


難民に無料で配られる大量のピザ。


衣料の支給場所。


無料で持っていってたり、置いていったりしていい大量の靴。


難民の人たちが情報収集できるよう、有志が駅構内に無料Wi-Fiを飛ばしています。
(YouTubeはデータ量が多く通信が遅くなるので禁止)


携帯充電ステーション。


「列車のチケット購入は国境までの分だけ買ってください。国境からウィーンやドイツには無料で行けるのでチケット無用です。国境までは3395フォリント(約1450円)」
と書かれた注意書き。


「何と言われたとしても、絶対にこういうタイプの車には乗っちゃいけません!!危険です!!殺されるかもしれませんよ!!」
という、誘拐や強盗に対する注意書き。


「ハンガリーの人たち、どうもありがとう。私たちはあなたたちの優しさをずっと忘れません。あなたたちは本当に親切です。」
と、難民の手によって駅の壁に残されたメッセージ。



この日、僕が滞在していた時に偶然にも難民用のドイツ行きの列車がやってきて、多くの難民の人たちが電車に乗ることができました。


列車の乗り口に殺到する難民の人たち。


ついに無事ドイツ行きの列車に乗り込めて喜ぶ難民の人たち。


餞別のスカーフを列車に投げ込む支援女性たち。


列車に乗り込む前に夫とはぐれてしまい、困惑する難民女性。


しかし最終的に夫が見つかり、安心して列車に乗り込んだ難民女性。
周りからも大きな拍手が起きた。



ちなみにこれらは全部、僕が国境へ行くより前に撮った写真です。

そして僕が国境から帰ったその日、ついにドイツ政府はこれまでの難民受け入れ容認の姿勢を変更し、今後は国境での入国審査を始めると宣言しました。

つまりEU内での国境審査無しの移動を認めるシェンゲン協定からの一時的な離脱です。

あのドイツまでもがそうせざるをえないほど、流入難民の数が増えすぎたのです。

ということは、今まで必死に夢のドイツを目指していた難民の人たちも、今後は行き先を変更せざるをえなくなりました。

さらに、もうすぐ完全封鎖が近づいているのであろう、あのハンガリー国境のフェンス。

欧州における難民問題事情は今、明らかにめまぐるしく変化しています。


そしてドイツのその発表の後、再び東駅を訪れると、わずかなテントと少数の難民の人たちだけを残して、駅構内は完全に様変わりしていました。
もうゴミ一つありません。
たった数日で何もかもが激変です。


はっきりとした理由までは分かりませんでしたが、これは難民がドイツに行けなくなったことが大きく影響しているのは確かでしょう。


そして2日後、僕はやっぱりもう一度だけあの国境へ向かうことにしました。

おそらくあれからさすがにもうフェンスは完成してしまったでしょうし、そうなるとセルビアからハンガリー国境に向かっていた難民の人たちはどうなってしまうのかどうしても気になるからです。

別に僕は何か大きなトラブルや衝突を期待しているわけじゃありません。

それでも、一度こうして少しでも足を突っ込んでしまった以上、大きな変化の後にもう一回だけでもあそこへ行くのは、なんとなく僕の義務であるような気もしたんです。


ただ、前回で身に染みましたが、はっきり言ってあの国境に公共交通機関で行って帰ってくるのはそんなに簡単なことではありません。

実は前回も国境からブダペストに帰ってくるのは、難民移動の影響でロスケからの一両列車の突然の運休、代わりになるバスもいつ来るか分からないなど、乗り継ぎも全く上手くいかず、何キロも歩いたりしながら、結局帰りだけで6時間もかかってしまいました。

しかも今のところ今回は泊まりで向かうつもりじゃないので、一日での往復になります。

まだ疲れが取れきっていない僕にとっては、それは想像するだけでげんなりしてしまうほどの強行軍です。

そしてなにより、一般人があそこへ向かうのは、何度行こうがやっぱり相当な覚悟と気力が必要なんです。


とにかく9月15日、再び朝5時にブダペストを出発して、僕は国境の村「ロスケ」を目指しました。

でもやっぱり、今回も難民問題の影響で列車は大幅に遅れ、乗り継ぎができず、ロスケ到着はお昼の11時になってしましました。


そしてようやく僕が前回の国境ポイントに到着した時には、やはりついにあの線路周辺のフェンスは完成してしまっており、さらに線路上には貨物車両を置いてそれを壁にするという念の入れようでした。
ハンガリー政府の強い意志が感じられます。


とにかくこれで、セルビア・ハンガリー間の国境は完全にフェンスで封鎖されたわけです。

しかも昨日はまだ普通に難民の人たちが入国していたらしいので、本当に今日フェンスが完成したばかりのようです。


それでもやはり、フェンスの向こう、事情を知らない難民の人たちは未だにここに向かって線路を歩いてきます。
まだフェンスも完成したばかりで、難民間でも情報はほとんど行き渡っていないのでしょう。


とても心苦しい光景です。

前回とは違い、簡単に声をかけることすらできません。


フェンスに到着した彼らはこの現実に唖然とし、一人の青年がハンガリー兵士や警察に、

「どうすればいいのか。どこか入れるポイントはないのか。」

とフェンスのあちら側から必死に質問しますが、

「この国境はもう閉鎖された。今後はパスポート審査が行われる検問所に向かえ。」

の一言。

もちろん、ビザを持たない彼らが一般検問所から入国できるわけがありません。


でも、それ以上は兵士も警察も無言を貫き、目も合わせようともしません。


冷酷な状況ですが、おそらく上からそういう指令でも出ているのでしょう。
難民との交流は禁止。ただただ、国境の警備にあたれ。って。

つまり、今後はこの高さ4m・全長175kmのフェンスだけに全てを語らせるわけです。

さらに報道によると、この日からハンガリー政府は、不法に入国する難民を逮捕・処罰できるように、法律まで変えてしまったといいます。


それでも難民青年は諦めずに、有刺鉄線を手で掴んだまま、彼らに懇願し続けます。
「君たちが何も話せないのは分かる。でも、同じ人間だろ?どうか助けてくれ。」
と。


その状況を後ろから見守る仲間の難民グループ。


でも、状況は何も変わりませんでした。


僕にはもう何も言えません。



この後彼らは、報道陣から今行き場を失った難民たちが集まっているという検問所の場所を教えられて、仕方なくそちらに向かっていきました。


検問所にて。

難民の人たちが集まっているセルビア側はフェンスの大分向こうだったので写真は撮れていないのですが、ハンガリー側にはたくさんの機動隊が防護服と催涙ガスを装備して待機していました。


カメラに気付き、こちらに笑顔を見せる機動隊。


つまり、ハンガリー政府は、この場所で難民の暴動が起るともう予測しているのです。

僕だってそう思います。

ようやくここまでたどり着いた末に行き場を失った彼らの数が増えて飽和状態に達すれば、彼らはもう感情をコントロールできず暴動を起こしてしまうであろうことは誰の目にも必然的だから。

そして警察や軍隊に力で制圧されてしまうのでしょう。

それによってハンガリー政府は世間に見せつけるのです。

「もう我々は難民を一切受け付けない。今後、難民はハンガリーに来ても無駄だ。」

って。


なんだか僕はとっても虚しさを感じました。

起きると分かっている衝突を誰も止めることはできず、ただその時を待っている。

でも、本当に他に回避方法はないのでしょうか。


そして、僕もここにあと1日でも留まれば、もしかしたら暴動や衝突の凄い写真が撮れるかもしれないということは分かっていましたが、なんだかそれを目的に待ち続けるというのは、僕の中でも少し違う気がして、僕はもうこの場を去りました。


そして、帰り際に前回のキャンプ地にも寄ると、たった2日前に僕が見たものがまるで幻だったかのごとく、そこには何の跡形もなく全てのものが片付けられていました。


きっと、ここにいた難民の人たちはあれから一斉に全員正式なキャンプに送られるなどしたんでしょう。

そして、ここはこれ以上難民は入ってこないわけだから、今後はもう必要のない場所ということなんでしょう。

僕は、こんな光景にもやはり、ハンガリー政府の揺るがない強い意志を感じました。


とにかく、とても長くなってしまいましたが、これが1週間前の数日間、僕がここハンガリーで見てきた難民問題のお話です。


そして、みなさんも報道などでご存知だと思いますが、あれからも欧州の難民問題は毎日のようにめまぐるしく状況が変化しています。

まず、僕が行った次の日に、やはりあの検問所では難民たちが痺れを切らし暴動を起こし、機動隊と激しく衝突。
難民の中に大勢の負傷者や初の逮捕者などが出たようです。

この騒動で国際社会からハンガリー政府への批判が強まりましたが、
とにかくこれで、今後ハンガリーへの難民の入国は完全に出来なくなったんだということが周知されました。

そして難民の人たちは、仕方なく隣国の「クロアチア」へと進路を変更しはじめ、初めはクロアチアの首相もそれを容認していたんですが、

しばらくするとあまりにもの難民の数にクロアチアも限界を迎えそれを拒否、その後ハンガリーと難民のなすり付け合いのような状態になり、両国が緊張状態に陥りました。


ただ、今から数日前、ハンガリー政府は結局「ロスケ」のあの国境ポイントの封鎖を再び解いたようで、あまり報道されていませんが、それは個人的にはとても嬉しくて大きな出来事でした。

そして昨日、EUが、難民12万人を加盟国全体で分担して受け入れるという案を理事会で決議したようで、まだ東欧諸国の反対はありますが、とにかくこれも大きな前進です。

でも、まだまだ解決できていないことが山のように残っているので、今後もこの欧州の難民問題はまだまだ続いていくんでしょう。

ここで僕が取り上げることは今後はもうあまりないかもしれませんが、こうして自分の目で色々見てきた以上、もちろんこれからもその動向にはずっと注目していきたいと思います。


さて、実は僕が最後に国境に行ったあの日、フェンスの向こう側から助けを求めていた難民の彼に、海外メディアがフェンス越しにインタビューをしていたんですが、

それがとても印象的なインタビューだったので、最後に、その時に僕が録音したものを一部書き起こして終わりにしたいと思います。


・どこから来ましたか?

「シリアです。」


・みんな言っています。ここは完全閉鎖されたって。

「見ての通りですね。」


・昨日はここから入国できていましたが。

「昨日の彼らと今日の僕たちの何が違うのか教えてほしい。」


・ここに来るまで閉まっていることは知らなかったのか。

「知らなかった。
 僕たちはとても長い道のりを歩いて来た。
 みんな、もう5日間も寝ていない。」


・今からどこへ行くつもりなのか。

「僕たちはドイツへ向かっている。」


・もしここに入国できなかったらどうするか。

「僕たちはただ挑戦し続けるしかない。
 動き続けるしかない。
 戻ることはできないんだ。
 僕たちは死から逃げなきゃいけないんだ。
 家族はほとんど死んでしまったよ。」


・フェンスに妨害されて、今何を思いますか?

「彼ら(軍隊や警察)は僕たちをサポートするべきだ。
 助けるべきだ。
 こちらには女性も子供もいる。
 もう長い道のりを再び戻ることなんてできないよ。」


・政府がフェンスを完成させた理由を知っていても?

「僕たちは理由なんて知らない。
 なぜこうなったのかも分からない。
 とにかく、僕たちの目的は生きることだけなんだ。」


僕は、ただただ彼のこの言葉たちに色んな真実が凝縮している気がします。



以上、僕のレポートはこれで終わりです。

3回にも渡るこんなに長い文章を最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。


あ、でももう一つだけ。

えっと、もし今回の僕のレポートを見て何かを感じてくださり、難民の人たちに少しでも何か支援をしたいと考えてくださる心優しい方がいらっしゃるのであれば、

今回現場を見た僕個人の印象では、
「UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)」
への寄付をお勧めします。

僕が見た限りでは、現場では難民の支援はほぼこの団体のボランティアが本当に一生懸命行っていました。
誘導や食料や水や衣服など、全ての面に置いて。

他の団体に関しては僕はよく知りませんが、ここへの寄付なら、少なくとも確実に難民のための活動に使われると思います。

「UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)」への寄付先↓


それでは、また。


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