ミサワホームO型

ミサワホームO型|オイルショックと三澤千代治が開けたパンドラの箱

「企画住宅」って言葉をご存じでしょうか。

音が同じで紛らわしいのが「規格住宅」。「企画」と「規格」、読みは「キカク」で同じですが、指し示す内容は随分と異なります。でも根っこは同じだったりするのが、これまたややこしや~ですが。

「企画住宅」とは、プランや仕様を限定することで価格を抑えながらも、独自のアイデア提案=「企画」を盛り込むことで魅力をもたせた住宅を指します。日本では、良くも悪くも間取りや仕様をあれこれと迷った上で決めていく「注文住宅」が親しまれており、間取り・仕様が自由にならないという悪手を魅力へ転換する魔法が「企画」なのでした。

この「企画住宅」が生まれるそもそものキッカケは1973年に日本を襲った第一次オイルショック。1968年以来の住宅産業論ブームで絶好調にあった住宅市場は一気に冷え込みました。

その危機をくぐり抜ける魔法を思いついたのは、誰であろう、ミサワホーム創業者・三澤千代治。彼の着想から生まれた伝説の「企画住宅」が「ミサワホームO型」です。

図1 ミサワホームO型 (1976)

ミサワホームO型の衝撃

好景気に沸く住宅市場を一気に冷え込ませ、経営危機に陥る企業も続出するなか、木質プレハブ住宅で実績を積み上げてきたミサワホームもまた危機に直面していました。

いま思いだしてもゾッとするような時期は、日本じゅうにオイルショックが吹き荒れた昭和四八年からの一、二年であった。それまでウケにウケて売れまくっていたプレハブ住宅の売り上げがばったりと止まってしまった。業績は眼をおおうばかりという惨状。五〇年三月末の決算は売り上げ二六パーセント減。経常利益にいたっては、何と八六パーセント減というありさまだった。プレハブ不況はいよいよ深刻化の一途だった。
(三澤千代治『三沢千代治の情断大敵』1987)

この苦境から脱するためには大転換が必要。ただ、安ければいいとはいかない。量の時代から質の時代へ変わる。社員ひとりひとりも発想を大転換しなければいけない。どうするどうする。。。

1974年、出張で札幌へ向かう飛行機のなかモンモンと会社の前途を考えていた三澤を乱気流が襲います。

大きく揺れる機体の中で、三澤は墜落、そして死を連想しました。そして思ったのといいます。社長が変われば方向転換も容易だ。社員も心機一転、質の追求に邁進してくれるだろう。そんな発想のもと会議で発表したのが「社長死亡宣言」。三澤千代治は死んだ三澤千代治に変わって二代目社長を襲名し、社内の組織体制・経営方針を一新していきました。

そんな大変革のもと生まれたのが21世紀へ向けた住宅開発計画「QUALITY21計画」。それに基づいて開発されたのが「ミサワホームO型」。いわゆる「企画住宅」のはしりと言われる伝説の商品でした。

「大工さんにはできない在来工法を超えた、プレハブでなければできない家」を追い求めてきた三澤千代治の思いが結実した住宅ともいえます。では、そこで打ち出された「企画」とはなんでしょうか。三澤自身の説明を聞きましょう。

住宅を単に規格統一することは、生産性の合理化を狙っただけのことで、お客様のメリットはそこにはない。住宅専門の設計者と住宅に関連するいろいろな方面の研究者が、これからの社会と生活を展望して造りあげたのが企画住宅である。現在のお客様の声に迎合することをせず、逆に、これからの家はこうあるべきだということを主張している家である。
(三澤千代治『ファミリーゼーション』1981)

三澤の強気姿勢が心地よいです。

積水ハウスや大和ハウス工業、そしてミサワホームが試行錯誤してきたプレハブ住宅は、創業当初からユーザーのニーズという壁にぶち当たり、本来もっていたプレハブ化・大量生産化による高品質・低価格実現へ向けたポテンシャルをなかなか発揮できない状況にありました。

その最大の障害となっていたのは、家づくりとはプランや仕様を施主が自由に選ぶもんだ、という「旦那の普請道楽」的家づくり観でした。そこに、大工文化幻想による工芸品としての住宅像ものっかってきて混迷を究めます。

いってみれば「企画住宅」は、そんな日本人のアンバランスな家づくり観に「企画」という魔法で切り込んだ衝撃的住宅なのでした。結果、ミサワホームはこの「O型」で日本の住宅史上初の「工業化住宅一万棟」を達成。経営危機を乗り越えるのです。

O型にこめられた「企画」とは

そんなミサワホームO型とはどんな住宅だったのでしょうか。とりあえず正史から拾ってみませう。

O型は、量産による高性能・低価格という工業化住宅本来の役割を果たすため、当初4種のプランに限定した、いわゆる「規格型」から出発しようとしました。しかしO型は、性能・機能ともに従来のものよりも数段グレードアップしている上、外観は2階をオーバーハングさせた画期的なデザインとし、建具・設備・備品とも付加価値の高いオリジナル部品を用いるなど、21世紀への住まいにふさわしい企画を実現したのでした。
そこでミサワホームは、これを「企画住宅」と名付け、O型をはじめとする企画住宅シリーズを次々と打ち出して、めざましい成果をあげていくこととなります。
(『ミサワホーム技術開発史40years』2007)

『ミサワホーム技術開発史40years』(ミサワホーム総合研究所、2007)は「O型」が具体的にどんな「企画」を打ち出したのか多くを語りません。『ミサワホーム50年誌』(ミサワホーム、2017)では、小屋裏収納や越屋根、一般地域としては初となる「ペアガラス」の採用について触れています。

でも、なぜか「O型」に込められた「企画」の核心には触れない・・・。

「O型」は広さも大きな特徴として打ち出されました。核家族向け住宅が当たり前の当時、三澤が推奨する三世代同居を可能とする間取りにしたのです。その大きさなのに、当時の同サイズの注文住宅よりも3割安い。しかも、断熱・遮音といった性能も優れているという(高木純二『ミサワホーム:三澤千代治にみる発想・戦略・経営』、はる出版、1987)。

ただ、これだけではパンチが足りないと三澤は考えます。上記のアピールポイントは「規格」であって「企画」ではないでしょう、と。じゃあ、どんな「企画」を盛り込んだのか。そのメインテーマはずばり『城』!

マイホームは男にとって「城」だ。三澤はこの「O型」を評して「開き直りの家」と名付けました。さらに三澤はハウスメーカーの常識としてタブー視される「総二階」を採用。通常、ズン胴になって敬遠されるそれをデザインの力で挽回する「ズン胴の美人」を生み出すよう指示しました。

そんな難問を解決するために、越屋根や半円状の樋、黒い幕板・窓枠をアクセントとし「お城」感を試行錯誤し演出したのです。極めつけは一家の主を象徴する「大黒柱」。家の中心にこれでもかというほど太い大黒柱が設けられます。

思い出してください。ミサワホームが発足した時のテーマは木質パネル接着工法による「柱や梁のない家」だったんですよ。そのミサワホームが「大黒柱」って・・・。

この大黒柱、当然に在来工法で担ったような機能はなくって、柱の中には配管配線、セントラルクリーナー等の設備が組み込まれました。柱の外側にはフットライト、サーチライト、柱時計を備え付けています。言ってみれば、「大工さんにはできない在来工法を超えた、プレハブでなければできない家」にこそある「大黒柱」だったのです。

ちなみに、なぜ「O型」と名付けられたのかというと、面積が大きい「大型」って意味と、皆が「おー」って驚くってことから来てるらしいです。おやじギャグ的発想なんです。

ミサワホームO型の波紋

そんな「O型」は1975年4月のグッドリビングショーで公開されると注目の的となります。そして翌1976年9月に発売されるや爆発的な売れ行きをみせたといいます。デザインセンスと低価格が魅力と映ったようです。

当然に競合他社もそうしたミサワホームの成功を見逃すはずがありません。以後、ハウスメーカーがつくりだす住宅像を一変させたといっても過言ではありません。

この時期より、それまでせいぜいチラシに毛が生えた程度のものが多かった住宅メーカーのカタログが、消費者の購買意欲をそそるように演出された写真やキャッチコピーの数々で彩られた豪華ブックレット風の体裁に変わり、展示場に建つモデルハウスが内部に置くだけの家具も含めてスタイルの豪華さや趣味の良さを競うようになった。(中略)この時期、明らかに「商品」にたいする考え方に変化が現れたのである。
(松村秀一『「住宅」という考え方』、1999)

たしかに、オイルショックを通過した日本の住宅は、それまでの世界とは違う領域に足を踏み入れた感があります。

ミサワホームによる「企画住宅」の成功は、大和ハウス工業の「ホワイエのある家」(1980)や「チムニーのある家」(1981)、積水ハウスの「フェトーのある家」(1981)といった「○○がある家」の大流行を生み出し、同じ頃、日本に移入されたツーバイフォー住宅の洋風外観も共振しながら、住宅の徹底した「商品化」が進んだのでした。

各社こぞってマーケティング手法を駆使した商品開発競争が繰り広げられていった先に辿り着いたのは、差別化合戦の果てにある「結局みんなどこも同じじゃないの?」な状況でした。

三澤千代治が開けたパンドラの箱

「O型」の登場は住宅の「商品化」を大いに加速化し、さらには時代がバブル期へと突入していくことで、もはや「商品化」の暴走へと至ります。何を売るかではなく、どうやったら売れるか。手段の目的化です。

結果生み出された本末転倒について松村秀一は次のように書いています。

市場での識別性を高めたい一心で多くのメーカーが真面目に商品開発に取り組んだ結果、新商品の発表されるサイクルは短くなり、住宅展示場に並ぶ商品の数は圧倒的に増えた。その結果、それぞれの真面目さは消費者に伝わりにくくなり、商品名も英語だけでは間に合わなくなった。そして、展示場でのパッと見の印象と商品のネーミングやコピー、広告のつくりといったイメージ戦略ばかり幅をきかせる。いわば真面目さを伝えるべき媒体がそれ自身で価値をもち独り歩きしかねない本末転倒が見えてきている。
(松村秀一『「住宅」という考え方』、1999)

確かにその通りかと思います。ただ、「O型」がもたらした変化の核心はもう少し違うところにあるのでは中廊下とも思います。それは何かといいますと、「日本的・伝統的なものの商品化」とでもいいましょうか。

三澤千代治は日本の伝統文化にも深い関心を持っていました。それと同時に、そうした伝統文化をそのまんま住宅に取り組むことには懐疑的でもありました。「在来工法から工業化住宅へ」という転換をモットーとするゆえに。

そんな三澤は、木質パネル接着工法という工業化住宅に、城郭や大黒柱といった「日本的・伝統的なもの」を持ち込んでみせたのです。

その波紋はメーカー他社の家づくりへ及んだのはもちろんですが、むしろ、既存の在来工法を手がける工務店、さらには日本の風土や伝統に中途半端に関心をもつ設計事務所にこそ及んだように思えるのです。日本の伝統、和の意匠を現代風にアレンジしました云々、みたいな。「和モダン」という皮相なネーミングとともに。

つまりは、本来ならハウスメーカー的な家づくりへのカウンターとして位置し得たはずの工務店だとか主に住宅を手がける住宅作家と呼ばれる建築家たちが、ハウスメーカーによって洗練された「商品化」を、自らの家づくりの魅力をなすコア部分に移植するという展開。

「商品化」の移植は、一般ピーポーの住まいなのに、公家や殿様、豪農・豪商の劣化版みたいな「モダン和風(!)」住宅をデザインすることを介してなされました。それは、伝統建築がもつ各種意匠の来歴を忘れ去ることにつながります。それこそが「商品化」。

三澤千代治は、日本の伝統や文化を愛する工務店や建築家たちが喜び勇んで「商品化住宅」を手がける世界をもたらす「パンドラの箱」を開けてしまったのだと。そんな読みはいささかカングリー精神を出し過ぎでしょうか。

反省する三澤千代治

以下、後日談。

三澤千代治はバブル期に推し進めた経営多角化の痛手からなかなか脱することができないまま、最終的にはミサワホームを追い出されてしまいます。それでもめげない三澤は新しい会社・ミサワインターナショナルを立ち上げます。

新会社では「200年住宅」を合言葉にして、五寸角の木造軸組工法の家=HABITAを武器に工務店連携を進めました。

そのマニフェストとも言える著書『200年住宅誕生』(プレジデント社、2008)に三澤は「古くなった都市型住宅『O型』」と題した文章を書いています。

(O型は)大ヒットとなったことから、他のプレハブ住宅メーカーはもとより在来工法の工務店も、このO型を真似ることになり、O型風の住宅が実に数万棟も建ったのです。ですが、これが結果として尾を引きました。O型発売から33年もたっているのに、いつまでもO型の残影を住宅業界は引きずってきたのです。街並みがなんとなく画一的で、一緒で面白みがないというのもこのためなのです。
(三澤千代治『200年住宅誕生』2008)

そんな時代だからこそHABITAを!というわけです。

「柱と梁のない木質パネル接着工法の家」からスタートした三澤千代治は、巡り巡って「自然素材と5寸角柱による軸組工法の家」をアピールして「O型は古い」って言うんですから、ああ、これはミサワホームを追い出されたのを機に「社長死亡宣言」を再演したんだな、と苦笑いするしかありません。

「O型」誕生のキッカケになった1974年の札幌行き飛行機内での「死の覚悟」。三澤は「一度死んだ気になってやりなおそう!」と決意し、「社長死亡宣言」を社内外に発表。ミサワホームを建て直しました。

ややおふざけにも思えるこの「死亡宣言」ですが、皮肉なことに、その10年後、三澤は高校時代からの盟友であり実妹の夫でありミサワホームになくてはならない盟友・山本幸男を飛行機事故で亡くすことになります。日本航空123便墜落事故です。三澤千代治追放劇へと至る迷走は、この山本の死がキッカケだったとか。

閑話休題。ただ、「O型」は古くなったかもしれませんが、当初めざしたであろう「企画住宅」の理念自体は決して古びていないし、むしろ、工業化住宅の未完のプロジェクトだと思います。もう一度、「企画住宅」の説明を聞いてみましょう。

住宅を単に規格統一することは、生産性の合理化を狙っただけのことで、お客様のメリットはそこにはない。住宅専門の設計者と住宅に関連するいろいろな方面の研究者が、これからの社会と生活を展望して造りあげたのが企画住宅である。現在のお客様の声に迎合することをせず、逆に、これからの家はこうあるべきだということを主張している家である。
(三澤千代治『ファミリーゼーション』1981)

いいじゃないですか。むしろ古びたのは「城」とか「大黒柱」でしょう。もっとドライに行きましょう。「在来工法から工業化住宅へ」の転換はオイルショックを機に道を間違えてしまったように思えます。

とはいえ、「O型」がもたらした「城」とか「大黒柱」といった「日本的・伝統的なものの商品化」は、ガッシリと日本人の心を鷲掴みにしたんだと思います。イミテーションが大好きな国民性ゆえに。

「O型風の住宅」で埋め尽くされた日本の街並みは、商魂たくましいハウスメーカーの陰謀ではなくって、むしろ、わたしたちが積極的に待ち望み、選びとった風景だということ。そこから話をはじめなければ。

(おわり)

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