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父娘問答【7】美女と野獣編

最近また映画『美女と野獣』の再生リクエストがたびたび。前までゴグスワース(置き時計姿のキャラクター)が好きだったのに、ベルがいいとか言い始めて、ディズニー・プリンセスに目が行くようになったなんて成長したもんだ。
 
「美女と野獣みたいの」

「えぇ、またみるの~。何回再生するんだよぉ。まぁ、たしかに『美女と野獣』は音楽もいいよね」

「音楽は別にいいの。わたしはベルに親近感がわくの」

「そうなの?たしかにベルは父親思いだしねぇ」

「そこも別にいいの。というか原作では親子関係も同じじゃないし」

「原作ってヴィルヌーヴ夫人版とボーモン夫人版があるよね。いわゆる異類婚姻譚という意味では、世界各地の神話や『かえるの王様』『鶴女房』なんかも原型になるよね」

「そうそう。ボーモン夫人版をベースにディズニーアニメが制作されたけど、どう改変されたか考えるのが面白いの」

「たしか原作にはベルの兄姉が出てくるんだよね。ガストンとル・フウは出てこない」

「ディズニーアニメ版ではベルをめぐって野獣とガストンが対決する。つまり野獣とガストンの比較が重要な構図になってるの」

「ベルと野獣の恋路を邪魔するのは、原作では姉たち、アニメだとガストンだね」

「ずばりアニメ版ではベルによって〈教育〉される相手が野獣でありガストン。でもガストンは結局は精神的成長を遂げられずに自ら破滅する」

「あぁ、そうか。原作だと野獣は見た目だけが醜くて中身は紳士、そして、むしろベルが精神的成長を遂げる話だった。アニメ版だとベルは変わらず野獣が成長する」

「ガストンは自らのマッチョさを魅力だと認識し、そして共同体からも認められてる。けれども、ベルにとってはむしろそうしたマッチョさがありえない属性に見なされるの。それって過剰な性役割分担、性差別につながるから」

「なるほどねぇ。それまでのディズニーアニメだと守ってくれる&助けてくれるプリンスが鍵だったけど、『美女と野獣』はそうじゃない」

「暴力資本から文化資本への移行。そして性差別者の断罪。野獣も我が儘で短気で性差別主義的側面があったけど改心することで愛を得る」

「なるほどね。あのヤなカンジのガストンがやっつけられるところはスカッとするよね」

「パパは考えが雑すぎるの」

「えーっ泣」

「アニメ版と実写版を比較して気づくのは、野獣、そしてベルの幼少期の記憶でしょ」

「たしかにアニメ版では描かれてなかったね。実写版だと、野獣もベルも小さい頃に母親を喪失してる」

「野獣は母親を失って以降、父親に厳格に育てられすぎて性格が歪になった。そこで気になるのはガストンの母親の存在だよねー」

「ガストンの母親はいなさそうだよねぇ。父親も」

「そうなの。だとするとガストンすら運命の被害者かもしれないの。そもそも彼は軍人として活躍しながらも、戦争が終わったことでさらなる喪失感を得てる」

「あのキャラで自己実現できる世界がなくなったんだよね。その喪失感を埋めるためにベルへの恋心が芽生える。というか獲物としてのベルだね。でも、それも彼自身の悪というよりも、家庭環境、社会環境が彼を育んだというわけか」

「野獣とガストン、ともに母親の喪失を経て粗野な性格となった。でも、その境遇から救われるかどうかは文化資本の格差なの」

「あぁ~。ベルが心を開く要因の一つは、城内の大きな図書室だからね」

「ベルは発明家(原作では商人)の父をもち文化資本に恵まれている。そして読書家で地域コミュニティからは異質な存在になってる」

「あの洗濯物のシーンは象徴的だよね。ある意味で知識はコミュニティを破壊する。だからベルは共同体からは排除されざるをえない」

「共同体のなかでこそ認められるガストン。その共同体において唯一自分を認めてくれないベルからの承認を得たいがために身を滅ぼすガストン。かわいそうなガストン」

「たしかに。。。「怪物は彼ではなく、あなたよ!」ってベルの言葉は残酷だね。なんか『美女と野獣』の真の主人公はガストンに思えてきた。あと、映画版で話題になったのはル・フウの同性愛表現だよね。あれってなんでまた?」

「ここまで対話してきたのに。わかんないの?(最近の口グセ)」

「えーっ泣 わかりません」

「原作からアニメ版への改変で性差別を打破し、実写版では性マイノリティ差別を打破するわけでしょ」

「あ~、そういうことか。だから実写版ではル・フウはハッピーエンドなんだ」

「パパももっと精神的成長を遂げてもらわないと、口きかないよ」

「えーっ泣、ベルが好きってそういうこと?!

(おわり)

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