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家財道具との連帯|絵本で読む「モノ」と「ヒト」の関係とその再編

民俗学者・今和次郎(1888-1973)は、敗戦直後の1945年末に出版した『住生活』(乾元社)の冒頭に「生活習慣遮断の体験」という耳慣れないタイトルの文章を書いています。

敗戦直後の日本では兵役や空襲により、これまでそこにあった「物」や「人」のいずれかが欠けて、生活習慣が「遮断」されてしまった住まいが膨大な数にのぼりました。罹災者の声を今はこう書き留めています。

はじめは恐ろしかった体験から興奮状態で無我夢中でしたが二三週間も経つと、いろいろと淋しさが湧いて来る。永年住み慣れた家が焼けた、ということは肯定してそれはあきらめているのですが、ひょっとした何かの拍子に、平常殆ど気にかけないで過ごしていた品物が、使おうと思うとない。ああみんな焼け失せたのだなと今更に気がつく。何もかもなくなったのだなということが思い出されて意識されてくる。それは淋しいですよ。
(今和次郎『住生活』)

そんな証言を受け今は言います。「日常使い慣れている瑣細な物品の喪失は、日々の習慣的な行為の際に、ひとしお淋しさをそそるものらしい」と。人生のなかで、人がなくなって物が残ることは多いが、人はいるけれども物がなくなっているという状況はジワジワとくる。

さきの東日本大震災や熊本地震、さらにはつい先日の西日本を中心とした豪雨被害。そういった災害の報道に触れるたびに、わたしたちは身の回りの「モノ」や「ヒト」との関係のなかで生きているんだよなぁ、と再認識させられます。

「オヤスミなさい」の儀式

「モノ」と「ヒト」が深く結ばれた関係を知れる絵本があります。柳原良平『おうちのともだち』(こぐま社、2006)と高野文子『しきぶとんさん・かけぶとんさん・まくらさん』(福音館書店、2010)。

柳原さんのかわいらしい絵がステキな『おうちのともだち』(図1)は、家のなかにあるコップや歯ブラシ、タオル、鏡、鍋、フライパン、皿、茶碗、そして家電、おもちゃなどが次々と紹介されていきます。

図1 おうちのともだち

ところどころ「かがみくんおはよう」、「いただきます ごはんおいしい」、「そうじきちゃん おうちが きれい」といったように一日の流れのなかでの洗顔、食事などの行為と「モノ」が紐付けられていくのです。

最後にはパジャマ、枕、布団に至ってお話しは締めくくられます。

おやすみなさいスヤスヤ
みんなともだちまたあした

スヤスヤ眠る主人公の周りには、順番に登場した家財道具たちがそれぞれに眠っています。

「ヒト」が「モノ」との関係のなかで生きていることが、柳原良平のホンワカしたタッチで描かれた佳作です。

この「ヒト」と「モノ」の構図をさらに深化させたのが『しきぶとんさん・かけぶとんさん・まくらさん』(図2)。漫画家として有名な高野文子がはじめて手がけた絵本です。

図2 しきぶとんさん・かけぶとんさん・まくらさん

おねしょや寝冷え、怖い夢から守ってくれるように主人公は寝具3点セットである、敷き布団、掛け布団、枕にそれぞれ語りかけます。

しきぶとんさん かけぶとんさん まくらさん
あさまで よろしくおねがいします
あれこれ いろいろ たのみます

そうすると寝具たちは「まかせろまかせろ」とそれに応答。

まかせろ まかせろ おれに まかせろ
もしも おまえの おしっこが
よなかに さわぎそうに なったらば
まてまてまてよ あさまで まてよと
おれが なだめておいてやる

朝めざめた主人公は、無事におねしょや寝冷え、怖い夢を回避できたことに安堵し、「しきぶとんさん、かけぶとんさん、まくらさん。いつもいろいろありがとう」と感謝の気持ちを伝えて終わります。

眠っている間の出来事は意のままになりません。それゆえ、子どもには言いようのない不安として立ち現れるのでしょう。

そもそも小さな頃は、目覚めた先にまた日常がやってくること、さらには、そもそも眠りにつくということがどんな意味をもつのかも実は自明ではないわけで、子どもはその「わからないこと」に敏感です。

わたしはスッカリ鈍感になってしまいましたが、5歳の長女は眠る前、手を合わせて「こわいゆめをみませんように!」と言ってから眠りにつく儀式を執り行います。この2冊の絵本にでてくる子たちも、不安に立ち向かうために家財道具との連帯を選ぶんだなぁ。連帯へ向けた儀式を経て。

ゴミ屋敷家財道具にあふれて暮らす

「ヒト」と「モノ」の関係で思い出すのが、むかし話題になった『地球家族:世界30か国のふつうの暮らし』(TOTO出版、1994)(図3)。

図3 地球家族

自宅の前に家財道具一式と家族が勢揃いした写真集だけれども、なかでも日本だけが圧倒的に家財道具にあふれているのが衝撃的でした。日本に住まう私たちは他の国に比べて多くの「連帯」を必要とする何かがあるのでしょうか。

さらに連想するのは「ゴミ屋敷」。近年の研究ではゴミ屋敷の住民は決してズボラだからゴミをため込むのではなく、自閉症スペクトラムやADHD、強迫性障害、セルフ・ネグレクトなどなどが影響していることが分かってきているそう。

春日武彦の『病んだ家族、散乱した室内』(医学書院、2001)には、ゴミ屋敷に関するエピソードが出てきます。

おぼつかない気分、心もとない感情が機能の衰弱した精神と相乗効果を示すとき、ヒトはとにかくモノをため込むことで気持ちを静めるといった行為をしがちであるらしい。すなわち心の隙間をガラクタで埋めるわけであり、そんなことをしてもなんら問題が解決しないと思うのは健全な人間の奢りである。
(春日武彦の『病んだ家族、散乱した室内』)

そして、当初は見慣れたものに囲まれることで安心感を得る目的であったものの、「ガラクタをため込むことへの執着だけが当人にとって生きている証となっていく」という。「手段の目的化」だ。そして、ひたすらゴミ屋敷化への道を歩むのだというのです。

この『病んだ家族、散乱した室内』には、ほかにも空間の変化が精神を病む原因になったり痴呆を進行させたりするケースなどにも触れつつ、「家=住み慣れた空間」が住人の精神と通底していることを指摘していて興味深い内容です。

家は異界であり、そこには住人の心が無防備なままさらけ出されているのである。我々が患者の家を訪問し、室内へ足を踏み入れることは相手の心の中を訪うことでもある。
(春日武彦の『病んだ家族、散乱した室内』)

「ヒト」と「モノ」の関係性を取り持つ「家財道具との連帯」。絵本の主人公たちは、不安な眠りを乗り越える精神の拠り所をそこに得るわけですが、それをこじらせた先にゴミ屋敷があるのだと思うと、いろいろ考えさせられます。ゴミ屋敷は「『癒し』のバリエーション」なのだから。

あと、この絵本には共通して描かれていない他者=保護者の存在も大切でしょう。「ヒト」と「ヒト」の連帯です。

主人公が家財道具と連帯しながら、眠りにつく一連のルーチンは保護者によって維持されています。

他人と共存することによって必然的に生ずるある種のルーチンやリズムや成り行きこそが、我々に自然発生的な規律や安定をもたらしている部分があるということだろう。いいかえれば、「ただなんとなく」他人と接して生きているということだけで、人間の暮らしはそれほど誤った方向に行かずにすむことが多い。
(春日武彦の『病んだ家族、散乱した室内』)

それは言い方を換えれば、世間から切り離された状況下にあれば「一面において合理的であるならば、たとえバランスを欠いた発想であろうとそれを実行してしまいかねない」ということ。勤め先では普通に働く青年が、自宅ではボケた母親を鎖でつないでいたケースを春日は紹介しつつ、言います。ば「孤独という島ではなんでも起こる」と。

ルーチンやリズムや成り行きの大切さ。それは絵本の主人公たちがそれぞれに行う、毎晩の儀式にも通じます。

わたしを守り、わたしを晒す冷蔵庫

認知症患者のよく知られる症状の一つとして、「冷蔵庫がスゴイことになる」があるそうです。賞味期限切れの食品で庫内ギュンギュンに詰まってる。そうなる原因は、買ったことを忘れてしまうだけではなくって、「食べられない状況に直面することへの強い不安感」があるそう。食べることは生きることなので、認知症を介した人間本能の湧出としていろいろ考えさせられます。

そもそも冷蔵庫の家庭内での立ち位置も興味深い。プライベートな住宅のなかのさらなる内に置かれた家電とあって、それがどう鎮座しているかは極めて住生活に密着したものだし、さらにそんな冷蔵庫の中身は家庭の食生活に直結した相貌を見せることになります。

そんな冷蔵庫の特性に着目した写真集が以前注目を集めました。潮田登久子『冷蔵庫』(BeeBooks、1996)(図4)。全部で57のご家庭にある冷蔵庫を扉が閉まった状態と開いた状態を対にして撮影したもの。

図4 冷蔵庫

巻末には撮影年のほか、各家庭の居住地・家族構成・職業・住宅の構造までもが記載されていて「へぇ~」とか「ふーん」とか「おんあぼきゃ」とか思わず口から言葉が出てしまいます。写真集の解説を執筆した佐野山寛太は次のように書いています。

冷蔵庫がおかれているのは、そもそも「ウチの奥の方」だ。昔の家は、玄関の横に応接間があって、他人の「ウチへの侵入」を防いでいた。その「ウチの奥」に置かれた冷蔵庫。そしてさらに、その扉の中に隠されたいわば「ウチの奥の奥」までを、われわれは覗きこむのだ。
(佐野山寛太「解説」、『冷蔵庫』所収)

まさに「冷蔵庫の『ウチとソト』は実に、その『うち』の生活のカタチや経済状態を反映し、かつその持ち主の性格や心理状態まで表現している」と。他人の本棚を覗くのと似たワクワク感があるのでしょう。

そういえば、所有者の生き様に直結した「冷蔵庫」をモチーフにしたマンガもありました。佐藤いづみ・遠藤彩見のマンガ『冷蔵庫探偵1~3』(徳間書店、2011)(図5)。ケータリングサービスを営む主人公レイコが、いろんな家庭の冷蔵庫を仕事の関係上のぞき見ることで、主に色恋沙汰のもつれを見抜き、解決していくお話。市原悦子の変奏。

図5 冷蔵庫探偵

「冷蔵庫の中身は持ち主の生活や性格を反映する。本人ですら気づかない「素」の部分さえも」と語る主人公。まさに冷蔵庫プロファイリングです。

そんな文脈を踏まえつつ、新井洋行の絵本『れいぞうこ』(偕成社、2009)(図6)を子どもに読み聞かせていると、「ぎゅうにゅうさーん!はーい!」とか言いってるその背後に、どんな登場人物の生き様や不安があるのか想像してしまい、ついつい「分かるのよ、冷蔵庫を見ればね」とか思えてしまって困りものです。

図6 れいぞうこ

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さてさて、「ヒト」と「モノ」は複雑な関係を取り結びながら日常生活をつくりあげています。子どもは「家財道具との連帯」によって自分の拠って立つホームベースを確認しているかのようです。そんなホームベースを足掛かりに「他者との連帯」を試行錯誤していく。そうした試練の「前夜」を描くのが『おうちのともだち』と『しきぶとんさん・かけぶとんさん・まくらさん』なのかなぁ、と思います。

さて、冒頭に紹介した今和次郎の『住生活』。「モノ」と「ヒト」の関係が絶たれる「生活習慣遮断の体験」は、喪失感をもたらす悲劇としてのみ描いたわけではありません。今はこの体験を足掛かりに次の世界を見据えるのでした。

かかる生活習慣遮断に直面した際にこそ、既成習慣からはなれて、一歩一歩新生活へと突き進むこととなるのであろう。(中略)この際だれにもはっきりとした意志力が促されるべきである。それによって新しい生活習慣を築いて行く事、即ち言い慣わされている言葉でいえば、創意工夫の生活に入るということにならねばならないのである。
(今和次郎『住生活』)

ただ単に「モノ」と「ヒト」の関係を復旧するのではなく、戦争と敗戦という耐えがたい苦難を住生活変革の一大チャンスと捉えた気概が今の文章にはあふれています。

ミクロに見てみれば、実は日々、刻一刻と生活は変化しているわけで、昨日つかってた櫛が行方不明ですし、先月もセロテープのホルダーを娘に壊されました。そうやって、たくさんの「モノ」と「ヒト」の関係は移り変わっていきます。そんな関係の変化にちょっとばかり敏感にしてくれるのが絵本のステキなところ。

そこが意識されれば、また「創意工夫」もあれこれできる。そうした感覚がデザインや建築の仕事と密接に関係するのは言うまでもありません。「パソコンさん、ホルダーさん、老眼鏡さん。いつもいろいろありがとう」。

(おわり)

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