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金色の野に降り立つル・コルビュジエ|内田祥文の防空理想都市

『新建築』の1941年4月号は一冊まるごと東京都市改造計画案。それはちょうど、同じく『新建築』の1961年3月号に、丹下健三研究室の「東京計画1960 その構造改革の提案」が掲載されたり、2006年6月号に、東京大学大野秀敏研究室による「FIBER CITY 東京2050」が特集されたのに似ています。

そして、この1941年4月号は「新しき都市特輯號」と題し、若手建築家らによる都市提案、題して「新しき都市-東京都市計画の一試案」が掲載されているのです(図1)。

図1 『新建築』「新しき都市特輯號」1941.4

パラパラとめくっていくと、なんだかル・コルビュジエそっくりな都市提案のように見えてくるその提案(図2)を主導したのは若手建築家・内田祥文(1913-1946)。彼は東京上空を飛ぶ米軍機を見上げて「爆撃するのをためらうぐらいの美しい都市を作りたい」とつぶやいたほど、日本の都市デザインに夢と使命感をもった人物でした。

彼はそこにどんな思いを込めたのでしょうか。

図2 内田祥文ほか「新しき都市」


東京にル・コルビュジエを!

トップ画に掲げた都市鳥観図は「新しき都市-東京都市計画の一試案」のメインビジュアル。提案したのは当時、東京帝国大学大学院生だった内田祥文はじめ市川清志(1917-1986)や濱田美穂(1915-1988、のちの浜口ミホ)ら日大学生有志でした。

『新建築』の特集号は建築図面はそこそこに、諸々のデータや理論を書き連ねながら、都心部、中間部、外周部それぞれの住宅群について提案する構成になっています(*1)。

1.序
2.例證
3.前提
4.國土計畫的考察
5.都市形態
6.東京の形態
7.都心部の住宅群の1案
8.中間部住宅群の1案
9.外周部住宅群の1案
10.我々の課題。

掲載されている図版やレイアウトなども含めて、実はこの『新建築』まるまる一冊自体が、ル・コルビュジエ『La Ville radieuse』(1935)とそっくりなのです。ヘタウマなイラストやウジェーヌ・アジェの写真なども織り込んだル・コルビュジエのオシャレな誌面。内田らもまたイラストのほか、堀野正雄や小川晴暘といった当時の流行写真家のヴィジュアルになってたりして、これまた興味深い。

そのそっくり具合を佐々木宏もなかばあきれながら指摘しています(*2)。ただ、1940年代前半という時代を考えると、当時流行の建築家のスタイルを大学院生らが真似して提案をキメる、というお話以上の意味を持っています。

そこには、ル・コルビュジエが唱導する都市デザインを摂取しているのみならず、当時最先端の学術的知見を読み込んでいることが見えてきます。ル・コルビュジエのそっくりを日本の大地へと根付かせるためには、膨大な情報収集と設計技術を必要としたのは言うまでもありません。

実際、その提案の背後には「群としての住宅」だとか「国土計画的視点での検討」、さらには都市の防空・不燃化へ向けて鉄筋コンクリート造の高層集合住宅が近隣住区理論に裏付けられていて、当時の建築界でも重要課題と目されていたものでした。

それゆえ、内田らによる「新しき都市」は最先端の学術と流行をひとつの絵として描き出した模範解答だと言えなくもありません。それは内田が、建築学会主催「国民住宅」コンペでもグランプリを獲得した若手建築家であり、大学院では浜田稔(1902-1974)のもとで建築防火の研究に邁進する真面目で努力家な青年であればこその成果だと思います。

内田の真っすぐで瑞々しい、建築設計への思いは、自ら教壇に立ち、新入生たちに建築設計の意義を説いた講義からもうかがうことができます。

それと同時に、父は建築学界に君臨した東京帝大総長・内田祥三(1885- 1972)。大学院では岸田日出刀(1899-1966)や高山英華(1910-1999)からも指導を受け、ライバルであり盟友でもあった(*3)丹下健三(1913-2005)と一緒に、建築家・坂倉準三(1901-1969)の事務所に通い詰める建築ライフもまた提案の大事な下地になったはずです。

そんな環境もあって、あの「新しき都市」の都市鳥瞰図は微笑ましいほどにル・コルビュジエの「輝ける都市」(1930)にソックリなのでした。戦時下の日本にあって、都市の防空化・不燃化に向けてル・コルビュジエが召喚されます。

実際にル・コルビュジエ自身も著書のなかで「輝ける都市」は空爆に強く、ピロティは毒ガス対策に、屋上も装甲屋根で耐弾構造になると主張しています。いわば「戦時こそモダニズム建築!」というキャンペーン。

それは木造住宅が密集する日本にモダニズム都市を実現する布教ロジックとしても機能します。そのモデル提案として「新しき都市」は位置づけられるのです。

内田祥文は空襲が続く首都東京にあって「爆撃するのをためらうぐらいの美しい都市をつくりたい」と語りました(*4)。日本にル・コルビュジエの都市が降り立つことを夢見て。


防空都市の理想と現実

ル・コルビュジエを東京に実現するキャンペーンは必ずしも皆に歓迎されたわけではありませんでした。それこそモダニズム建築は排除すべきという主張も。

建築学者・星野昌一(1908-1991)は、窓ガラスばかりの国際様式を真似るのは利敵行為だと非難しています。「防空的に脆弱なる立面は破棄せられて、これに代わる堅実な、しかも適度な採光、通風を失わぬ新しい立面が防空的立面として登場すべき」だと(「意匠・計画と防空」『建築雑誌』1942.12)。

とはいえ、RC造の不燃建築が近隣住区理論に沿って計画されるなんぞ夢物語。現実は既存木造住宅の密集街区とあって、外壁にモルタルを塗る「木造家屋防火改修」がやむを得ず採用されます。これもまた戦時のリアリズム。

火災実験の成果をもとに木造の弱点克服を試みた「木造家屋防火改修」。このデータ集めと提案に尽力した人物は、膨大な火災実験の結果を論文にまとめ、さらには『建築と火災』(1942)と題した著書を出版したことでも知られます(図3)。

その人物が、実は東京にル・コルビュジエが降り立つことを夢見た内田祥文その人だったというのはなんとも皮肉なお話です(*5)。

図3 『建築と火災:建築新書』相模書房、1942

そして戦況さらなるリアリズムを突きつけます。「正しいものと正しくないものとを率直に篩い分け、国家の前進にとって役に立つものと役に立たないものとを仮借なく区別」するのが戦争の本質(大河内一男)。

そんな取捨選択という思考実験の末、木造住宅の戦時動員は「建物疎開」に行き着きます。つまり、不燃都市実現のために建物を間引くという悲しい結末へと。建物がなければ燃えないのです。


金色の野に降り立つ者

1946年春。一面褐色の焼け野原を眺めた建築家・岸田日出刀は「あーきれいだ、絵画的だなー」と不謹慎にも思ったことを書き記しています。乱雑な街並みにウンザリしていた岸田にとって、この焦土は都市復興への広大なフィールドに見えたのでしょう。

それは同時に、内田祥文が夢見た「爆撃するのをためらうぐらいの美しい都市」の建設予定地でもありました。その思いは、広島・長崎の惨状を実際に自分の目で見て、そして肌で感じ、なんとしてもなさねばならぬ建築家の使命と思ったことでしょう。

でも、内田は敗戦前後の過労がたたり、大学の研究室で倒れ、そのまま帰らぬ人となります。まだ32歳という若さでした。

東京都商工経済会主催帝都復興計画図案懸賞に応募した「深川中小工業地区」、「新宿歓興地区」の両計画案がともに一等当選を獲得したのは内田が亡くなった1946年3月。その図面作図に際しては内田の実弟・内田祥哉(1925-)も参加したといいます。

生前の内田が書き上げた著書『建築と火災』は、敵国による焼夷弾爆撃からいかに木造密集都市を防衛するかについて、身を粉にしてまとめたものです。木造建築を巡って、いかに効率的に焼き払うかを検討するアメリカと、どう防衛するかを模索する日本の戦いでもありました。

急ピッチで行われた木造家屋の防火研究に裏付けられた「木造家屋防火改修」のうち、最も現実路線だった応急策・外壁モルタル塗は思いのほか使い勝手がよく、そのまま戦後になっても大活躍することになります。

そして都市住宅はモルタル外壁で覆われることに。なんとも皮肉なことに、一面焼け野原という「金色の野」に降り立ったのは、首都東京のル・コルビュジエ化ではなく、モルタル外壁で覆われた擬RC造の群れだったのでした。

後年、防火改修の生みの親(そして祥文の父)内田祥三はあまりの予想外なモルタル塗の隆盛を目の当たりにして「木造モルタル塗構造はやめてしまったほうがいい」と嘆いたといいます。これもまた戦時動員の爪痕といえます。

さて、内田祥文の研究指導にあたった浜田稔は復興日本の見取り図『都市復興と建築』(相模書房)を1947年に出版します。その本をよく見ると、表紙には内田祥文らが心血注いで描いた東京都市計画「新しき都市」が使われていることに気づきます。

図4 『都市復興と建築』と「新しき都市」

大学院で内田を研究指導した浜田。『都市復興と建築』が出版される前年に若くして亡くなった愛弟子への愛を感じとることができる一冊です(図4)。

そして、内田らの野心的な都市提案を目の当たりにして、いつか自分もそんな壮大な都市提案を世に問うことを誓ったのが、内田の盟友・丹下健三その人であり、羨望の想いを戦後になって開花させ、東京湾を埋め立てる大胆な新都市構想として描き出したのが「東京計画1960」(1961)(図5)なのでした。

図5 『新建築』「東京計画1960特集号」1961.3

(おわり)



※1 『新建築』の特集号には3名のビッグネームが若者たちの瑞々しい提案に賛辞を送っています。それぞれ、内田祥三「大都市の改造」、前川國男「埋もれた伽藍」、坂倉準三「小供の計画」の3本。
※2 佐々木宏『巨匠への憧憬:ル・コルビュジエに魅せられた日本の建築家たち』相模書房、2000
※3 戦後、高山英華は祥文の才能を惜しみ「丹下(健三)くんよりうまいかもしれないよ」と評しています(『都市の領域:高山英華の仕事』、建築家会館、1997)。
※4 当時、東京帝国大学第二工学部で内田祥文から卒論指導を受けていた伊藤ていじが語っています。関野克が出征中で内田が指導を代行していました。ちなみに伊藤ていじの卒論テーマは「理想都市」。
※5 内田祥文は父・祥三たちから建築防火の研究を「やらされちゃった」(高山英華談)と言われていますが、著書『建築と火災』を丹念に読み込んでみると、建築防火の知見が建築設計、そして都市設計を科学的に基礎づけるロジックとして積み上げられていったことも分かります。

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