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木造禁止の模範解答|伊勢湾台風復興住宅と『美味しんぼ』のあいだ

2010年5月、ある連載マンガによって日本建築学会に衝撃がもたらされます。そのマンガとは『美味しんぼ』。第592話は、学会が半世紀も前に行った、とある決議について非難する内容だったのです。

そのマンガの内容に対し、名指しで非難された日本建築学会は、事実誤認を指摘する公式文書を発表。日本有数の歴史と規模を誇る日本建築学会が、連載マンガの内容について真正面から反論する異例の事態となります。

『美味しんぼ』は何を非難したのでしょうか。そして、そのことが意味するものとはなんでしょうか。思いつくままにいくつかメモ書きしておこうと思います。

『美味しんぼ』騒動

週刊ビッグコミックスピリッツ(2010年20号)に掲載された第592話は「続・食と環境問題」をテーマに、日本の家屋に国産の木材を使用する率が著しく低い現状を指摘するもの。その原因は「日本の建築学会が1959年に木造建築を否定した」からだと告発しました。

さらに「一級建築士の試験では木造についていっさい扱わないし、大学でも木造建築を教えない」と登場人物に語らせ、その結果「木材の値段がずっと下がり続けた」のだとも指摘。

これに対して日本建築学会は文書でもって反論します。題して「「木造禁止」を含む日本建築学会の「建築防災に関する決議」(1959年)について」。

律儀に、1959年に「木造禁止」を決議したことは「歴史的事実」なものの「木造建築全般の禁止を一律に求めたものではなく、危険の著しい地域を防災地域として設定し、防災地域に対する建築制限のひとつとして「木造禁止」を提起したもの」だと説明しています(※1)。
 
『美味しんぼ』に描かれた内容が不正確であることを説明する日本建築学会。でも、その説明の中身よりも、マンガ(しかも建築ではなくグルメネタ)の内容に学会が公式にレスポンスしたことが世間の注目を大いに集めてしまったのも事実です。

それゆえ周囲の反応もさまざま。

「また『美味しんぼ』勘違い&偏向意見&勇み足かよ!」(=《学会寄り》)から「え~?!学会の釈明、全然釈明になってないんですけど(笑)『美味しんぼ』グッジョブ!」(=《マンガ寄り》)まで両極端に。

その両極端の構図は、《マンガ寄り》の反応が「メッセージとしての正義感」を大切にし、《学会寄り》の反応は「論理としての整合性」を重視してるとも言えそう。

ただ、カングリー精神を発揮すると、マンガの作者・雁屋哲はこうしたズレを承知の上で、わざと情報発信しているように思えなくもありません。多少の論理的な整合性は脇に置いてでも「刺さる」表現を発信する作戦とも受け取れます。

あぶり出される「木造禁止」

じゃあ、日本の林業や木造建築が直面する現在の困った状況について、日本建築学会の決議が全く影響しなかったのかというというとそうでもありません。

学会が『美味しんぼ』の事実誤認をどんなに丁寧に指摘したところで、実際問題として、のちに木造復興を支持する人々によって「木造建築の空白時代」、もっと露骨には「暗黒時代」とも呼ばれたの1960~80年代に、学会の方針や研究のトレンドは多大な影響を及ぼしたわけだし、その時代の幕開けに1959年の木造禁止決議があるのも(それは因果関係よりか相関関係なんだろうけど)間違いありません。

もちろん、「だから学会の決議はダメだった」といった雑な主張をしたいわけではありません。当時の歴史的文脈を見つめることが大切です。

木造建築を不燃化する技術の程度はいまだ十分でなく、さらには戦時空襲や伊勢湾台風のトラウマは、あの阪神淡路大震災後の木造在来批判や、東日本大震災後の建築観の転換に匹敵する、いや、それ以上のものであったはず。

そんな文脈上にあっての「木造以外での」不燃化路線という事情を考えると、当時、「木造建築の空白時代」のキッカケをつくったこと自体、妥当な判断だったといえるでしょう。

ただ、そこには、木造在来構法を一段低く見るエリート意識があったのは動かし難い事実です(これまた歴史的な文脈上、いたしかたない構図なのは言うまでもありません)。また、その構図が木造建築士、一級・二級建築士の区別にまで及んでいることも想像に難くありません。それゆえ、木造復興に期待を寄せる人々にとっては、「木造禁止決議」は悪しき近代主義の愚行として指弾する対象となってしまうでしょう。

このあたりの問題は、コンクリート批判とも関連してくるもので、それについてはこんなのも書きました。

いろいろ脱線しましたが、『美味しんぼ』での学会批判についてでした。

危機意識を育むための「メッセージとしての正義感」が「論理としての整合性」を犠牲にする様は、学会の一決議を諸悪の根源にする「陰謀史観」だよなぁ、とも思います。「議論の余地」を焦土化しないためにも、「木造禁止決議」の時代を見つめ直す必要があるでしょう。

田辺平学と〈木造亡国〉

日本建築協会の機関誌『建築と社会』の1930年7月号は「木造建築の将来」特集号。後に、木造建築を真っ向から否定する、いわば〈木造亡国〉とでも呼ぶべき路線のイデオローグとなる建築学者・田辺平学(1898-1954)が論考を寄せています。

田辺は「大工の手より鑿を奪え!」という物騒なタイトルのもと、実証主義的・技術主義的な視点から木造建築の長所短所を列挙しつつ、科学なき木造建築を生み出す大工への攻撃を行ったのです。

そして、架構方式の科学化、仕様の標準化、徒弟制度の近代化を主張します。いわば、旧来の「大工の木造」から西洋の科学技術を移入した「エリートの木造」(杉山英男のネーミング)を目指すのです。

そんな田辺の主張は、本土空襲から敗戦を経て、より原理主義的な「木造禁止」へと舵を切ります。たとえば戦後に、その名もズバリ「木造亡国-不燃都市建設の提唱」(1952.7)と題した論考を発表。衣食の近代化を経てもなお、住は未だ「チョンマゲ建築」になっている現状を批判し、「科学ある都市=燃えない都市」の建設を主張しました。

原子爆弾にも抵抗できる都市が求められる「原子時代」にもかかわらず、日本は依然として木と紙の家で密集都市を造っている。田辺はそれを評して「我が国は原始時代」だと嘆きます。

大事なのは、この田辺の主張は、田辺ひとりの主張ではなく、当時の建築学や建築技術の世界において広く共有されていたものであり、というより日本の国是、国家的な悲願だったということ。とはいえ、都市や建築、さらには庶民住宅の不燃化は夢のまた夢。

田辺が「大工の手より鑿を奪え!」と叫んでより29年たった1959年、日本建築学会は先に紹介した「木造禁止」を含む「建築防災に関する決議」(1959.10)を行ったのでした。

関東大震災、そして太平洋戦争での空襲などなどを受けて、以前より国家的悲願であった「都市の不燃化」。主要都市が焦土と化してもなかなか実現しなかった〈木造亡国〉路線は、ここでようやくひとまずの勝利を勝ち取ります。

そんな「原子時代」にふさわしい不燃都市実現への王手をもたらしたのは、愛知・三重を中心に未曽有の被害をもたらした伊勢湾台風(1959)。

ここに「木造建築の空白時代」が始まりを告げ、公共事業からの木造の閉め出しが進むことになりました(内田祥哉『日本の伝統建築の構法』2009)。

伊勢湾台風復興住宅

抜本的な住宅更新・改良を加速するのは、いつの時代も災害が引き金。死者4697名、行方不明者401名、負傷者38921名という甚大な被害をもたらした1959年9月26日の伊勢湾台風も例外ではありません。

ちなみに私の祖父も、まだ母が小さい頃に伊勢湾台風の被害にあって命を落としています。私自身、小さい頃から折に触れ祖母からその話を聞かさてきたためか、伊勢湾台風という言葉はなんとなく特別な意味を持っています。

甚大な被害を広域にわたってもたらした伊勢湾台風。特に愛知や三重の干拓地で起きた数々の悲劇は、自然災害の恐怖を今に伝えます。

鍋田干拓地では、入植後ようやく初収穫を迎えるという時期に壊滅。入植者とその家族ら318名のうち133名の死亡。なかには新婚早々、あるいは妊婦、台風の数日前に現地入りした若者たちも含まれたといいます。その悲劇へのリアクションはラディカルな住宅更新へとつながりました。

たとえば、伊勢湾台風からの復興へ向け、被災地では鉄筋コンクリート造で農家を再建する試みが数多くなされました。モデルとされる鉄筋コンクリート造について、たとえば、『アサヒグラフ』(1960.12.25)には「鉄筋農家」という紹介記事が掲載されています(図1)。

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図1 鉄筋農家

名古屋市南区のある部落では、台風直前に鉄筋コンクリート造住宅を増築した小島さんの家だけが潰れずに済みました。建設時は奇異の目でみられた小島邸は、その先見の明を高く評価され、住宅再建のモデルとなります。

また、組織的な住宅復興も進められます。伊勢湾台風復興住宅と呼ばれる鉄筋コンクリート造の戸建て住宅です(図2・3)。

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図2 田鍋干拓に建つ復興住宅

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図3 川口干拓に建つ復興住宅

農村には不似合いな3階建て。1階に農作業場と水回り、風水害時には3階部分が避難所になる設計。

愛知や三重に建設されたこの復興住宅の設計を担当した建築学者・勝田千利(1908-1981)は、〈木造亡国〉を牽引した田辺平学の弟子にあたります。伊勢湾台風復興住宅は、いわば木造禁止決議の「模範解答」だったわけです。

災害復興を契機に「農村アパート」と呼ばれる鉄筋コンクリート造の集合住宅も、岐阜、三重、新潟などに建設されました(図4・5)。

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図4 農村アパート

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図5 アサヒグラフ掲載事例(1962.11.30)

設計指導は農村住宅研究の権威・竹内芳太郎(1897-1987)。2~3階は居住空間、1階部分のピロティは共同農具庫や共同作業所、集会所など農村の民主化装置としての機能も担いました。

これらの事例からもわかるように、伊勢湾台風という未曾有の自然災害は、科学啓蒙の遅れた農村にまで〈木造亡国〉路線による鉄筋コンクリート造住宅をもたらしたのです。共同農業というコミュニティのあり方まで含め。

こうした鉄筋コンクリート造農村住宅の試み、そしてその背後にある「木造禁止決議」を考えるとき、伊勢湾台風という圧倒的な被害と悲劇から受けた衝撃、さらには伊勢湾台風から数えてまだ十数年前でしかない本土大空襲の記憶を無視することはできません。

伊勢湾台風をめぐる学会の動きと『美味しんぼ』とのあいだに横たわる溝。そこを見つめていくと災害の歴史や、災害復興、戦争、近代化、木造住宅などなどさまざまなトピックスと関連づいていることに気づきます。建築・都市の不燃化と、近代批判としての木造復権。そのどちらについても冷静に俯瞰することができる時間が過ぎたかと思われる今こそ、この「溝」に学ばなければいけないのでは中廊下、と思います。

(おわり)



※1 一級建築士に関する事実誤認についても、「たとえば2008年の一級建築士試験では3題の木造に関する問題が出されています。また、2008年の建築士法の改正により、一級建築士の受験資格要件として、大学等では国土交通大臣の指定する建築に関する科目(指定科目)を修めて卒業していることが必要になり、この指定科目の標準的な科目例に「木構造」があげられています」とこれまた丁寧な説明を加えた。

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