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自己啓発としての棟梁・西岡常一|最後の宮大工は社会にどう受容されたのか

むかし、中学2年生の国語教科書(光村図書)に建築学者・小原二郎の「法隆寺を支えた木」が掲載されていました(平成2~4年)。その内容は、宮大工棟梁・西岡常一について書かれたもの。

この国語の教科書のほかにも、道徳の教科書、関連した文章が小学校国語の教科書にも掲載されたといいます。西岡棟梁は教科書に掲載するにふさわしい人物とみなされていたようです。

さて、「法隆寺を支えた木」の文末にも引用されている西岡家に伝わる法隆寺宮大工口伝は、次のような文言だといいます。

  塔組みは 木組み
  木組みは 木のくせ組み
  木のくせ組は 人組み
  人組みは 人の心組み
  (小原二郎「法隆寺を支えた木」)

この含蓄ある言葉は、古建築の奥義を伝えるだけでなく、リーダーとはなにか、人材育成とはなにか、にまで応用できる懐の深さがなんとも魅力的。やはり、経験に裏付けられた言葉は、わたしたちにたくさんのことを教えてくれます。

はたして、そうでしょうか。

棟梁・西岡常一の登場

「最後の宮大工」と呼ばれる棟梁・西岡常一(1908-1995)。西岡棟梁の著書・関連本は1970年代後半から90年代前半にかけたくさん出版されました。以下はその主立ったものです。

『斑鳩の匠・宮大工三代』共著:青山茂、徳間書店、1977
『法隆寺を支えた木』共著:小原二郎、日本放送出版協会、1978
『法隆寺 世界最古の木造建築』共著:宮上茂隆ほか、草思社、1980
『蘇る薬師寺西塔』、共著:青山茂ほか、草思社、1981
『木に学べ 法隆寺・薬師寺の美』、小学館、1988
『木のいのち木のこころ・天』、草思社、1993

関連本第一号は『斑鳩の匠・宮大工三代』(1977)で青山茂によるインタビュー。翌年には西岡へのインタビューに小原二郎が膨大な補足解説を加えた『法隆寺を支えた木』(1978)が出版。以後、80~90年代にかけて立て続けに出版され、宮大工・西岡棟梁ブームなカンジでした。

『法隆寺を支えた木』の共著者・小原二郎は、主著『木の文化』(1972)に収められた「鉄筋文化への反省」でも西岡棟梁へ言及していて、あの西岡家に伝わる宮大工の心得(・・・人組みは人の心組み)も引用されています。

西岡棟梁のメディアへの露出は、雑誌掲載なども含めると既に1970年代前半にはみられるようになります。ちなみに、前出の小原二郎『木の文化』が出たのは1972年。幸田文『木』所収のエッセイ初出は1971年。山本学治『森のめぐみ:木と日本人』は1975年。この頃、木への注目・再評価が高まったのでした。

なるほど。小原二郎の木材研究は、当時、社会問題化していた公害や「機械文明から生物文明への展開」といったムーブメントを背景としていました。もちろん、ツーバイフォー・インパクトも影響しているはず。

宮大工棟梁・西岡常一の「登場」は、1970年代という時代とその社会課題と深く関連しているのでは中廊下。そう思えます。たぶんそうでしょう。

近代再考・職人最高

たとえば同じく70年代にブームとなった樋口清之『梅干と日本刀:日本人の知恵と独創の歴史』(1974)は、日本・日本人の素晴らしさを「江戸」のなかに再発見する試みでした(いま、江戸がらみの特集番組や企画展が開催されているのは何とも興味深い)。

言ってみれば、高度成長の勢いに陰りが見え、大阪万博(1970)という祭も終わり、大学紛争や公害問題が表面化し、さらにはオイルショック(1973および1979)に見舞われた時代にあって、近代批判の視座を獲得しようという試みだったのでしょう。

そんな70年代に『木と文化』の小原二郎が『斑鳩の匠・宮大工三代』の西岡常一を召喚した。そして、木造復権の80~90年代になると、宮大工の/への語りが近代再考・職人最高な言説として流通していく。そうしたプロセスと見ることができそうです。

実は、西岡常一に関連した本はその大半が徳間書店、小学館、草思社といった総合出版社からの出版になります。大工・職人、建築関係者というよりも、むしろ一般向けとして西岡棟梁の語りは受容されたようです。

そして、その語りは古建築論というよりも、リーダー論や人材育成論として消費されたといえそう。

たとえば、冒頭に引用した小原二郎「法隆寺を支えた木」は、引用部分の前に次のような文章があります。

こういう部材を集めて全体を一つにまとめあげることは、至難の業であったでしょう。それを見事にやってのけ、統一された美しさと力強さ、さらに柔らかさまでもかもし出しているのには、ただ敬服のほかありません。これは大勢の大工の心が一つになっていたからです。おそらく、棟梁の統率力だけでなく、お互いの心が通じ合い結び合うような何かがあったからなのでしょう。
(小原二郎「法隆寺を支えた木」)

それを裏付けるように、『日本のマネジメントの名著を読む』(日本経済新聞社編、日本経済新聞出版社、2016)には、寺本義也ほか『失敗の本質』や三品和広『戦略不全の論理』などと並んで、西岡常一『木のいのち木のこころ』が挙げられています。

「塔堂の木組みは寸法で組まず木の癖で組め」。法隆寺の棟梁家に伝わる口伝です。癖と個性を排除するのではなく、生かし組み合わせることで時代を耐え抜く建造物を生む。組織経営に通じる名言です。
(森健太郎「『木のいのち木のこころ』欠点から長所は生まれる」)

興味深いことに、西岡自身も「意見をわかりやすく伝えるために雑学を身につけろ」とか「理屈をこね回す知識人にはなるな」と息子に語ったといいます(日経BP編『巨匠の残像』2007)。そこにはポピュラリティへの配慮が見られます。西岡自身が自己啓発的な語りを志向したようなのです。

そう思うと、西岡が研究者・竹島卓一(1901-1992)と繰り広げた論争なども、「経験」が「理論」を打ち負かした武勇伝として機能したであろうし(その際の名言が「そんなことしたら、ヒノキが泣きよります」でした)、「見えないところが最も重要」「必要以上にもうけようとするな」といった西岡の名言の数々には、雑学に支えられた曖昧で多義的、そして蓋然的な表現が多いことに気づきます。

言い換えるならば「読み手・聞き手がいかようにも勘違いできる余地がある」表現だということ。それは、占い師のトーク(=バーナム効果)や自己啓発書・スピリチュアル本の特徴と共通します。

社会学者・牧野智和は自己啓発書を次のように説明しています。

読者にとっても最も馴染みのある、最大公約数的な価値観を前提として、自己の啓発に誘おうとする書籍群が自己啓発書であるというのである。(中略)自己啓発書とは、より多くの人々が魅了されるような願望、より多く抱かれるような不安を掲げて人々を惹きつけ、それらへの処方箋を提出する書籍群なのだ、と。
(牧野智和『日常に侵入する自己啓発』2015)

西岡常一の宮大工言説は、古建築論としてではなく、リーダー論や人材育成論といった、誰もにとって馴染みのある問題に対して、大工・職人的な世界観でもって処方箋を提示するという、自己啓発的性格を持ち合わせていたからこそ、1970年代以降の近代再考・職人最高なムーブメントを牽引することができたに違いありません。

それはそれで非難されるものでも、否定されるものでもないでしょう。むしろ、その意義と功績は計り知れないでしょう。

でも、それは諸刃の剣でもあったのではないでしょうか。

西岡常一の副作用

曖昧で多義的な表現は豊穣な「つながり作用」をもたらすとともに、その曖昧さゆえに思わぬ事象とつながってしまう反作用も生み出します。

西岡棟梁ブームで賞揚された職人像とて、本来そこで言われている大工・職人は、極めて限定された層の人たちを指しています。また、そういう大工・職人が手がける建築物も由緒ある神社仏閣に限定されていました。

私は今年で八十五歳になりますが、これまで民家は一軒も造りませんでした。自分の家もよそさんに造ってもらいましたのや。民家は造ると、どうしてもいくらで何日までに上げねばならないと考えますし、儲けということを考えな、やっていけませんやろ。私はおじいさんが師匠でしたが、絶対に民家を造ってはならん、ときつくいわれていました。
(西岡常一『木のいのち木のこころ・天』)

西岡にとって民家は手がけてはいけない不浄なものでした。

すでに近代(=職業の自由が認められて)以降、参入障壁が格段に下がった大工・職人の技能も心性も、それまでとは全く異なるものへと変化していました(村松貞次郎『日本近代建築技術史』1976)。

近代どころか、江戸時代末期には、建築家と施工業者を兼ねた「大いなるタクミ(技術者)」だった「大工」職能が次第に下降していったことも指摘されています(内藤昌『近世大工の系譜』1981)。その原因に幕府の経費節減、作事方棟梁の没落や小普請方棟梁の登場と、その背後にある建築技術の普及・大衆化(=書籍メディアの登場)があったといいます。

神社仏閣と民家、宮大工と近代的大工・職人。なにかにつけ木造建築という大きなくくりで同一視してしまいがちですが、これらには当然に共通する点もあるけれど、それ以上に異なっている点があり、不注意に混同することは思わぬ落とし穴となるでしょう。

実際に西岡棟梁の書いている(というか言っている)ことを超えて、曖昧で多義的、そして蓋然的な表現は、そこで書かれていない(言われていない)ことを読み取らせ、社会に受容されていく。そんな副作用があります。

自己啓発的な組織論・人生訓として励みにする意義は大きい。けれども、大工・職人への認識に歪みをもたらすことは、職人文化の継承が社会問題化する現代社会において、建築界の「江戸しぐさ」といった過ちを演じることにもなりかねないでしょう。

在来木造卓越論へ

木質構造研究の大家・杉山英男(1925-2005)は「在来木造住宅卓越論」なる言葉をエッセイ「木質住宅と日本人」(1983)で使っています(※1)。

杉山は在来木造住宅の権益を守ろうとする人々が使う、在来木造住宅を讃美したり、その卓越性を謳ったりする論理に疑いの目を向けました。

桂離宮や数寄屋建築は、いまの在来木造と同じではない。木造建築は長持ちするという話に出てくる法隆寺も「法隆寺しか残らなかった」の証左。そのほか「世界中で日本人が最も木材を愛し、最も木材に馴れ親しんでいるのを少しは控えるべき」と忠告するなど。

在来木造住宅の卓越論や讃美論には、過去と現実の混同、事実と観念の乖離が見られるのであるが、これらは理論武装のほころびと言えよう。ではなぜそうしたとって着けたような理論武装が横行するのであろうか。ずばり言えば、在来木造住宅で家を建てようとする日本人の多くにそれがアピールするからである。恰好の良い建前論が人々の心を擽るからである。
(杉山英男「木質住宅と日本人」)

では、建前ではなく、在来木造住宅を好む本音は何なのか。杉山は言いたくない本音を、①安いから、②在来木造住宅しかしらないから、③みんな在来木造で建てるから、の3つだとズバリ言います。

ああ~、それ言っちゃったなぁ~。でもそれはかなりの部分、真実を突いています。

話を西岡常一に戻すと、西岡棟梁の技や理念がどうだったかは置いておいて、少なくとも棟梁の語りは、在来木造卓越論とはとても高い親和性を持っていたに違いありません。それは言い換えると、人は西岡棟梁の語りに、棟梁自身が思っていない、言っていないことをも(というか、言っていないことこそを)受け取った可能性すらある。

自己啓発としての西岡常一棟梁。最後の宮大工が語った言葉たちは、在来木造住宅卓越論と結びつくことで、最も棟梁が忌避したであろう「不浄」な「儲け仕事」としての家づくりに組み込まれていきます。在来木造の「商品化」に自己啓発としての西岡常一棟梁が寄与するというのは何とも皮肉な展開だと言わざるをえません。

棟梁が残した豊穣で曖昧で多義的な表現を味わうためのリテラシー習得は存外と難しい。棟梁が志向したポピュラリティゆえなおさら。

(おわり)



※1 ミサワホーム総合研究所編『日本人:住まいの文化誌』ミサワホーム総合研究所、1983に収録。

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