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二拝二拍手一拝のウソ

平成までは一般的でなかった?

 賽銭を入れて鈴を鳴らし(逆も可)、2回礼をして2回手を打ち、そのあとにお願い事をしてから1回頭をさげる。これが神社にお参りしたとき拝殿前で行う作法だ。ただしこの方法がルールとして定められたのは、そんなに古いことではなく明治時代に入ってから。一般的になったのは、戦後のことだといわれているのだ。
 現在でも島根県の出雲大社では2拝4拍手1拝、5月14日の例祭では2拝8拍手1拝をするべきとされている。同じく大分県宇佐市の宇佐神宮と新潟県西蒲原郡の弥彦神社でも2拝4拍手1拝となっている。
 一般の参拝者の作法ではないが、伊勢神宮の神職は祭祀の際、4拍手を2回繰り返す八開手という作法が行われている。天皇が即位した年の大嘗祭でも、皇太子以下は八開手を行うとされていて、神道系の教団でも4拍手を正式な作法として採り入れているところがある。
 4拍手の所以は幸せの「し」を表現しているともいわれるが、8拍手にその理由があるとも言われる。古来より神道における「8」は無限を示す数字でもあり、8回の拍手は神への至上の崇敬を表現する方法であるという。しかし8拍手は特別な祭礼のみで行われるやり方なので、日常ではその半分でよいとされているのである。
 これらの神社は、独自の参拝方法を継承していると考えられる。では、そのほかの神社ではどうか? かつて神社での参拝方法は、寺と同じく「合掌」が一般的だったとの指摘があるのだ。
 江戸時代中期の1763年、芙蓉山人という人物が記した『伊勢参宮細見大全』には、伊勢神宮での参拝者の様子が描かれている。ここで参拝者は、社殿の前で座り込み、合掌をしているが、現在のように直立して柏手を打っている人の姿は見当たらない。
 これは江戸時代までの「神仏習合」によるもので、神社と寺の区分が厳密にされていなかったことに由来する。さらに、神社によっては作法を決めていないところも多く、庶民は好きな方法で拝んでいたと考えられる。
 また戦前の礼法研究家によると、インドなどの仏教風に合掌をしたままお辞儀をする姿が見られたという。神前で柏手を打つこと自体は明治時代の小説などから見てもすでに行われてはいたようだが、拝礼については不明だ。
それがいまに伝わる2拝2拍手1拝にほぼ統一されたのは、1875年に出された「神社祭式」が根拠とされる。この中に、官幣社や国幣社といった重要な神社の祈年祭の作法は「再拝拍手」との記述がある。「再拝」とは2度のお辞儀を2回行うこと。つまり、この再拝拍手が参拝作法として、徐々に定着していったと考えられる。
 また、1882年に創立された皇典講究所の祭式の講義では、「再拝、祝詞奏上、再拝、二拍手、一拝」という作法が指導されていたという。このような経緯ののち、1907年に「神社祭式行事作法」が告示される。しかし、1945年の敗戦後、占領軍による神道指令や翌年の内務省決定により、戦前から戦時中にかけて定められた神道の礼式や神社祭式行事作法告示などは廃止される。かわって48年に神社本庁が改正した神社祭式行事作法では、宮司の作法に「二拝(再拝)二拍手一拝」と記された。
 とはいえ、1985年の国会で「一般市民は、いま参拝するときにはお賽銭を投げて一礼をする、あるいは形式的に二礼二拍手一礼をやっているかもしれません」という発言があったように、当時は神社参拝で一礼するのが普通であり、二礼二拍手一礼はさほど普及していなかったことがわかる。
 宗教学者の島田裕巳は著書『神社で柏手を打つな!』(中央公論新社)で二礼二拍手一礼について詳しく記しているが、その中に「私が大人になるまで、そうした作法は広まってなかったように思われる」とし、「浸透したのは平成の時代から」とも指摘している。
 さらには同書の中で、「神社の参道は、神様の通るところなので、参拝者はそれを避けるべき」というしきたりにも言及し、疑問を呈している。確かにこのしきたりを厳密に守れば、初詣などで混雑した境内では大変なことになるし、そもそも通ってはいけないところなら神社が通れないように何らかの処置をするはずだ。
 参拝で必要なのは、祈りをささげる心のはず。形式にとらわれすぎず、神妙な気持ちで神様と向かい合うことこそ、最善であるのは間違いない。

「日本人が大切にしてきた伝統のウソ」(河出書房新社)より
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