連載「若し人のグルファ」2

 七月にしてすでに三十度に届こうかという暑さのせいか、工房の入り口に植えられているシダレカツラの葉もこころなしか萎びているように見えた。もともと枝葉が滝のように垂れ下がる種類の樹木だが、それにしたってくたびれている。

 夕方ごろに大量の氷を根元にぶちまけておけばいくらか元気が戻るかもしれない、そんなことを考えながら入り口をくぐる。

 丑尾の勤める家具工房は、なんでも元宮大工の棟梁が怪我を機に引退してはじめた家具の修理屋が前身で、その高い技術を学びたいと集まって来た弟子たちが半ば勝手にはじめてしまったのがいまの工房らしい。

 物流倉庫だったものを買い取って改装したという工房の内部は広く、すこし前までは入り口側の一角を展示販売所として使っていた。

「どうだ。けっこう良くなっただろう。恭介が手伝ってくれたお陰で、一々客の対応で作業を中断しなくてよくなったからな。みんなありがたいって」

 工房の頭である棟梁に展示販売所は離のように建てられた小さい倉庫の方にまとめしまってはどうかと提案したのは他でもないこの俺と、新人は掃除と客の対応ばかりで嫌になるぜ、と不満をもらしていた丑尾だった。

 その当時、都内の中堅コンサルタント企業で働いていた俺は個人商店や零細企業のブランディングなどを提案することが多く、その中でウェブ関連の提案も行っていたから、主に家財道具の修理を請け負っている工房への注文予約をウェブサイトからできるようにすればどうかと丑尾に話していたのだ。それが丑尾の口から工房の先輩たちに伝わり、そうした方が良いという意見が膨らんだのだという。しかし、頭の固い棟梁に納得してもらうためには具体的な段取りと利点欠点をはっきりさせたプレゼンテーションをする必要があった。

 木工以外のことはてんで無精な丑尾に泣きつかれて、仕方なく俺が会社で抱えている正規の案件と並行して秘密裏に準備を進めたのだ。

 うちの会社は副業が禁止されていて、営業チームを介さない案件はすべてNG(ノー・グッド)とされている。そのため、過去のプレゼン資料やこういった提案の成功例が数多く眠っているアーカイブが公には利用できず、個人で一から情報を集めてまわり、老年の棟梁にもわかりやすくまとめ直さなければならなかった。

 丑尾が廃材を取りに工房の裏へといっている間、俺は中二階のようになっている事務所へ顔を出すことにした。階段を上りながら作業場を見下ろす。
いまにして思えば、貴重な体験だった。結果としてそれが原因で会社を辞めることになってしまったのだが、こうして俺の提案で新たに成功した現場を見ると、資料の制作中に二度もぶっ倒れそうになったこともふくめ、良い思い出だ。

 空調の効いた事務所には法被を羽織った棟梁と、その他に作業着姿のお弟子さんがふたり待機していた。俺を見つけるや否や弟子ふたりが気の良い挨拶をかけてくれる。棟梁だけはいつもそっけなく顔を向けてくるだけだが、きちんと俺から声をかければ、そのしわがれた声で気さくに応じてくれる。

「御無沙汰しています。その後どうですか。新しい環境で困ったことはありませんか」

「オレはそのへん、あまり関わってないからなぁ。パソコンは得意なやつに任せきりさ」

「でも聞くところによると、ブログの更新は頻繁になさるとか」

 棟梁はきれいに撫でつけられた白髪の隙間を指先でかきながら、側らの筆ペンと便箋用紙を引き寄せた。流れるような動作で筆を運んだと思ったら、パソコンは打てなくても文字は書けるさと言ってそれをかかげた。便箋には大きく「手鉋十年」と書かれている。棟梁は大工の他に書も嗜むようで、工房の模様替えを手伝いにきた際には、お礼代わりにと、丸い額に納まった「天上大風」という書と、同じ名前の日本酒をセットで持たせてくれたこともあった。

「ほら、ユウに渡してやんな」

「このあと顔を合わせるでしょう」

「オレより兄さんが渡してやった方が効く。アニキらしく、説教でも垂れてやるんだな」

 それだけ言い残して棟梁は席を立った。始業には必ず裏の水道で顔を洗ってから参加するそうで、五十年間欠かしたことのない習慣なのだとか。
便箋の書を手に階段を下りていくと、廃材の詰まった麻袋を抱えた丑尾が作業着姿で待っていた。紺色の作業着は所々すすけたような汚れが目立ち、右肩の部分なんかは木材で擦れてか、生地が薄くなっている。ズボンのポケットもいろいろと引っかけるのか、緩んで口が開いていた。

 鉋がけの練習も大切だが、作業着の修繕も職人修行の一環だろうに。指に挟んだ「手鉋十年」の書をひらひらと丑尾に見せながら、棟梁がご立腹だぞ、とアニキ風を吹かす。

 道具費がかさむぶん、生活費をすこしでも浮かせるために俺との同居を選択した丑尾に、作業着を新調できるほどの収入は新人であることを除いてもまだない。

 これは説教するネタがひとつ見つかったなと思う俺に、丑尾は麻袋と車の鍵を渡しながら、今日は十八時には上がれる予定だから、半ごろには風呂を沸かしといてくれ、と居候らしからぬ態度で注文をつけてくる。

「それは構わないけど、帰りに卵とサラダ油を買ってくること。あとカルピスの原液も」

「わかった。じゃあ風呂と夕食、頼んだ」

 注文をもうひとつ増やして、丑尾は事務所へと駆けあがっていった。見れば尻ポケットの底も、破れて穴があいている。これは早急に作業着の繕いを促さなくてはいけない。

 愛車のハッチバックに麻袋を押し込んだところで、ポケットのスマートフォンが震えた。画面には非通知とある。訝りながらも通話表示に触れ、はい、もしもし、と耳に当てる。

「仕事の相談なのだけれど」

 聞き覚えのある女の声に全身が総毛立った。

「大丈夫。以前のように手間のかかるものじゃないわ」

「電話での連絡はよせって、言わなかったか」

 電話の主は、そんなこと言っていたかしら、と惚けて笑ったような気配をさせた。

「仕事のあとでなら、寄れないこともない」

 通話を維持したまま愛車に乗り込む。

 陽炎の塊が居座っているのではないかというほど車内は熱気で満ちていた。

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