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我らは如何にしてロマンティックラブに挫折したか(イザベラ・ディオニシオ『女を書けない文豪たち イタリア人が偏愛する日本近現代文学』感想)

勉強嫌いで努力のできない竹美がやり直したいコト

今、高校に戻ってやり直したい科目。私は間違いなく、現代文・国語と、倫理政治経済と答える。どちらもかつて仕方なく習い、さほど面白くなく、ほとんど寝て過ごした上テストは赤点スレスレという散々な結果だった。

今こんなにもこんなにも、そっち系のことばっかり考えているというのにね!!!!でも、勉強は嫌いなのよ!!!!!!

我が強く欲張り!!!!!高校時代の担任にも正体見破られてたもんね。

ミュージカル『モーツァルト!』のコンスタンツェの歌みたいな人間なの私は。「ダンスはやめられない」から二番の歌詞に注目!!!

https://www.youtube.com/watch?v=-Ivg8c0rFw4

勉強嫌いで努力ができない
そう、今も変わらない

お前の未来は暗いと言われた
未来なんていらない

姉さんは私だって歌手になれると言う
でも時間が惜しいのよ
夜はダンスに行くから…

私の場合は二丁目と書いて「さかば」と読ませたいね。
刺さった。韓国語版のこの方の末恐ろしいパフォーマンスも刺さるわー。

…という私とは正反対のような、緻密なオタク精神をお持ちの筆者が書いた著書『女を書けない文豪たち イタリア人が偏愛する日本近現代文学』。もうねえ…高校時代にこれ学校で読ませて欲しかったわ。文学とは文化とは社会とはこう読むんだ!と教えてくれているじゃないかッ!!!著者には、古典文学についての著書『平安女子は、みんな必死で恋してた イタリア人がハマった日本の古典』や東洋経済オンラインでの不定期連載で楽しませていただいてきた。今回は、より現代に近く、ご本人の専門分野(オタクの独壇場)でもある近現代日本文学を「ロマンチックラブの導入と挫折」というテーマで彼女の目から徹底解剖していると思う。

ロマンチックラブがいまいちわかっていない日本人(主にオトコぉ!)!

タイトルは「女を書けない文豪たち」。文豪と書いて「オトコ」と読ませる離れ業!!!なのにどこか昭和のテイストまで滲ませている。ご本人、昭和の日本を知らないはずなのに…でも平安時代から現代にいたるまで見て来たかのように活き活きと綴ってくれている!これは相当な知と頭脳の強さ(それは妄想力ともいう)が無いとできない芸当。

森鴎外、ドイツに女捨てて来やがったッという話から始まり、太宰治に「ダメ男だけど惹かれちゃうわああああ」と悶えて見せ、尾崎紅葉の『金色夜叉』に日本におけるロマンチックラブの行く末を匂わせる(「欲望に正直な江戸文学と一途な恋を思い描くロマン主義」235ページ)。現実の日本では挫折したロマンチックラブ、それがご本人の実感に連なっていて上手い!最後はサイコホラーな読みが冴える江戸川乱歩で終わる。愛しているからこそ言いたいコト=妄想が洪水のように溢れているね。氾濫原。まだまだ溢れ足りないと思われる筆者、毎年氾濫して欲しい。ナイル川が毎年洪水して後には肥沃な大地が残されたというじゃないかッ!!!!上流でダム作って洪水起こさなくしたら却って土地は痩せていくという。私達読者はナイルデルタ、筆者は暴れナイル川だ!!!!ゴゴゴゴゴゴゴ…

愛の国、イタリア?愛の国、ガンダーラ!

以下はごめんなさいッ!!直接当人を知っているが故の感想になってしまうのだが、彼女曰く、イタリアは「アモーレ=愛の国」

昭和末期に足突っ込んでる日本人が愛の国って聞いたらあなた、愛の国ガンダーラ。ガンダーラ、ガンダーラ、They say it was in India(私の今いる場所を考えたら運命の符合って怖いw)って西遊記のエンディングテーマ曲なわけ。夏目雅子が三蔵法師演じるというすごい脚色!!!!

それに…ガンダーラで栄えた仏教は、愛とか何とかそういうものを全部捨てて初めて楽になれるの…と教えているじゃないかッ!日本人にとって「愛」とは何だか照れ臭く、あんまり口にしない単語である。原節子だって、『お嬢さん乾杯!』(1949年)で」「愛しています」とは言えず、「惚れております」という奇妙な言い方をしたくらいだ。日本語で印象的に「愛してます」っていうたのって、ヨン様くらいじゃないか??(言ってないかも…韓国語では死ぬほど言わされていたわねサランヘって)

愛が至上のものだなんて日本人は信じてないじゃないの、と初めてはっきり教えてくれたのは筆者だった。そう言われてみればそうだなぁ…言われないと気が付かない思い込みってのが、まさに文化や社会の日常性を支えているのだと思うが、私は友人として、彼女から現代日本で最高レベルの文学研究の成果を教えてもらっていたのだった…多くの場合はビールを飲みながらw。私が映画評で書いていることのベースには筆者との長年にわたる雑談に負っているところはかなり大きい。

今の日本映画における愛というのは、ほとんどの場合は「情け」、うっかり発揮されてしまう「ケア精神」、「腐れ縁」という単語で表現した方がよさそうだし、映画『君の名は。』が示唆する通り、現代最高の通俗文学作家(と書いてオトコと読む)が表現する、日本人男子にとって人生最高の時代は高校時代で終わっており、後は子供時代を引きずりながら、女性にケアしてほしいなぁ…という欲望が見える

新海誠さんは、今の日本人の欲望を鮮やかにスクリーンに映し出していると思う。好きか嫌いかは別として。

インドや韓国にはロマンチックラブらしきものがありそう

過去に住んだ2つの国、韓国とインドでは、ロマンチックラブらしきものが感じられる。感じを申し上げると、韓国は「恋愛」という概念を日本文学を通じて輸入しただけあって、なーんとなく、高校生ラブに向かう気持ちも捨てきれていない感じがするが、基本は大人の恋愛を描いているように見える。インドでは、長らく結婚と恋愛が分離していたこともあり(今も見合い婚が多いという)、却って恋愛の方は燃え上っているようにも見える。

あー、でも韓国も宗族による家集団の支配力がひどく強い社会を経験しているから、却ってしんどい社会規範から逸脱したあげく制裁を加えられるラブはロマンチックでフェイタル(致死)な感じもするなあ。と、同時に、インドも韓国も、恨みを持った女幽霊の表象が非常に根強い。インドも「身内」と外の間にある断絶は絶望的に大きいもんね、今でも。これ関係あるんじゃないかな。

ただまあ、インドの場合、映画から観る限りは、男の一方的思い込みから来る感情爆発でしかないのでは…と疑われるようなものばかり(韓国もその傾向あり)。多くのインド映画を知らない人が、「インド映画って踊るんでしょうw」と言うのは、それなりにインドの特徴は捉えていると言える。インド映画の歌舞シーンで「オトコの妄想」じゃないケースを探す方が難しいのではあるまいか。『RRR』の成功要因の一つは、徹底して歌舞シーンから「オトコ→女」への妄想を排していることだろう。故に女性のシーンが減ってしまうという副作用まで起きた。インド映画の歌舞シーンはインドのリトマス紙である(場所は?誰が出ている?女の身分や職業は?男の身分は?肌の色は?男女は身体接触している?していない?等等)。

でもねッ!!私ならば、ダンスはやめられないのよッ!!!自分の中に持っている文化的な欲望、個人に特有なレベルの欲望、その都度の流行に合わせて表出する欲望…は、コントロールのしようがない。「テキストはそんな風に読んだらいいのか!」とか「ううむなるほどな!!!」という発見に満ちた同著、高校生には早いのだと思うが、日本を礼賛するでもなく、かといって否定するでもない、最近珍しい、バランスの取れた日本文化論だと思う。

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