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竹美映画評89 インド・パヨクの黄昏 『Buddha in a traffic jam』(2014年、インド、ヒンディー語・英語)

※一部加筆
アンチボリウッドの旗手として日々舌鋒鋭くボリウッドやリベラル系メディアを非難し続けるヴィヴェク・アグニホトリ(Vivek Agnihotri)監督。ここでも何度か取り上げてきた。

アンチボリウッドでモディ政権支持者…旧ツイッターでの監督の激しいスタイルに眉をひそめる人もたくさんいるし、私もそうだった。しかし、それはつまり、彼にはひどく惹かれるものがあったということである。

日本には、インディーズ映画も含め多数のヒンディー語ボリウッド映画やタミル語の映画が入ってくるのに、ヒンディー語映画の監督、アグニホトリ監督の作品は来ないし、ほとんど話題になっていない。

インド映画の現状を読むには、彼のような、映画のメインストリームから外れたところから怪気炎を上げる人の声を聞かねばならないと思う。また、実はそちらのほうに、インドの多くの人の本音が読めるのではないか。それは日本で私自身が体験し結論付けたことを検証することになるかもしれない。。

そこで、パヨクの端くれとして、アグニホトリ入門として、監督がインドの極左ゲリラのことを取り上げた過去作『Buddha in a traffic jam(仏陀は交通渋滞中)』を鑑賞せねばと思いたった。最新作で、昨年のヒット作『The Kashmir files』はその後でも遅くなかろう。何と言っても日本のインド映画ファンの大半が無視するであろう作品だからである(だから、今年春に週刊文春エンタ+で書かせていただいたときに本作の名前を挙げた)。

なお、鑑賞前に、メイキング本のUrban Naxals: making of Buddha in a traffic jam』を読みはじめ、やっと読み終える目処が立ったので、映画を配信で観た。

私には非常に深く刺さるパヨク映画だった。

お話

冒頭で、インド政府の役人と、ナクサライト=極左ゲリラの双方から脅迫され殴られる少数民族の男が映し出される。

インド有数のビジネススクール、インド商科大学院(ISB)で学ぶ青年ヴィクラム(アルノデイ・シン)は、女性の自由に関するキャンペーンをソーシャルメディアに投下し、一躍人気者に。経済学教授ランジャン・バクティ(アヌパム・カー)はヴィクラムに興味を持ち、社会正義と社会変革についての自身のノートを読ませた。ヴィクラムは学生会館でプレゼン、喝采を浴び更にいい気になっていたが、あとである学生に「左翼の扇動に乗せられやがって」と掴みかかられ、目が覚める。翌日、「自分にはできない」と言い、教授に資料を返す。

その頃、教授の妻シータル(パレヴィ・ジョシ)が運営して来た、貧しい部族(インドにはtribeと呼ばれる少数民族グループがいくつか存在する)を支援するチャリティ活動への補助金が打ち切られる。困ったシータルを助けようと、ヴィクラムは一計を案じ、チャリティではなく、ビジネスとして活動を展開すれば、お金が現地の人々に渡り、チャリティを成功させられる、と意気揚々とゼミで発表。しかし、意外にもバクティ教授の猛反対に遭う。

貧しい人々を具体的に支援できるというのに、なぜ教授は反対したのだろうか。

苦難の中で作られた「もう一つの真実」の映画

本作は、Naxal、Naxaliteと呼ばれる、インドの毛沢東主義極左ゲリラの暗躍を描きつつ、彼らを陰に陽に支持するアカデミズム、そして貧困支援NGOを装って貧者を搾取する様相を描き出す社会派映画である。

この映画は賞賛と猛非難、(多くは未見の者による)キャンセル運動を引き起こしたという。インドの「もう一つの真実」を炙り出してしまったとも言え、アメリカで起きたトランプ運動と反トランプ運動を先取りしたかのように見える。

アグニホトリ監督は、IBSで学ぶ知人から、同大学での講師の仕事と併せ、ナクサライトに関する短編映画を作ろうとしているので、アドバイスが欲しい、と言われる。監督自身がそのアイデアを気に入り、苦労の末、長編映画製作にこぎつけた。

その苦難の経緯は、メイキング本『Urban Naxals: making of Buddha in a traffic jam』に詳しい。 

作中、時間や施設や予算が足りなかったのか、物足りない部分もあり、そこが気に入らない人もいるかもしれない。が、それを補って余りある出来だった。

また、メイキング本を読んでからでなければ、インドの状況がわからなかったり、そもそも左翼運動のことを知らなければ、登場人物の葛藤がよく掴めないかもしれない。

ちなみに、テルグ語圏では左翼映画=赤色映画の系譜もある。そのストーリーは、やや極端とはいえ、インドのまた別の「真実」を示している。

我々が忘れてはならないことは、世界はたくさんの顔を持っているのだということ。そして、私達が見ようとすれば、そこにいくつもの顔が見えてくるのである。あるいは自分の中にある多面性がそこに映っているのかもしれぬ。

パヨクの挫折、資本主義の高らかな勝利宣言

最後、ヴィクラムは、ナクサル支持であるばかりか、組織員であることが判明したバクティ教授に対峙する。

明らかにうろたえ、聞かれてもない暴力革命の理想をぶちまけ、尚も彼をオルグしようとする教授!!!無様!!!!

私は特に、対する教授が味わう挫折と敗北の苦い味の方に心を動かされた。

別のシーンで教授は「革命のためには犠牲はやむを得ない」というようなセリフを言う。これを生きている人の口から聞いたことのある私にとっては、さすが左翼!とニヤけてしまった!!!そこからのこの転落!!!

「暴力革命によって抑圧された者たちを解放する」という理想と、「資本主義と民主主義による繁栄の追求以外に「交通渋滞」のど真ん中にあるインドを救う道はない」という洞察の激突。監督にとっては、インドのアカデミズムやメディアの頭の中の物語と、目に見えて勃興してきた経済大国のリアリティとの対決なのだ!!

他にも面白いところがあった。

一見少数民族支援をやっているはずのNGOへ政府支援金が降りなくなったとき、ヴィクラムはいかにも資本主義の権化として、ネット販売を使ったビジネスを提案したのだが、実は、NGOへの政府支援金をナクサライトの活動資金に流用していた組織としては、ビジネスで貧しい少数民族が自立してしまっては困るのだ。故に、ナクサライト構成員のバクティ教授は、ヴィクラムをはげしく非難する。罵声も面白くて、

ビジネススクールの学生のくせに、政治を持ち込むんじゃない!

と怒鳴る!いや、政治を読み込んでるのはあなたの方だよね…とヴィクラム含め我々もポカーン。

このえげつなさ。しかしこれがまさに、オバマ期が残していった、オルタナファクトであるし、SNS時代の我々が泣いて喜ぶ『真実』だ。我那覇真子さんの香りがする。私、いつか彼女はアグニホトリ監督にインタビューすると思う。私は全然違う理由でお話を伺ってみたい←これは次回書くつもり。

余談だが、いじけたヴィクラムは、ハイデラバードのチャールミナール近くの売春宿で女を買うのだった!私の予想は飲んだくれることだったんだけど、いやーあんな自信満々のエリートインド男なら女買うわな!!売春婦の顔が一切映らない辺りもよかった。

アグニホトリ監督の苦いユーモアも気に入った。始終あんぽんたんの酔っぱらい女学生の役は、女性蔑視的だとも読めるが、彼女こそが、冒頭でヴィクラムの展開した『女性に自由を!』のキャンペーンのモデルになった人なのだ!!!何とまあ意地悪いこと!!!!皆が同情した彼女の実態は、教授の家に呼ばれて夕食の席でワイン呑んで寝ちゃう、小鳥のような自由な女なのだ!!!無論エリートでお金持ちであるから自由なのであるし、就職先も有望だ。

繁栄するインド≒極右政権のインド?

アグニホトリ監督の考える理想のインドは、資本主義によって、そしてインド的な火事場のクソ知恵(トラブルが起きるまでは関心が低いが、問題が起きたときに個々の人が発揮する対応の速さにはいつも感心する)によって皆が豊かになっていく力強い世界だ。貧困や不公平、差別に起因する偏見や暴力、搾取などの問題は、公正な形での経済成長以外の方法では解決され得ないというのである。

そんな彼とは対極の脈絡にある立場=アイデンティティ政治の観点から見れば、ヒンドゥー至上主義をバックに成長したモディ政権はかつて無い「悪役」である。極右、差別主義的で排他的、言論の自由すら制限している…モディ支持を表明することは、極右支持の差別主義者というレッテルを貼られることである。実に2020年代の世界らしい。

インドにおいて、現状、差別の問題が無いとは思えない。一方で、アイデンティティ政治の陥穽を意図的に見ないようにしてはいまいか。本作はそこを突いている。

ところで今日本は空前のインドブーム。

こんな記事もよく目にするようになった。

ヒンディー語とヒンドゥー教を混同して使っているのは意味が分かるのでまあいいが、この記事から読めるのは、繁栄するインドにあやかりたいが、極右支持だとかは言われたくない、という日本の集合意識にある矛盾した本音である。英米メディアのようにモディを猛批判するのでもない。

この矛盾はインドの人にはすぐバレるだろう。

次回は本作のメイキング本について見ていきたい。

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