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ホラー映画から見る現代社会④ 身体から脱走するSF、身体が追って来るホラー

昨今、同性カップルの子育てというトピックが日本でも目に入るようになってきた。

私は、自分の遺伝子が残ろうが残らなかろうがどうでもいいという価値観を持ったゲイ男性に育ってしまった。小鳥たちと彼氏とインドで過ごしていていればもう充分!

一方自分の遺伝子を保持した存在を慈しみたいという欲望を生きる性的少数者男性もいる。無責任リベラリストの私は、好きにやればと思っていた。しかし、代理母出産への批判や、性別移行に関する様々な意見を読むにつけ、これは身体という越えがたい事実と絡んでいるのだゴゴゴと、ようやく私の中の何かが興味を持ち始めた。

越えがたいということは、集合意識的には越えたいのだ。そんな大それた欲望に超自然的想像力が流れ込まないはずがない。まるで当たり前であるかのように、ホラー映画は、長い間、生殖に絡んだ欲望や体験をぐちゃぐちゃと描き出している。そもそも生殖自体がどこか超自然的でホラーじみているということかもしれぬ。

「私は悪魔にレイプされ子を身ごもった(ローズマリーの赤ちゃん)」「私は狼にレイプされ…(オーメン)」「私は機械にレイプされ…(忘れたけどディーン・クーンツ原作映画)」「死んだあの人に会いたいがために別の女に異世界の子を産ませるKUSOじじぃ」「みんなのためにベイビーを産んでくれ!そして皆で…」「お腹の子があたしに命令するの(忘れた)」「人間なんて嫌。あたしは自動車との子供が欲しいんだ(チタン)」「ゾンビの子はゾンビ(ドーン・オブ・ザ・デッド)」「あたしとあんた、どちらかがあの方の子を先に産むんだから!(忘れた)」「卵産んでるんだから邪魔しないでいただける?(シガニー銃乱射うぉあ)」「あたしハエ人間の子供を妊娠してしまったわ!(後述)」…

これらの作品は女性の身体と生殖に対する人類の並々ならぬ興味関心を抉り出し、見ている側が不快感や危険を感じるように作られている。女性の身体や生殖についてのホラー映画はかなり充実していると言える。

では男性は己の身体を恐れないのだろうか。そんなことはない。

身体変容が精神を責め立てる ~『ザ・フライ』~

ホラー映画には、身体を扱うボディホラーというサブジャンルがある。私の定義で言うならば、身体が変容していく様を清明な意識のまま体験する当事者と、それを取り巻く周囲の人々の恐怖と嫌悪の物語である。私の好きな80年代ぐちゃぐちゃホラーはこれに属している。コブラの呪いを受けた男を描いた『満月のナーグ』、外宇宙からの光を浴びて一家が変容していく『カラー・アウト・オブ・スペース』も、性別と関係のないボディホラーである。

多くの健康な人にとって、病という身体変容は自分の意思と関係なくある日突然発生する。とても恐ろしい。逆に、人がいかに「健康な身体」を求めてやまないかも分かる(『ゲット・アウト』)。

身体変容の当事者を捉えた漫画、楳図かずおの『おろち』「姉妹」は傑作だし、『寄生獣』『AKIRA』にもなかなかのシーンがある。

そんな中でも、科学者がハエ男になってしまう『ザ・フライ』は、身体変容に生殖までおまけしてくれた作品。趣味も性格も悪いッ!!!

あらすじ:科学者のセスは瞬間移動装置を発明し、自ら被験者となるも、誤ってハエと遺伝子レベルで融合してしまう。恋人ベロニカは、セスの変容に恐怖していたが、ある日自らセスの子供を妊娠していることに気がついてしまうゴゴゴゴ

久しぶりに予告編観た。デーヴィッド・クローネンバーグという、リベラル界でも最もエキセントリックな様相を呈するカナダの監督作だ。途中、髭の男(ベロニカの元カレ?横恋慕男)が何度か「うつるぞ」と警告しているように、エイズ・パニックが背景にあるとされる本作は、病をいかに人が恐れているかが分かる。

更に本作がすごいのは、ベロニカの妊娠だ!妊娠女1名と男2匹の三角関係。否が応でも「どんな子どもを産むのだろう」という我々の下世話な興味を引きずり出す。おまけに『ザ・フライ2』が製作されてしまい、淀川さんの日曜洋画劇場送りになった

えげつなく、意地悪く、ステロタイプ的で全く以て政治的に正しくない。ホラーは嫌われて当然である。話は逸れるが、興収1億ドルを超え、万人に支持されるドル箱ホラー映画とは概ね、薄暗がりの有象無象ではなく、おてんとうさまの下で堂々と生きる既知の存在、ひどく迷惑でToxicな御仁を描いている(それはそれで描かれる必要があるのだが)。それは果たしてホラーとしてどういう意味があるのかなとは思う。

さて、身体が自分の意思と関係なく変容したことが遠因となり、セスは死んじゃう。死んじゃう男の方はまだいいよぉ…ベロニカは「得体のしれないものを妊娠した母親」という役割を背負わされたまま残されるんだから。男ってさあ…と恨まれる所以までちゃんと描いている。

ところで、同じころの映画で、せっかく未来から来たのに、サラ・コナーに精子提供したら2日後くらいに死去した『ターミネーター』の護衛兵カイル・リース(マイケル・ビーン様ぁ!)のことも忘れてはならない。ただ、サラは産む気満々だ。ジェームズ・キャメロン映画の女たちは理想的な精子提供者さえいれば産む気満々な上、精子提供性者(生物学的男の言い替え)より長く生きるのが特徴である。これまた、リベラル界の大暴走国カナダ出身監督の描く女性の物語なんだから面白い。

言葉は心を越えない(by CHAGE&ASKA)。では心は身体を越えられるのだろうか

さて、一部人類がLBGTQ∞の大冒険(大暴走?)に踏み出して以来、ずっと挑戦し続け、最近は議論や思考を拒否してカルト化した課題がある。

自認する性は身体よりリアルなのであるという信念だ。

性別=ジェンダーは言葉が作り出したもの…いいえ、身体の性別だってグラデーションになっているというのに、我々の頭が生み出した二元論で勝手に割り当てられているに過ぎないのだ。

私達は抑圧されている!!!!
だって身体なんかいくらでも改変できるんだから!!!!!!
精神を全肯定し、身体を否定してしまえ!
世界を革命する力を!!

今にして思えばSF映画『マトリックス』はそういう映画だった。

ピューリタン的なクソ真面目さで身体を凌駕せんとする精神の戦いを描いたウォシャウスキー姉妹(当時は兄弟)は、LGBT∞運動の旗手となり得ていた。Netflixドラマの『センス8』位までは。いつか彼女達は、アンチ勢力によって攻撃されるのだろうか。現状、LGBT∞の方が焚書を好んでいるようだが、アンチのやり方が推進派より健全というのは今の状況が生んだイメージに過ぎないと思う。既にきな臭い。

最近日本でもはっきりしてきた、未成年に対する性別移行治療(肯定治療という呼び名は実に思想教化的だ)への反発には、その性急すぎる態度から来る健康被害のリスクもさることながら、「身体が意に反して変化させられる」ことへの怒りや恐怖が混じっているのかもしれない(恐らくそこまで考えている人は少数であろうが)。

性別移行を後悔する人であれば「元に戻せないこと」で苦しむかもしれない。性別移行者にとっては、八方手を尽くしても尚「何かではないこと」が己の自意識を責め立てるかもしれない。

私は、身体はどこまでもどこまでも憑いてきて、その人の自意識を侵食し、時に残酷に否定し、徹底的に壊す可能性を持っていると思う。例え筋肉をつけたり痩せたり太ったりして表面を作り変えても、何を足しても削っても、時間的に連続している身体を「訂正」しているにすぎない。身体は転向できない、せいぜい訂正だ、なんて言い方は、人によっては耐えがたいだろう。激しい憎悪や拒絶、恐怖を引き起こすかもしれない。

私の頭の中のジェンダーVS私が生きるセックス

さて、今のところ99%の人類に共通する「身体」の問題とは、もっと凡庸でありふれた、老化や病気やケガ、第二次性徴等によって「変化していく」身体である。

シュライアーの著書『トランスジェンダーになりたい少女たち』は、第二次性徴という身体変化に怯え、抗うことができると考えた少女たちを捉えた。彼女達は、生まれる前の映画なので知らないだろうが、『マトリックス』の思想を現実において実践しようとしたことになる。女の身体なんてまっぴらだ!やめさせてくれ!という訴えも時折目に入って来る以上、身体の拒絶自体は突飛な欲求とも言えない。折よく性別移行という手段が可視化され、そこにがちっとハマったのである。それを周りが吹き込んだんだと言ってみたところで結果は同じだ。これが無ければ、私たちが無責任に「いいね」をする別のモノにハマったことだろうと私は思う。

そういう状況を横目に見つつ…「自分の性別、自分で決める」はどのように本当であり得るのだろうか。身体の抜本的変更や取り換えは現状不可能だから、未来のテクノロジーに希望を託してせめて精神は自由であろう、と言い続けること。それが、クィア中心的な思考の現住所のように思う。極めてSF的なのだ

しかし、自由を謳いながらも尚、そのあり方が現状の他人や社会からの承認が無ければ成り立たないと教えている。その中にあって、果たしてその人は自由なんだろうか。その矛盾は身体が自由にならないこの世界と無理解なマジョリティのせいにして、その生き様に一抹の悲しみを感じたり、共感や連帯をせよと言っている(ように見える)。

もしかして、いつか終末のときが来て皆が救われると夢想しているのだろうか。あくまでもしそうならということだが、そのキリスト教的終末の発想には弱者的な志向が内在している。内に内に籠り、その実、「今そこにいる自分」を見つめることなく虚構のラビリンスに入り込んでいく。

もしくは、自由を掲げ、現在の社会や他人を自分の欲求に合わせさせることが「自分の性別、自分で決める」精神の真の目的なのだろうか。もしそうならば、その精神で生きる者こそ真の強者だ。強者の放つ光は弱者を引き寄せ、安心させてくれる。空威張りの精いっぱいの光だったとしても。

無論最も恐ろしいのは、上記のような人々を鉄砲玉として使っている人達である。

それもこれも、身体が不可逆でときに変更不可能、そして不公平だから悪いのだ。SFが指し示す、身体の完璧な選択自由という未来の夢を見ながら、不自由で不本意でポンコツな自分の身体を引きずるホラー世界を生き延びるしかあるまい。

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