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ホラー映画から見る現代社会② みんなの『死者の書』を作り出すSNS

焚書事件に魅入られる元パヨク!

日本では『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』という本が批判にあい、刊行中止になった。

編集部の方たちも今回のことで学んでしまって、こういう企画に手を出すことは止めるかもしれない。そう最初は思った。

他方、出版業界で働く友達の意見はもっと冷静で、「まああのタイトルなら炎上必至」という見方だった。ちょっと反省した。

自分にとって関心が高く、尚且つ一般的にはあまり知られておらず、内部では紛糾して深い分断を生んでいる泥沼トピック(大好物)…私の場合はLGBT∞運動…を凝視しすぎると、やっぱり見ている自分も呑み込まれてしまい、開ききった瞳孔で「こんなのまだまだ大したことない」とどんどん刺激の強いものを求めてしまう。畢竟、私の大好きで大嫌いな義憤めいたものも湧いてくる

「自分の認識が歪んでしまう」と言えばホラー的でもある。
私の領分ではないかッ!

くわばらくわばら。でもホラーや凶悪事件ものが大好きな私の下衆な部分は、これまでになく元気だ。

けけけけけけ本が燃やされる炎の前で踊り狂っている私!!火をつけた人とは焚火の前へ来てやっと分かり合えるというものだ。私だって同じ穴のむじなだと。

タブー化されるものの正体

さて、ツイッター上の批判で私が気になった点は、本の中身は読んでないけど帯の書き方が、タイトルが、マーケティングが差別を煽るからダメだという理由だった。俯瞰的に見ればマーケティングが下手だなあ、ということに尽きるのだろうが、私の関心事はそこではない。

そういう意見表明が「せこいな」と思うようになった。本を批判してるんじゃないところだ。

読む前から出版停止を求めた人の方がまだ分かりやすい。自分の言ったことに後々責任を取ることになるのだから長い目で見れば誠実だ。言い逃れするかもしれないが。

また、類似した意見を前に山ほど見た気がするが、出版停止になったことでこのトピックが炎上し、ヘイトをまき散らせることを見越していたヘイターの思い通りになったのだ、といういささか陰謀論的な意見も見かけた。実に2020年代的で楽しい

この件がタブー化することが利益になるのは決して「ヘイター」にとってだけではない。むしろ、本を読まずに済み、どう思ったかを言わなくていいし考えることすら要らない、それでいて「私はキャンセルに加担してませんし、差別も許しません」という2つのタイトルを一挙両得できる皆様にとって大変おいしいのだ。

トピック全体をタブー化し、同書を『死霊のはらわた』の『死者の書』のごとく葬り去る。その方が、本を通じてうっかり見つけてしまうかもしれない自己の本音や戸惑いを体験せずに済むわけだから、とても平和で安心できる。それに異を唱えるなんて、はっきり言って時間の無駄遣いだ。

前に論じたように、2020年代のホラー映画における「モンスター」は、差別する人のことである。そして、左翼映画研究者でゲイのロビン・ウッドの論を用いるなら、「誰か自分じゃない人」をモンスター枠に送り込んで安心したいタイプの観客にとって、「モンスター」とは、あくまで「ノーマリティ=我々の平和で健全で正しい日常」のために犠牲になってもらわないと困る存在だ

一方、本を読まなければ、そこに記述されているであろう醜くおぞましいモンスター=ヘイターの正体を知ることはできまい。敵を正確に知るために読まないまま封印するとは一体。この本の中身をタブー化して封印したいという欲望とは、自己を掘り下げることを避けたいという逃避願望であろう。

皆さんは「ヘイター」の正体を知らないまま、「あいつら」をモンスター扱いすることになる。「ヘイター」とは実は、ノーマリティを守るためにのみ存在する虚構なのではあるまいか…。あの本の宣伝文句やタイトルを批判しても本のことは「読んでないから分からない」で誤魔化そうとする意見はとことんうさん臭い。

集団タブー化の免罪パワー

ハリウッド映画では様々な人がモンスター役を持ちまわって来たわけだが、最新版の「サベツ・モンスター」は絶対悪であり続けるだろう。なぜなら、我々は、ホラー映画よりもホラー映画らしく、現実の世界で、モンスター捜し→ワンクリック・退治→ナルシスティックな正義面をする振る舞いに慣れてしまったからだ。

何か・誰かをタブー化することで救われるものは何か。自分の中には「悪いもの」なんか無いことにしてことを穏便に済ましたい人にとって、イレギュラーなもの、自分の「ノーマリティ」を揺るがすようなものは全て脅威だ。下手したら自分に疑念を持ってしまうかもしれない。そして、それを避けるためのタブーの結晶(産廃処理場?)こそが、その人が本当に恐れていること。

だから敢えて知りたくないに決まってる(私だってさー自分の中に何が棲んでるとか知りたくなかったわよッ!)。

そして、個々人の気がつきたくないタブーをみんなで持ち寄って集団タブー化することで(魔女狩りすること・村八分すること・インド神様映画ならみんなで神パワーで悪鬼を封じること・リンチで生贄を殺すこと)、我々は免罪符を得るのだ

我々は救われた!我々の日常は守られた!平和が戻って来た!

日常や平和という言葉を「女・子供」と言い換えればばっちりだ。

本当は、集団でタブー化する心理には、モンスターに加担してしまうという表層的な恐れより、そのタブー=死者の書を開けてみたら何が出て来るか分からない、下手したら自分がモンスターかも?という予測不可能性を恐れているのではないだろうか。

『マイ・死者の書』を少しだけ開いてみる楽しみ

ヘイトを持っているのは自分の方では?
サベツしているのは自分の方では?
物事をちゃんと見てないのは自分の方では?
根本的に自分が間違っているのでは?

私は上記のような不安に直面したときに、嫌々ながらも向き合ってきたと思う。もちろん、私がタブーにしている私だけの『マイ・死者の書』を開ければ、即座にいやーな気持ちになる。だが、マイ・死者の書の一部は知っている。開ければ開ける程、ページをめくる程、怖さは減っていく…それは自分への幻滅と引き換えだし、長く見続けることはできない。狂ってしまうから(今以上?)。

ホラー映画『死霊のはらわた』の面白さはそこにあるとはたと気がついた。

うっかり開けてしまった『死者の書』から飛び出してきた悪鬼が、「お前の今抱えてる悩みや不安なんてちゃーんちゃらおかしいわ!!まだまだやってやるよーーーー」と一刀両断し命≒正気を奪うのだから!何と恐ろしい映画だろう。そして、それを徹底的にお笑いとして描くという狂気、或いはやさしさ。

クリエイティビティとは狂気だ。死者の書を開いて、自分のことが書いてあるのではないかとこわごわページをめくることだ。そこで何に出くわすか、誰も分からない。結末も決まっていない。

ちょっとページをめくれば、自分の知らない自分が真顔で自分を見つめ返している。時々そうやって、自分の棚卸をすることも、この狂った状況で冷静でいるためには必要だ。

『死霊のはらわた』最新版の最恐ママ、エリーはそういうことを思い出させてくれるのだ。

(修正。全然意味が分からないところを直しました)

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