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『泥中の蓮』存在を証明できない私たち#02

 寒さの残る早春だった。空には銀鼠色の雲が垂れ込め、今にも降り出しそうである。私はほんの少しの緊張と期待を抱えて、巣鴨へ向かって大またに歩いていた。

 地蔵通りは、土日祝や市の立つ日に比べれば穏やかな人出だったが、それでもパン屋のタカセやとげぬき地蔵の高岩寺は賑わっていた。
 今でこそ洒落た雑貨屋や高級食パン店が並んでいるが、2019年の巣鴨は赤いパンツで埋め尽くされていた。赤は活力源の色。服の下に目の覚めるような原色の赤を忍ばせて内側から元気になろうと、巣鴨に集う人々の間で大流行していたのだ。

 とにかく、大村真美さんとの顔合わせにこの地を選んだのは、当時私が暮らしていたマンションから歩ける距離だったことがいちばんの理由だが、とある甘味処のかき氷が目当てでもあった。以前私が友人に連れられて行った店で、SNSに書き込んだところ真美さんから反応があったのだ。まだ肌寒い季節にかき氷である。その酔狂に、二人ともいたずらっぽい気分になっていたのだと思う。



 真美さんとはその前からネット上で何度かやりとりしていて、そもそも彼女のブログを読んだのが、知り合うきっかけだった。同じプラットフォームで同じ疾病について綴っていたのだが、彼女の書き口は、その壮絶さに反して穏やかで、時にユーモアさえ交えていて私の興味をそそった。どちらが先にレスポンスを送ったのかはもう忘れてしまったが、数回やり取りした後すぐに会おうという話になった。この軽快さも、この頃の私にとっては好ましいものだった。

 待ち合わせ場所に現れた彼女は、小柄で丸顔の、頬に幾分赤みの差したひとだった。若々しく見えるが、所作のひとつずつに経験が見える。あとになって気恥ずかしそうに「薬のせいですごく太ってしまったので、痩せたいんだ」と言っていた。

 美容やグルメ、ラグジュアリーな旅行に興味があると語る彼女は、こんなことになる前には、さぞ輝いていたのだろうと想像させられた。美意識が高い。それは今日イメージされるような、ずけずけと主張し、何かにつけて優劣を競うタイプ、ということではない。初対面から以降、何度かお目にかかっても、彼女はSNSと変わらず遠慮気味で、しかし会うたびに何か有益な情報を共有しようと心を砕いてくださる。あるときは目鼻を洗うように生理食塩水のアンプルを、またあるときは米粉のケーキを手に現れた。情に厚い人物だ。知り合うごとに私は、そう思わずにはおれなかった。随分あとになって、彼女自身、尽くすのが好きなのだというようなことを吐露してくれた。



 約束どおりの甘味処に入ってまず語ったのは、お互い、自己紹介がてらの病歴だ。
 私は化学物質過敏症を発症して一年半ほど経過したところだったが、実は真美さんは私にとって、初めて対面で会う同病者であった。
 それまでネット上でのやり取りや医師を介して、他の人びとの様子を伝え聞いてはいたものの、こうして生身で会ってみようという気にはならなかった。あるいは「なれなかった」のかもしれない。それはこの病が外出を拒むものだからにほかならない。

 私事を語れば、類稀なる過敏さを感得して、およそ半年の間はどうすることもできず、ただ苦しみの中に埋もれ、もがき、やがて諦めた。生きることを手放しかけ、すんでのところで思いとどまり、なんとか自己を取り戻したのが、この前年の春頃。初夏に体験談を猫のキャラクターに語らせ小冊子にしたところ、CS(化学物質過敏症)支援センターの後援を得て通販していただくに至った。他方、夏の終わりには誘われてイラスト関係の展示会に参加するなど、今考えてみると慢性疾患を抱えているとは思えない充実した活動をしていたのだが、それというのも周囲の献身的なサポートがあってのこと。また最初の一年で落ちるところまで落ち、地獄の釜の底で凍てつくほどの冷ややかさに触れ、もはや這い上がるより他に道がないと覚悟できたからである。

 他の病気を引き合いに出すのは憚られる。それがどのような疾病であっても病苦に変わりなく、苦しみは「はい、これが」と他者に見せられるものではない。けれども、今や大病の体験談は恥じることではなく、むしろ後人のためにと積極的に世に出され、驚きと知る喜びをもって迎えられている。加えて親族知人にそのような重い病人がいたとしても、タブー視されることもなくなって久しい。

 しかし化学物質過敏症については、どうしても当事者でなければ理解しようがなく、ある意味で摩訶不思議な、驚異的かつ幻想的でさえある体験を、別の病に思いを重ねることが、いかようにしてもできない。それがまたいっそう発症者を孤独の淵に追いやるのだった。

 大村真美さんもまた、そのような一人であったのかもしれない。

 孤独。

 それが二人を引き合わせたといってもいい。

 このときの彼女は私と違って患者会に所属していたのだが、そこへ行き当たるまでの四、五年は、見えない敵と揉み合うかのような苦しみに懊悩していたのだと言う。

「私は最初ね、お腹が痛くなったの」と、その後に続く経験の壮絶さからは想像もできないような澄んだ声で、彼女は話しだした。「その頃の私は、まぁクズだったんだけど、パチンコやってて、周りみんなタバコ吸ってるから私も吸ってて。で、電子タバコが流行ってきたところで、『かっこいいからアタシも吸おー』って思ったんだけど、それを吸うたびに、『ん? なんか口の中が苦い? っていうか痺れる?』って思ってて。でも気にしないで吸い続けてたんだ」

 彼女は「パチンコ」や「タバコ」のところでこちらの様子を伺った。そして目の前の人物がひとつも表情を変えることなく相槌を打つのに、少しずつ肩の力を緩めていった。事実、私は賭博にも喫煙にも、何の偏見も持っていなかった。

 逆にこの様子から、彼女はその趣味趣向のせいで、周囲から差別的な視線にさらされてきたのだろうと推測した。そしてそれを本人としても気にしている。「アタシの人生、何をしようとアタシの勝手」と心から思っていれば、こちらの様子をうかがうことなどない。相手の反応が気になるのは、端的に言えば嫌われたくないからだ。私はそれを社会性だと思いこそすれ、臆病だとは思わない。人間とは即ち社会である。

 彼女は続けた。

「口の中に、鉄の味が広がるような感覚があって、それからしばらくして……、ごめんね、食べてる最中に汚い話だけど」と断りを入れる。「お腹がくだって、止まらなくなったの。下から出る時は毎回くだる。そんな調子だから、最初は大腸の病気だと思ったんだ。それで総合病院で内視鏡検査をしたんだけど、異常なし。大腸ポリープとか、最悪ガンとか疑ったんだけど、何もなくて。でもお腹はずっとくだってる。胃の方が悪いのかなとか、内臓をあっちこっち調べたんだけど、どこにも異常がなくて、異常がないのに具合が悪いから、もう『精神的なものだろう』ってことになって、結局精神科に入院することになった。それでも全然治る気配がなくて。それで、ずっと入院し続けているわけにもいかないから、一度退院になったんだけど、家に戻ったら、次はご飯も食べられなくなっちゃってて。なんにも、本当に、お米とかも食べられなくて、食べても全部戻しちゃって、『食べ物のアレルギー?』ってなって、大きな病院のアレルギー科を受診したんだけど、そのときの先生が、たまたま独自に化学物質過敏症も検査してるって人で、それで『あなた、化学物質過敏症じゃないですか』って、言われるままに生活を変えたら……」

 治った、という言葉を期待している自分がいた。けれども、彼女の言葉は少し違っていた。

「少しは良くなったんだ」

 この病に「治った」は聞かない。

「それでも、原因がわかっただけでもすごく楽になった。だってそれまで、何をしても、どの病院に行っても、なんにもわからなくて、ただどんどん悪くなるんだもん。本当にひどかった。私の場合は、あんまり鼻が良くなくて、自分で自分の体を悪くするものを使ってた。合成洗剤、柔軟剤、化粧品も香水も好きだったし、タバコも吸ってた。それを全部遠ざけたら、お腹が痛いのも治ったし、口の中が痺れる感じも軽くなったんだけど……」

 それから真美さんは私に、発症してから化学物質過敏症という病名が確定するまで、どのくらい時間がかかったかを聞いてきた。私は素直に、診断確定までに三ヶ月だが、病名そのものに行き当たっていたのは、実は発症よりも前だったと告げた。私はタバコの副流煙で喉が締め付けられるような症状があり、当時でも「タバコ 副流煙 咳」などのキーワードで検索すると、インターネットの海をそれほど深く潜らずとも、その病名が確認できたのだ。今ならもっと簡単に見つけられるかもしれない。その分、適切な医者に巡り会うまでの時間が少なくて済む。

 私の回答に、彼女は初めて表情を固くして、細かく何度か頷いた。
「そう。それはよかった。それがよかったよ」
 心からの言葉だった。自分の身に起きたことを後悔しながらも、打ち解けかけているこの人物が、自分ほどの苦労をしなかったことに彼女は安堵している。そのように見えた。

「私はその時点で、もう四年経ってた」

 四年。

 針で刺したような痛みが走る。

 単純な比較をしてはいけないが、発症から三ヶ月で診断確定に辿り着いた私が、立ち直るのに半年から一年。では四年かかった彼女は?

「もともと精神疾患もあったんだ。強迫性障害」
 彼女はまた掬い上げるように、私の顔色をうかがった。
 その病名には聞き覚えがあった。その頃身近に二人、同じ病名でクリニックに通っている友人がいたのだ。

 真美さんは、SNS上で我々に心無い言葉が向けられている件について語り出した。

「化学物質過敏症は、精神疾患だっていう人もいるじゃない? 私たちが具合を悪くするのは目に見えない『ニオイ』だから。そんなもの存在しなくて、統合失調症とか強迫性障害だから『あれもクサイ、これもクサイ』って言うんだって。で、それに対して過敏症のみんなは『精神病じゃない! 本当にニオイは存在してる』って対抗してる。でもね、私は、精神的なことって、体と繋がってると思うんだよね。心と体は関係している。ずっと『どこかからニオイがしているかもしれない』って頭の中で考えてしまっていたら、精神的に追い詰められてもおかしくない。自分がそうなったからわかるけど、原因がわからないのにずっと何年も毎日お腹が痛くて、口の中が痺れてて、意味がわからなくて、つらくて、ひとりぼっちで、頭がおかしくなってもしょうがないって思うんだ。だから、私は精神疾患も同時に治療して落ち着いたから、精神病の診断してもらえて、よかったと思ってる。投薬治療のせいで体重は増えちゃったけど」

 そう言って笑う彼女は、しなやかである。



 化学物質過敏症は、気のせいなのか。ありもしないものを「クサイ」と言っているのか。注目を集めたくて騒いでいるだけ? 人と違って敏感な私ってすごいというアピール? 悲劇のヒロイン気取りか?

 いいや違う。化学物質過敏症は、れっきとした病名である。

 WHOによる死因及び疾病の統一基準で定められた国際疾病分類(ICDコード)では、化学物質過敏症は「精神」ではなく「中毒」の項目に分類されている。ないものをあると言って気に病んでいるのではない。ニオイ物質は目に見えないだけで、そこに存在している。ニオイを感じる嗅覚受容体は個人差が大きく、ニオイの強弱も快不快も人による。

 だいたい快不快に関わらず、脳内のどこかで神経が反応しているのだ。慢性疲労症候群や、世界的に有名なポップシンガーも患った線維筋痛症、多くの慢性疼痛。これらすべて、化学物質過敏症と同じ神経炎症を起こしているといわれる。脳内の、中枢神経で。
 記憶を司る海馬、自律神経や神経内分泌など多岐にわたる機能を司る視床、情動の処理や短期記憶を司る扁桃体などが、その部分にあたる。

 なぜなのか。



「アレルギー科で入院してるときは調子が良くなってきたんだけど、父親が見舞いに来たら具合が悪くなって。また同じように口の中が痺れてきたから、なんかおかしいと思って、私がこうなってる理由とか、原因とかを父親に話したら、『ああ、俺、柔軟剤使ってる』って言うから、『すぐに出てって』って」

 父親への一撃を口にするときでも、彼女には毅然としながらも奥ゆかしさがあった。父への遠慮かもしれない。もしくは、初対面の私への。そんな彼女の言葉も、徐々に熱を帯びはじめた。

「何に反応してるのか、本当に全然、今でもわかんないことがある。病院では合成洗剤とか柔軟剤とか言われて、確かにそれを遠ざけると具合良くなるんだけど、私はニオイがそんなにわかるほうじゃないから、何かに『当たる』と口の中が痺れてきて、どんどんお腹が痛くなったり調子が悪くなってくる。だけどニオイはわかんないんだ」

 そう。嗅覚には個人差がある。我々はニオイに「過敏」なのであって「敏感」とは限らない。この違いは、たとえば後ろから忍び寄られたとき、肩を叩かれる前に気配を察して振り返るのが「敏感」。気配には気づかず、少し肩を触られただけで「痛い!骨が折れた!」と感じるのが「過敏」だ。
 発症した私たちは、敏感とは限らない。過敏なのだ。

「だからどこから何が来てるのかわからないから、口の中が痺れはじめたら、とにかくそこから遠ざかるしかない。一時期は服も全部捨てなきゃいけなくなった。ひとつ捨てて、これで大丈夫だと思っても、次の服でまた痺れて、それを捨てて、次のも捨てて、結局全部。同じことが家具でも家電でも、生活用品でも、家の中のもの全部に起きて、家の中にもいられなくなって、あてもなく、一日中、ただ歩いてた。道をただ、ただ。そのときね、今も付き合ってる彼氏がいたんだけど、それこそ、もちろん彼にも反応するから、彼は私に近づくことができなくて、でも女一人で昼だろうが夜だろうがあてもなく歩いてるなんて危ないから、彼は数メートル後ろから私のことをずっと見守ってついてきてくれてた。近づくことも、喋ることもできないんだけど、ただ歩く私の後ろを、ずっと彼が、何も言わずについてきてくれてた。彼はパチプロで、社会的にいってみれば無職で、両親は彼のことよく思ってなかった。だけどそんなことになって、母がね、『彼でよかった』って言ってくれたんだ」

 早稲田通りを外れた閑静な住宅街を、一心不乱に歩く真美さんの姿が思い浮かんだ。頭の中いっぱいに詰まった「苦しい」に体を乗っ取られ、空虚な瞳に前方数メートルだけを映し、少し前傾気味に、つま先を擦るように歩く。しゃんとしてなどおられまい。

 どこへ行こうとしているのか、自身に問うても答えなどない。ただ歩くままに歩く。目標もなければ、歩くこと自体が目的でさえない。そうせねば、体が、頭が、彼女を許さない。そんな差し迫った行軍だ。この亡者の行進の、どこに人間性を見出せようか。

 十歩後ろを、声をかけることも、近づくことも、抱きしめて慰めることも、まして治してあげることもできない、どうすることもできない男が黙ってついて歩く。不審者と間違えられないだろうかなど邪推を差し挟む隙もない。愛だ。

 私は息を呑んで聞いていた。泥中に蓮を見たようだった。



 発症者は、うかつに外に出られない。家の中にもいられない。服も家具もすべて捨てねばならないこともある。多くが仕事にも学校にも通えない。人と交わることもできない。およそ人間を人間たらしめる現代的な、社会性のすべてを封じられ、なお呼吸すら取り上げられ、他者に理解も得られず、生きたまま地獄に落とされたのである。

 私は発症して常から、これは汚泥廃土に沈められ、その中を延々と這い回っているようだと感じていたのだが、真美さんの言葉を拾い上げていくうちに、私のような状況はまだ底の底ではない。この病には、もっと深く、恐ろしい地下世界が広がっているのだと知らしめられた。
 それなのに真美さんは、そして彼女の恋人は、ほんの小さな、ごくほのかな光を見出すために、昼となく夜となく街を彷徨い、歩くだけ歩き、疲れたらそこで座り込んでいっとき足を休ませ、そうして苦しみをやり過ごして生きながらえてきたのだ。

「自分がどこを歩いているのか、何をすれば楽になるのか、なんにもわからなかった。でも彼の気配だけはずっと斜め後ろに感じていて、私の頼りはたったそれだけだった。『彼がいる』ってだけで、なんとか正気を保ってた」

 これを美談にするまいと、私は己を律した。

 美談とは、苦役に身を置くがゆえに生まれるものではない。純粋無垢な魂を持つ者であれば、どのような暮らしからでも得られるものなのだ。
 これは化学物質過敏症を発症してこそ結ばれた絆などではない。もともと二人の間にあったものが顕在化しただけだ。そんな二人がこのような苦難にさらされるいわれが、どこにあったのだろうか。

 この日の私は何を食べたか記憶にない。だがこれだけは心に誓った。私は持てる限りの力をすべて、この病に捧げよう。たとえどれだけつらくとも、時間がかかろうとも、呼吸を奪われた苦しみには勝るものはないのだから。私は諦めない。

 この誓いだけは、私の胸の奥に、傷跡のように刻まれた。


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※この記事は事実に基づいていますが、登場人物は仮名を使用しています。

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