見出し画像

Wave 26 特集:タルコフスキー 読書感想文

映画監督のアンドレイ・タルコフスキー(1932-1986)自身と関係者の発言と論者たちによる論考などで構成された一冊である。

恥ずかしながら、自分はまだタルコフスキーの映画を全部は観れていない。

坂本龍一の『坂本図書』という本の中でタルコフスキーについて紹介されている箇所があり、彼の映画『鏡』を初めて観、他の映画も観返して、残念ながら『坂本図書』で紹介されていたタルコフスキーの著書『Sculpting in Time: Reflections on the Cinema』は読めなかったものの、たまたま家にあった今回の『Wave 26 特集:タルコフスキー』を読めた。

重要なのはタルコフスキーの講義録や講演録、対談等と、タルコフスキーの関係者レイラ・アレクサンデルの手記『アンドレイ・タルコフスキー隠れた手法』である。

レイラ・アレクサンデルの証言には思わず愕然となった。タルコフスキーの遺作となった『サクリファイス』のプロデューサーが日本人だったのだがレイラ女史曰く「全く釈然としない理由」によって突如降りて危うく映画が撮れなくなったという出来事があったという。レイラ女史の怒りはこうだ。

日本人はいずれ後悔するだろう、あんな人たちはほっとけばいいのよ、と言いながら……

日本人プロデューサーのなんという非礼!傷とわだかまりをよりによって日本人が残してしまった。情けない。

しかしタルコフスキー本人は病床の床で生死の境をさまよいながらも極東の詩や音楽を求め、日本に旅行することを夢見ていたと言う。(注:タルコフスキーは生前何度か来日している。彼の有名な作品『惑星ソラリス』に近未来の描写として首都高が出てきたり、黒澤明監督と会ったり等)

芸術を求める精神が彼を突き動かしていたのである。
彼は死の間際、ベッドから起き上がるのがやっとなぐらい衰弱していたのだが制作中の映画の最終案を見せるとみるみる生気を帯び的確に指示を出したという。

タルコフスキーは映画を芸術、詩と呼んだ。
これは驚くべき彼の功績である。
タルコフスキーほど意識的に映画を芸術もしくは詩に昇華できた人はいなかった。
タルコフスキー以前も以後も映画を芸術、詩として扱っている作家はたくさんいたし、今もいる。だが彼は唯一無二の文字通りアーティストであった。

(前略)いま、いわゆるタルコフスキーの後継者たちは掃いて捨てるほどいる。だが人格がないのだ!

グリゴーライ・チュフライ監督の言葉

そう。後継者はいるのだが彼以上の者は現れていない。前述のレイラ・アレクサンデルの手記によれば、

タルコフスキーの作品と他の監督の作品とはどういうところが違うのか、彼が監督として他より優れているのはどういう点なのか、と考える時、それは彼が稀に見るほど率直であり、また一番大切にしまっている夢や、空想、そして自分の世界を他人と分け合おうとする気持を持っているところだろう。彼は自分の芸術において誠実で正直である。彼は子供の純粋さと信じやすさで持って「賢者」の問いに答えようとする。そして、人間に対しては答えが与えられないような問いを恐れることなく設定しようとする。しかし、それらの問いは設定される必要があるのだ。彼は自分の持つ率直さと勇気でもって緊張を和らげてしまう。多くの監督は自分自身から身を隠すための手段として映画を利用する。よって彼らには観客の心や魂を開く鍵が与えられないのだ。

タルコフスキーはキリスト教信者である。この本の中にも『黙示録』『伝道の書』についての記述が多く出てきて、正直キリスト教に縁のない自分にとっては難しい部分も多かった。しかしタルコフスキーだったら「理解できなくてもいい、感じてほしい」と言ってくれるはずだと思っている。
最後にそんなタルコフスキー自身の詩を引用する。

私はこれを夢にみたし、今も夢にみる
これから先もいつか夢にみるだろう
すべてはくり返され、すべては現実となる
私が夢にみたすべてを、あなたも夢にみるだろう

この記事が参加している募集

読書感想文

わたしの本棚

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?