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右か左か

義務がなければ権利もない

 右か左か・・・
 人生には二者択一の機会が多い。
 というか、大なり小なり常に二者択一のなかで生きていると言っても過言ではないだろう。

 まず生まれた時点で、男か女かだ。
 たしかに生まれてから物心つくまでは、選択の余地はないかもしれない。 
 それでも子に代わって親が選択する。
 その後は、入学、就職、結婚など人生の節目節目は選択の連続だ。
    
 そこまで大仰に考えなくても、日々の暮らしのなかでも
   今日の夕食は肉か魚か
   どっちを買うか
   仕事の進み具合は
   どっちを優先すべきか
など、数え上げたらきりがないほどの「選択」がある。

 憲法といえば
   護憲か改憲か
という選択のイメージが強い昨今であるが
   権利と義務
というものもある。
 メディアはこのうち権利が侵害されると、それこそ鬼の首をとったように大騒ぎして、政権や企業、既得権益などを叩くが義務についてはあまり取り上げない。
 しかしそもそも権利と義務は表裏一体だ。
 たとえば、憲法第27条第1項は
   すべて国民は、勤労の権利
   を有し、義務を負う
と書いてある。
 つまり、そのどちらかだけを取って他を切り捨てるということはできないものだ。
 国民が働くなったら、国がなりたたないからだ。
 すなわち、権利の前に義務がある。

 国防も同じだ。
 自国を防衛することは、どこの国にも与えられた国際法上の「権利」であるが、そもそも国がなければ国防もない。
 子供でも分かる理屈だ。
 そして多くの国では、国家を存続させるために、国民に
   兵役の「義務」
を課している。
 韓国では、イケメンタレントでさえ、その義務を全うするためタレントを一時やめて兵役に付くという。
 日本はそれを自らの意思で
   国を守る
という「義務」を全うするために自衛隊に入隊する若者で支えている。
    彼らはまずその義務を主張する。
 決して権利を振り回さない。
 彼らの提供する安全な国内で、権利ばかり主張している人たちも大勢いるのを見るにつけ
   なんて日本は平和な国だろう
と思ってしまう。
 国を守る義務があるからこそ、そのなかで権利も発生するのに・・・

 一方、未だにかつて占領国が押し付けた憲法を、その後80年あまりも大事にしている護憲派という人たちは、その条文には全て「国民」という言葉が使われているにもかかわらず、これを嫌ってなぜか「市民」と言いたがる。
 そして国防にかかることなど国論を二分するような大きな問題になれば、なぜか「市民グループ」という、名前を聞いただけではどこかの市町村の代表団のような団体がプラカードを持って「平和」を連呼して跳梁跋扈する。
 メディアも「右翼団体」といった批判的論調で報道することはあっても決して「左翼団体」という表現は使わない。
 国民か市民か、右翼か左翼か。
 ここでも選択の余地がある。
 
 もちろん日本は憲法で、思想良心の自由が保障されている。
 だから右寄りだろうと左寄りだろうと、それは本人の自由である。
 ただ「市民」という言葉を使うのであれば、古代ギリシアの「市民」のことも頭の隅に置いて欲しい。
 そこでは「市民」とは都市国家ポリスの
   戦士の共同体
のことを指すものだった。
 つまり市民は、ポリスを共同防衛する「義務」を負っていた。
 外敵と戦う義務を負っていた。
 その代わりに政治に参加する「権利」を持っていた。
 ここでも、義務あってこその権利だった。

 この義務を負う市民がいなければ、古代の都市国家は成立しなかった。
 つまり権利というものは、国が成立して初めて行使できるものと言えるのではないだろうか。

 平和と戦争
 これも対極する概念だ。
 ではこの平和はどうやってもたらされているのか。
 ポリスの例でも明らかなとおり、備えることだ。
 「平和」を連呼しても、それは念仏のようなものだ。
 戦争を回避するためには、戦争に備えることが不可欠なのが現実だ。
 誰でも夜寝る時は、家の玄関に鍵をかける。
 これも、子供でも分かる理屈だ。
 
 しかし税金に選択肢がない。
    日本に住む以上、個人であれ法人であれ、問答無用で徴収される。
 このため税金というと、それだけで
   国民を搾取する
というイメージ論調でネガティブに捉える人も多いと思う。
 誰しも上前をはねられるようなイメージの納税は嫌なものだ。
 しかし、これは世界の常識だ。
 税金のない国などない。
 (ごく一部の例外はあるが)
 税金はできるだけ安いにこしたことはい。
 しかしこれも国民の義務だ。
 憲法第30条には
   国民は法律の定めるところ
   により納税の義務を負う
と定めている。
 納税の義務を果たすからこそ国家が成立し、そこで初めて種々の権利を行使しえる。
 納税という義務がなかったら権利すらない。
 私は既に第一線からリタイアしているので、勤労の権利は放棄したが、納税の義務は果たしている。
    悲しいかな、年をとればとるほど権利は減っても義務は減らない。
    しかし若い人に胸をはって言えることがひとつだけある。
            少なくとも君たちより
            税金はたくさん納めてる
と・・・ 

 ちなみに国民の三大義務とは
   納税の義務
   教育の義務
   勤労の義務
を指す。
 さすがに納税を権利と主張する人はいないだろうが、教育も勤労の権利義務同様に、憲法に権利と義務を併記している。
(憲法26条)
①すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて等しく教育を受ける権利を有する。
②すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。

 小学校に入ったら、必ず警察官等が出向いて交通安全教室を開いて、まず横断歩道の渡り方を教える。
 その時必ず
   横断歩道を渡る時は
   必ず右を見て、左を見て
   そしてもう一度右を見てから
   渡りましょう
と教える。
 やはり右を見ることが大切なのだろう。
 義務教育は大切だ。

 また、鯉のぼりも向かい風でなければ力強く泳いでくれない。
 追い風では、垂れさがったままだ。
 人生も向かい風に立ち向かい、最後は
   右を見て渡りなさい
ということか。
 家庭でも教育は大切だ。

 小さい時にこれらのことを体験的、感覚的に培っていくことがのちのち社会に出て役にたつ。
 そうしないと、権利ばかり主張する根無し草のような「私民」ばかりになってしまう。

 そして誰しも最後は死を迎える。
 生と死
 これだけは人間に選択の余地がない。
 神の領域だ。

 せめてそこに至るまでは
   おれが、おれが・・・
と「権利」ばかりを主張するのではなく、その前提となる「義務」も果たしながら
   おかげさまで
と現状に感謝する生き方を貫きたい。

このバランスこそ大切なのでは!



 


   
   

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