目醒めー記憶喪失、歩行不能、嚥下障害を経て/SLE(全身性エリテマトーデス)という難病とともに生きる(21)

<2018年1月>

 TVを自分でつけて見たい番組を見たり、子供達をあやしたりと正常なやり取りをし、何より自分の銀行口座の暗証番号を思い出せるぐらいに私の意識は回復した。すなわち、それはもうX大にいる必要が無くなったという事で、私は1月半ば、元の掛かりつけ病院に転院した。

 車椅子に乗せられて、本当に久しぶりに外に出た私は、義父の運転する納車して4カ月しか経っていない私の愛車を見た時、一瞬こんな車に乗っていたっけと戸惑った。私は、ほんのひと月前まで、この車のディテールも何もない漠然としたイメージを思い描き、早く車を取りに行かなければ、早く家族を拾って旅行に行かなければ、病室に据え付けられた棚の向こうを想像しながら、あの向こうにきっと車がある、あそこまで行ければ、そんな風に病床でもがき苦しんでいた事を思い出した。
 降り注ぐ暖かな陽射しが体調へ影響を与えないか、少し気にしながら車に乗り込むと、義父母と母と私と妻との5人で、2カ月世話になり何とかこの世に生を繋いでもらったX大を後にして、社会復帰に必要なリハビリを続ける為に掛かりつけ病院に向かった。

 この時の転院後の私の様子を、妻は、意識は回復したものの、逆に母に何もかも世話をしてもらっている光景に、その後の生活が成り立つのか不安に感じていると日記に綴っていた。それもその筈で、X大でのリハビリは、いわゆる歩行や嚥下などの理学療法だけでなく、日常生活に必要な動作を促す作業療法も含まれていた。作業療法には、レクリエーション的なものや集中力を養うものなどが含まれ、要するにシンプルな動作以上の目的意識を伴った作業という事だ。

 X大にいた時点で、私に与えられていた作業は、「ここは〇〇大病院、X病棟、△階です」と言ったフレーズを復唱して記憶する事であったり、時計の見方、カレンダーの見方、今日が何月何日何曜日かを、問われて答える様なものだったが、私は当初、それらの言葉をただ復唱する事しか出来なかった。その発せられる言葉の意味の本質、私が問いかけられている事さえも理解していなかったのだ。もちろん、先に書いたような目覚ましい回復をした頃には、本も読めるようになっていたし、カレンダーの転院予定日に○印をするなどの意図を持った行為が行えていた。

 ところが私は、一向に字を書くことが出来なかった。

 自分の名前はもちろん、住所などを頭に思い浮かべながら、書くという事が出来なかった。書き順が全く分からないのだ。また、計算も出来なくなっていて、頻繁にやって来る作業療法士は、私に「10-6=」の質問や、「あ、い、う、え、お」や「1、2、3、4、5」と紙に書かれた文字を順番になぞる等の、極めてレベルの高い無理難題をつきつけてくるのだった。

リハビリ1-crop

 本も読める、ニュースも理解できる、パソコンの使い方も思い出しつつあった私は、最早そんなの頭で考える必要ないでしょう、仕事に影響ないと言い張り、この文字や計算の課題から逃げ、難しいタスクを課される事を嫌っていた。転院する際に、作業療法士は私に計算問題を続ける様に勧めてくれたが、私は嫌だ、つまらないからやらないとバッサリと斬った。

 転院後、私は検査の合間のTVや本を愉しむかたわら、毎週2日はリハビリに勤しんだ。理学療法による階段上り下り、体幹トレーニングのごく簡単なものを行いながら、作業療法では、赤ちゃん用のブロックパズルから、幾つかの色が配置された図形を見ながら、同じ様にパズルを並べる作業など、色々な動作を繰り返した。相変わらず二桁の引き算などもやったが、指を使いながら、正に自分の息子がやり始めた様な事を、一生懸命取り組んでいたのだ。サッカーが好きな私の為に、フワフワのボールを蹴らせてくれた事もあった。

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 これらの作業は、暇を持て余していた私にとって、ある程度の楽しみを与えてくれたが、根本的に問題があった。

私は、何の為にそんな事をやらされているかが、分からなかったのだ。

 この状況で、この様な作業をやる意味を理解していないのだから、危機感や気恥ずかしさ、情けなさ、そういった感情も皆無だったのだ。

 即ちそれこそが妻の不安のタネであり、後に私自身が知る事になる私の後遺症とされるものだった。

〜次章〜目に見えないギャップ

ありがとうございます!この様な情報を真に必要とされている方に届けて頂ければ幸いです。