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人生甘くないよ!たけし日本語学校奮闘記 第5話 「約束」

2003年9月1日、西アフリカベナン共和国で「たけし日本語学校」を開校しました。開校から今日まで、いろいろな事がありました。育った環境も違えば、年の差も15歳離れているベナン人と日本人の2人が、「たけし日本語学校」という1つの夢に向かって進む珍道中を数回にわけて書き進めたいと思います。※この話はすべてノンフィクションです。

前回

ベナンに日本語学校を建設するお金を準備するため、助成金探しで飛び回る日々。外務省にいって、助成金の希望はあっけなく砕かれたものの、なんとか教室づくりまでこぎつける。そんなときに僕が働いていた日本語学校から長野県への転勤命令がくだる・・・これから二人はどうなるのか?

日本語学校を0からつくる

ベナンで日本語学校の工事が進む中で、僕は学校運営をどう進めていくかを考えていました。
・1,000人以上の入学希望者の中から誰を入学させるか。
・クラス編成をどうするのか。
・授業料は無料なのに、どうやって日本語学校の収益を確保するのか。
・教材はどうするのか。
・カリキュラム(育成方針)はどうするのか。
など、検討することは盛りだくさんでした。

それ以外にも1つ大きな課題がありました。それはもし僕がベナンに行ったとしたら、日本側での仕事をどうするのか、というのが課題です。例えば留学生を受け入れてくれる日本の大学を誰がどのように開拓するのか。ベナンに日本大使館をつくるよう、外務省に誰がどのようにはたらきかけるのかです。

留学生の受け入れについては、以前に大学や各種団体をまわった際、受入れの壁の高さを体験していました。「これはいつになったら留学生を日本に送れるのだろうか・・・・」と見通しがみえない不安がありました。

それともう1つ僕には心配事がありました。それはゾマホンさんと出会って約1年間、ベナンの活動はすべて自腹だったので、給与だけでは間に合わず、【〇I】(仮名)という何とも便利なところから、1ヵ月あたり2万円程度お金を借りながら、やりくりしていました。そもそもそれを完済しなくてはいけませんでした。※2004年にはすべて完済しています。

いろいろな事を考え、一つ一つ準備を進めている最中に、長野県への転勤の話でした。借金も返さなくてはいけないので、僕は簡単に辞めるわけにもいきませんでした。

「まずいな。ゾマホン講演会を強引に学校主催で開催したから、上の人たちに目を付けられたのかなあ。とはいえ今から後悔してもしかたない。長野か~ゾマホンさんにどう説明しようか・・・・」

とりあえず僕にとっては大きなピンチでした。

「まずはゾマホンさんに報告しなくては。」

と、いうことで僕はいつものように仕事帰りに四ツ谷駅でゾマホンさんと合流し、長野県への転勤を伝えました。

「ゾマホンさん、僕、来月から長野県に転勤することになりました。」

「えっ?山道さん、どういうことですか?困っちゃったな~」

転勤前の出来事

実はこの転勤話がでる以前に、ゾマホンさんと、こんなやりとりがありました。

「山道さん、ベナンで日本語学校を開校しても、山道さんは先生をやらないでください。」

・・・・

どこでこの話をされたのか覚えていません。歩きながらなのか、電車のなかだったのか、記憶にありません。ただこの話を言われたことは記憶にあります。

「えっ?僕がベナンに行ったらいけないんですか?」

ゾマホンさんは真面目な顔で、「私は、人生経験が豊富な人にベナンにいってもらいたいです。まだあなたは23歳だから、先生をやるには若すぎます。」

なんてひどい。日本にベナン大使館をつくるときも、日本語学校の教室をつくるときも、頑張ってきたのは、自分がいつかベナンで日本語教師として授業をしたいと思っていたからなのに・・・・

「ゾマホンさん、年齢が若すぎるってどういうことですか?確かに僕は人生経験があまりありません。お金もありません。ただここまでやっておいて、なんで他の人にゆずらなくてはいけないんですか?」

「すみません、山道さん。実は山道さんには私のそばにいてもらいたいですよ。日本語学校ができても、日本の大学に留学できる道はまだ作られていません。ベナンに日本大使館もつくられていません。私はまだまだやらなければならないことがたくさんあるですよ。それを一緒にやってもらえませんか。」

僕にうつったゾマホンさん

当時、僕はゾマホンさんと活動をはじめて1年くらいでした。しかしその短い時間の中でも、ゾマホンさんが孤独な人に感じるときが時々ありました。ゾマホンさんが週刊誌に無いことで叩かれたときもあり、いつも何かに警戒している感じでした。それにゾマホンさんはベナンでも貧しい階層の生まれで、養子として親戚の家にあずけられながらも、自分の力で中国への留学を勝ち取り、その後の日本にも自費で留学した人でした。ストイックという言葉が軽く感じるくらいストイックで、自分に厳しい人でした。ただそれを人に求めることもありました。そのため、時々周囲の人たちとぶつかってしまうこともありました。言葉を選ばずにいうと、僕からみるとゾマホンさんは自分以外の人を簡単に信用しない感じがしました。

しかしその強烈すぎる個性と信念と行動があることで、日本にベナン大使館をつくることができたのだと思います。いくらゾマホンさんが日本のTVに出演して有名になったからといっても、上智大学に通っている一人の大学院生にすぎません。誰でもできることではないと思います。評論する事や、批判する事、コンサルする事ではなく、自分で行動する人です。

当時23歳の僕にとってのゾマホンさんに対しては、そういう印象をもっていたので、ゾマホンさんから「一緒に日本で活動してほしい。」と言われたときに、僕は゛日本人として彼の日本での活動を支えよう。ゾマホンさんはベナン人としてベナンと日本のために動いている。そうなると日本人として行動する人がいないと不釣り合いになる。”と思ったのです。これはいまでも変わらない僕の心境です。

「わかりました。ゾマホンさん。僕はいますぐにベナンに行くのはあきらめます。日本語教師は誰か行きたいと思う人に行ってもらいます。」

「ありがとうございます。」

゛ベナンの日本語教師第1号にはなれないけども、僕はいつでもベナンにいけるじゃないか。それよりも、僕以外で行きたいと思っている人にチャンスを提供するのもいいんじゃないか。”僕はそういう考えに切り替えました。

これが僕とゾマホンさんとの約束になりました。
そしてこの約束は2021年までずっと続いています。

いよいよ長野へ

そんな約束をした直後、長野県に転勤と言われたので、ゾマホンさんも一瞬固まりました。

「しょうがないです。いま仕事を辞めるわけにはいきません。ゾマホンさん、日本語教師の派遣はなんとかします。長野に行っても高速バスで会いにきます。約束します。」

「大丈夫ですか、山道さん。はあ~やっぱり人生は甘くないですね。でもやるしかないね。」

「根拠はないけど、きっとうまくいきますよ。」

僕は東京を後にし、それから約1年を長野県で過ごすことになりました。
そして休みの日は東京に戻るといった日々を過ごしました。

しかし、長野県に転勤したことで、日本語教師として沢山の学びがありましたが、重要な出会いもありました。

その出会いの1つが、石田先生でした。石田先生は2004年にベナンのたけし日本語学校に1年間教師として赴任し、帰国後は僕と活動を共にしながら2012年から2016年までゾマホンさんが駐日ベナン大使をしているときの大使館職員をつとめました。そして2016年から現在までベナンのたけし日本語学校の先生として赴任中です。

「はじめまして、石田と申します。」
出会ったときは石田先生はは僕が赴任した学校で、日本語教師になるための勉強をしている途中でした。(つづく)

体験をとおしての気づき

・誰かのために生きる、という考えも結局は、自分のために生きることになるんじゃないか。
・好きなことの中に不安な要素がでてきても、悩みにはならない。
・自分があきらめないと、あきらめたことにはならない。(長野に転勤した際の心境)
・他人から「ゾマホンさんのYESマン」と言われようとも残念に思わない。「YESマン」の本当の価値は、ここ一番の時に「NO」といえるチャンスがある。

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