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春に想う

今年の桜は昨年より十三日も遅れて開花宣言がなされた。
東京の開花宣言は靖国神社の桜の木を気象庁職員が目視で確認し、
「よーし咲いた!咲いた!」
とワーイ!したら開花宣言が行われるというある種の行事になっている訳だけれど、今時こんなアナログな開花確認はなんだか間抜けというかコミカルだし、ここは敢えてデジタルにしない方が良いのかもなぁなんて思いながらテレビを観ていた。

昨年の桜の季節は急変した父の容態が一応は持ちこたえた時期でもあったものの、何かと心配が絶えなかった。
年明け間もなく容態を崩した際、夜中に近所の山手に建つ神社へ一人でお参りに行き、あまりの暗さに
「お化けなんか怖くないモン!」
と何度も自分に言い聞かせながら、ガクブルしながら神様に手を合わせた中年男がここにいる。

どうか、父にも今年の桜が綺麗でありますように。

そんなことを願い、お化けへの恐怖心に勝ったおかげなのか、父は無事に退院して母の運転する車で近所に桜を見に行った話も聞くことが出来た。

五月には鼻にチューブを入れつつも一緒に飯を食ったり酒を呑んだりしていたのだが、埼玉の夏の暑さに身体が参ってしまったのだろうか、八月に入って間もなく容態が急変した。

そして二週間ほど踏ん張り、本人が元気な頃から希望していた形で自宅で息を引き取った。

父の目には去年の桜がどんな風に映っていたのだろう。
特に花に興味がある訳でもなく、ましてや詳しい訳でもないだろうとばかり思っていたが、四十九日の際に親族から実は高山植物が好きで若い頃はしょっちゅう山に登っていたという話を聞いて驚いた。

確かに生前二十代の頃の写真の中には山の写真が幾つかあったのだが、その恰好というのは登山とは掛け離れたものであった。

まず、今から数十年も昔の大工さんというのはヤクザやチンピラなどとの結びつきが多く、距離が近しい職業であったことが前提になる。
土地によっては「そんなことない!」と言われる方も多いとは思うが、東北から上京したての父の定住地は北千住であり、土地柄的にそういう付き合いは多かったようだ。

大工仲間達とロープウェイ乗り場で撮った一枚の集合写真があるのだが、十人ほどの男達の大半が開襟シャツにパッドの入ったスーツ、そしてサングラスという出で立ちで、当時の父もバリバリのパンチパーマーであった。バッグは当然のようにセカンドバッグだった。

一昔前の野球選手の私服のようなセンスだが、当時の大工さんの私服というのはアレがスタンダードだったのだろう。
どう見ても暴力団にしか見えないその集団が映ったアルバムを捲ると、全く同じ構成で今度は山の頂上での集合写真が出て来る。

それはまるで二コマ漫画のようで、心の中で思わず「登ったんかい!」とツッコまずには要られなかったのであるが、そんな暴力団みたいな恰好をしながら足元の花は踏まないように、とか、この花は標高何メートル以上じゃないと咲かないんだ、とか色々と周りに伝え聞かせていたらしい。

僕自身が残念ながら花の名前を全く覚えられない人間なうえ、極度の高所恐怖症で山にも登らないので高山植物に特に興味がある訳ではないが、生きていたらなんであんな恰好で集団登山していたのかを訊ねてみたくなった。

性格は酒を呑まない限りは寡黙で我儘で、人の冗談にクスリともせず東北訛りの抜けない無骨な人であったけれど、今思い返すとNHKの山の自然を放映する番組なんかは物凄く真剣に観ていたっけ。

父はもういないけれど、これから先も生きていたら父の知らないことをまた知る機会も増えるかもしれない。
そう思うと、やはり僕は肉体の死がその人の命が終わることと必ずしも同義ではないと思えて仕方がない。

桜はだいぶゆっくりだけど、今年も咲いてくれた。
昨年は父にその姿を見せようと一生懸命に早く咲いてくれたのかと思ったりすると、花に対しての慈しみの気持ちが少しは湧いて来たりする。

誰かの為に咲いている訳ではない桜に、そんな想像を何度か重ね浮かべる。
誰が何を桜への想いを幾つ重ねても、僕は良いと思う。
もう届かないはずの誰かに託した想いを届けるように、花弁は優しいだけの風に散って行くのだから。

なんてことをちょっと思ったりした春の日なのでした。
締めの文は小説だったら口説くて胸やけしちゃうね、なんて捻くれた自分もまだここにはいます。

きっと、永遠に人の子なのでしょう。

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