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【小説】 芥地獄の観音様 【4万字】


 歯痒い季節なんてのはよ、とっくの昔に過ぎ去っているんだ。
 俺の人生はこの歯と同じように痒くなるような神経はとっくに死んでいて、歯槽膿漏の腐臭が自分でも堪らなくなる程に、腐り切っているに違いねぇ。
 それでも、俺ぁ死んじゃいねぇ。
 外に人の気配を感じる。気合を入れて、ゴミ溜めの上で酒でフラつく半身を起こす。
 その拍子にテーブルの角っちょに置いていた飲み掛けのペットボトルが転がって、ゴミの隙間からかろうじて見えている敷布団の上に零れた。既に染みが広がった上に新しい染みが出来上がって、そこで死んでいた羽虫達がふわりと浮き上がる。

「大西さーん。いるんでしょ? お話しがあるんですよー」

 畜生、あいつら朝っぱらからやって来やがった。
 ゴミの隅に身を隠そうと動くと、ゴキブリが這い出て来て段ボールの上に置いていた観音像を伝って行きやがった。

「馬鹿畜生、この野郎!」

 観音様は俺の救世主だ。ゴキブリ如きが無遠慮に土足で触れて良いものじゃあねぇんだ!
 手でゴキブリを追っ払って、俺はゴミの隅に身を隠す。
 家賃滞納四ヶ月目に入ると、家賃保証会社の連中は連日ここへやって来るようになった。
 振れるだけの袖は持ち合わせちゃいないし、払う気もないが「生存権」を行使して俺はここに居座っている。
 観音様が守って下さっているんだから、俺は大丈夫に違いない。今にきっと、故郷のジョウちゃんから現金書留が届くはずだ。
 ドアを叩く音はすぐに蹴る音に変わって、俺はパンパンのゴミ袋を被ってしっかり身を隠し、息を殺す。被った袋の底が破けて茶色い汁が顔に被ると、肉を焦がした匂いと生魚が腐ったような匂いがプンと香った。

「大西ぃ、いい加減にしろよ。テメェがやってることはなぁ、不法占拠って言うんだよ! 他人様のアパートに勝手に居座って良いと思ってんのかよ! 出て来いよこのクズ野郎!」

 バーカ。バーカバーカ。低能、アホ、クズ、チンピラ、死んでしまえ。
 怒号に負けないように、そうやって心の中で悪態を吐きながら奴らをやり過ごす。
 ガスや電気はとっくに止まっているから、メーターを見て俺が部屋に居るかどうか確認することは奴らには不可能だ。水だって、こちとら先月に止められてんだ。
 水なんかに金を払うのは馬鹿のすることだ。雨があんなにジャンジャカ降って、川や湖にあれだけ水があるってのに、なんで無料にしないのか俺にはさっぱり意味が分からない。
 ドアを蹴られたり怒鳴られたり、部屋の外から中を覗かれたりしたけれど、十五分ほどやり過ごすと奴らは諦めて帰って行った。奴らはサラリーマンだからまたどうせ明日来るんだろうが、ご苦労なこった。
 逆に言えば営業時間外の夜間は来ないから、俺はその間に公園に水を汲みに行ったり、夜勤で単発の派遣アルバイトに出ることだってある。俺は社会貢献者でもって、煙草も吸うから立派な高額納税者なんだ。消費税だって納めてる。
 それなのに、役所の人間どもはボンクラばかりでちっとも役に立ちゃあしなかった。

 俺は仕事を失いたくて失ったんじゃない。五十半ばのこの身ひとつで、やっとありつけた印刷所の仕事に必死にしがみついていたんだ。
 あのクソ所長が臭ぇケツの穴くらいしか度量がないもんだから、たかが作業中に酒をかっ食らっていたくらいでクビが飛んじまった。
 ガキの頃から、俺は親に大事にされていなかった。どうせ実家の農家を継ぐんだからと、高校にさえ行かせてもらえなかった。
 今はこんなんでも、俺には夢があった。夢ってのはもちろん、野郎だったら誰もが憧れるプロ野球選手だ。

 キャッチャー、四番、大西くん。甲子園で呼ばれることを夢見て、部屋の中でいつも弟と一緒にウグイス嬢の口真似をしていたっけ。
 うちは貧乏農家だったからよ、中学で野球部に入部してもスパイクもグローブも、ボールだって買ってもらえなかったんだ。でも、周りのダチ公や先輩に助けられたんだ。
 お古がすぐに俺んトコに回って来たから恰好だけは困らなかったけど、ある日うちのおふくろに叱られた。

「あんたの所為でうちが乞食だって噂になったらどうするんだい。グローブだぁボールだぁなんて一円にもなりっこないんだからね、捨てて来な!」

 捨てて来なかったらメシは抜きだなんて脅されてよ、本当に河原に放りに行ったんだ。
 そしたら次の日、俺は学校中の連中から冷たい目をされて先輩に呼び出されてな、ボコボコにされたんだよ。
 そんな中、幼馴染のジョウちゃんだけは俺を助けてくれた。ありがてぇ野郎だよ。
 コイツは馬鹿だけど人を裏切るような奴じゃないんですって、頭下げてくれてよ。それどころか、俺と一緒に殴られたり蹴られたりしても、俺のことを庇ってくれたんだ。
 泣きながら殴られるジョウちゃんを見ていたら俺ぁカッと来ちまって、図工で使う予定で鞄の中に入れていた彫刻刀でジョウちゃんを殴っていた三年生の目をブスリとやってやったんだ。
 もう、そりゃあ大変な悲鳴が上がったよ。周りの奴もパニックを起こしたけれど、俺ぁ無我夢中になって奴らの太腿やら背中やら、めっためたに刺しまくったよ。
 正直ざまぁみろと思ったしよ、心底気持ち良かったぜ。 
 刺せるもんなら中学時代に戻ってまた刺してやりてぇよ。次はよ、心臓を一突きしてやるんだ。何十年前のことだってよ、俺はきっちり今でも恨んでいるんだ。俺をナメたらな、いつだってブスリとやってやる。

 俺の親は「被害者」に莫大な金を払ったって、死ぬまで恨み節のように聞かされ続けたよ。町の連中どころか弟の野郎まで俺を除け者にして、故郷に俺の居場所はなくなった。
「とにかく何もするんじゃない」なんて言われてよ、毎日家の中で息を殺しながら生活していたな。今と変わらねぇけど、あの頃よりは今の方が夜中になれば外に出れるしよ、自由気ままでいいや。
 ジョウちゃんは引きこもり生活を送る俺の所に週に一度は来てくれていた。
 学校でこんなことがあったよ、とか俺にとっちゃ何の意味もないプリントだの、沢山持って来てくれたっけな。
 本当にありがてぇ奴だったのに、その時の俺はジョウちゃんに対してどうしたって素直になれなかった。
 それどころかよ、ジョウの野郎が出しゃばった真似してくれた所為でコトが大きくなったんじゃねぇのか? って思い始めていたんだ。
 だって頭を下げてボコボコにされるのが俺っきりだったらよ、あんなつまんねぇ奴らをブスリとやる事態にはならなかったんじゃねぇのか? って思った訳よ。
 そしたら段々ムカついて来ちまって、俺は連日うちにやって来るジョウに言ってやったんだ。

「なぁジョウちゃん。もう、うちに来るのはよしてくれよ」
「なんでだよ。これでも、ヨウちゃんのことが心配で来てるんだぜ?」
「心配なんか要らないね。だってよ、おめぇが余計な頭下げてくれなきゃ、こっちは今頃こんな目には遭ってねぇんだから」
「余計な頭だって? ヨウちゃん、それはどういう意味だよ?」
「どうもこうもねぇよ。おまえの余計な節介の所為で俺は学校にも、街にも、居場所が無くなっちまったって言ってるんだよ」
「なんだと?」
「俺があいつらの親や警察にとっぷりやり込められている間に自分だけはのうのうと学校に通ってよ、あの先輩方からもずいぶん可愛がられてるんだろ? なぁにが「もうジョウちゃんのことを許してる」だ。へっ。大体、吹っ掛けて来たのはあっちじゃねぇのかい? なのに許すも許さねぇもないぜ。それなのにおまえはみんなからのお涙頂戴の為に頭下げてよ、正義漢ぶってずいぶん気持ち良かったんだろ? どうせ家に帰ってから友達を庇ったが為に腫れた顔を見て、自分の美談に酔って、おちんちんシゴいたんだろ? 僕ってなんて友達思いなんだ! うぅ~、気持ちいいなぁ、ドピュッドピュッ、あ~、またパンツの中に出してしまった~。ママ~、またパンツカピカピになっちゃったぁ~、洗濯してよ~ってな」
「ヨウちゃん、君は、なんて……なんて下衆な奴なんだ! 最低だぞ!」
「絶交だな。おう、国交断絶といこうじゃねぇか。こっちゃあ最低で上等だよ」
「もう、ここには二度と来ない! 君の顔を見たくもなくなったよ! 最低だ、君は!」
「あぁ? 最低だと? まったく、どっちが最低なんだかね。俺の株が下がって、誰かさんの株は大上がりしたみてぇだけどよ」
「君は……君はもう、死にたまえ!」
「ハッ。死んでもいいけどよ、線香ならいらねぇぜ。これ以上煙たいのはご免だからよ」

 ジョウちゃんは顔を真っ赤にさせてよ、涙目になってうちを出て行ったよ。それきり俺達は仲違いになったまま、四十年以上もの月日が経っちまった。
 ジョウちゃんが来なくなってから中学卒業までの間、入れ替わるようにして学級委員長の待山頼子って女がうちに来るようになったっけ。最初の頃は義務感で来てたんだろうけど、そのうち少しずつ話すようになったんだ。

「頭がイイ人って悩んだりしないと思っていたけれど、頼子さんみたいな人でもクラスの人間関係に頭を抱えたりするんだなぁ」
「そうなのよ。だって本当はみんなで仲良くしなければならないのに、クラス会議をすると自分の言い分ばかり通そうとする人がいるでしょ? そうなると、私はどうやったらみんな平等になるのかって、いっつも考え込んでしまうの」
「そうなんだね。そしたら頼子さん、そういう風に自分の意見ばかりを通そうとする奴に、一度全部を任せて、やらせてみたらいいんだよ」
「だって……大事な文化祭の催しものよ? みんなの協力が得られるかしら……」
「そこが肝なのさ。いいかい? 自分の言い分ばかり通そうとする奴の意見を採用してみて、それにみんなが本当についてくるのか、現実を分からせてやるんだ」
「でも、それって……」
「傷つけるんじゃないかって思っているんだろう? それは違うよ、頼子さん。相手はまだ何の現実も知らないままなんだ。でも、みんなは受験や青春の葛藤の中に身をおいて、現実と向き合って闘っているじゃないか。現実を見ないだなんて、そっちの方が身勝手なんじゃないかと僕は思うのさ」
「なるほど。そうよね、きっとそうよ! 陽介さん、ありがとう! 私、おかげでリキが出たわ!」
「どうってことないよ。僕はもっぱら暇だから、ただ毎日こうして哲学をしているに過ぎないんだから」
「すごいわ、陽介さんって哲学者なのね。尊敬するわ」
「尊敬だなんて、よしてくれよ。哲学なんて、ろくでなしの暇潰しに過ぎないんだから」
「その言葉すら、なんだかとても哲学的だわ」
「まっ、頼子さんは頼子さんの闘いを頑張るんだね。僕は学校へは行かれないけど、応援しているよ」
「ありがとう、陽介さん!」

 頼子さんは顔は大したもんじゃなかったけれど、白い足がスラリとしていたっけなぁ。
 夕陽が射す薄暗い部屋。うちは年中日陰だったから、少しばかり早い石油ストーブの匂いがいつも頼子さんの記憶を一緒に蘇る。
 悪い女じゃないから俺もちったぁ気を遣って話したり、カッコウつけたりする場面もあったけれど、その全部をぶち壊してくれたのは、やはりジョウちゃんだった。
 いよいよ俺にとっちゃ無関係の受験が目前の、中学三年の冬のことだった。

「文化祭は大成功したわ! みんなと中学最後の最高の思い出が作れたのは、陽介さんのおかげよ」
「僕はなんにもしていないさ」
「ううん、やっぱり自分の気持ちも大事だって気付いたの。信念と勇気を持って行動することこそ、真実への近道なんだって教わったわ」
「ええ? 僕はそこまで教えてあげた覚えはないけれど、頼子さんはずいぶんセンスがイイんだね」

 僕たち、どうにもセンスが合うようだね。もう、このまま交際してしまおうか。
 そんな台詞がよ、頭にちらりと浮かんでいたんだ。外は冬時期にしては早過ぎる雪の日でよ、窓の外はどんよりした紫色で、白い粒がちらちら見えていたっけなぁ。中と外の温度差でだんだんとガラスが曇って来たあたりで、俺はストーブの上に置いていた薬缶に水を足そうと立ち上がった。
 すると、頼子さんはにっこり笑ってからこんな余計なことを俺に伝えやがった。

「実はね、その勇気の哲学のおかげで、私は新しい幸せを手に入れられたの」
「新しい幸せだって? へぇ、気になるな。それは一体、どんな哲学だい?」
「ええ。私、勇気を出して本間君に告白したの」
「本間って、ジョウちゃんに?」
「そうなの。彼、オッケーですって! 前から君は聡明な人だって思っていたって、私のことを褒めてくれたの! だから私達、受験が無事に済んだら交際をスタートする約束を交わしたのよ!」
「ふっ、ふぅーん。それが、新しい幸せの哲学なんだなぁ」
「最早、哲学じゃないわ」
「じゃあ、何なんだい?」
「愛よ」
「あ、愛!?」
「それも、一等特別な愛なの。私が両親から受ける愛とは別の、とても慎ましくてささやかだけれど、綺麗に輝く愛なのよ」

 両親から受ける愛だと? こちとら「何もするな」と監禁されながら、飯を出されるたびに母親から
「穀潰しに食わせるメシの余裕なんて本来うちにはないんだからね! 法律があるからくれてやってんだから! 中学卒業したらさっさと家を出て行ってもらうし、来るべき時が来たら絶縁してもらうからね! あんたを産んだことが私の生涯一番の過ちだよ!」
と口汚く罵られ、父親からは
「おまえはどうせ何をしたって先日の川俣軍司のようになるんだから、うちとは一切の関係を断ってもらうからな。男なんだから、家を出たってどうにでもなるだろ。おまえは一家の恥だから、家を出たら二度と敷居を跨ぐなよ。連絡もくれるな。いっちょ前に人様の前でタダ飯食いやがって、憎たらしい。でもな、賠償金の金はしっかり働いて返せ。それが、唯一おまえに出来る親孝行なんだからな」
 なんて言われ続けている俺の前で、両親からの愛だのなんだのグダグダ語る頼子さんに、俺は段々とムカっ腹が立って来たっけなぁ。
 でもな、不思議とどんどん聞きたくなるんだ。腹が立てば立つほど、燃料がまだまだ足りねぇぞぉって、腹の底から意地の悪い声が聞こえて来るんだ。だから、俺は聞いたんだ。

「頼子さん、両親からの愛についてもう少し詳しく教えてくれないかな?」
「愛について? いいけれど、その辺は陽介さんの方が先生でしょう? だって、こんなにもご両親から護って頂けているじゃないの」

 護って頂けているだと? このクソアマ、下だけじゃなくて脳味噌にも余計な穴が空いてんじゃねぇのか。

「僕は、事情が違うから。頼子さんは、ご家庭ではどんな愛を持って育まれているのだろうか、と思ってさ」
「あら、そうだったのね。私はね、まず母がピアノの講師をしているから幼少期はレッスン漬けの毎日に追われていたわ。小さな頃の練習量が音楽家としての人生を左右するんだって言われていたけれど、とっても大変で毎日逃げ出したくて仕方なかった。でも、母のおかげで私は耳がとても良くなったの。父が連れて来る外国のお客様とも英語でいつもお話しするんだけれど、それも母の教育のおかげだって実感しているわ。だって英語って頭で覚えるものではなくて、耳で覚えるものですもの」
「そうか。リスニングってヤツだね、大いにその通りなんだろうね」
「あ、そうだ! 陽介さんは学校へ行かれてないから、英語に困った時は私が教えてあげるわね。あっ! ジョウさんと……いけない、私ったら慣れ慣れしいわ、「ジョウさん」だなんて」
「まぁ、いいんじゃないの。ジョウさんでも。だって、君たちは交際するんだろ?」 
「そうよね、そうそう。今のうちにフランクな呼び方にも慣れていかなければいけないわよね……それで、思ったのだけれど、私とジョウさんで一緒に陽介さんに英語を教える! っていうのはどう? 学ぶことを飽き足りない勤勉な私達らしいデートになると思うし、陽介さんの勉強の遅れだってすぐに取り返せるわよ! ね! そうしましょうよ!」

 クソが。まるで他人様を痴呆か知恵遅れか何かだと思いやがって。何が飽き足りない勤勉だ。勉強キチガイの間違いだろうが。
 それに、相手がジョウだと? この俺を地獄に突き落としたあのお調子野郎と顔を突き合わせて、こんなド田舎で犬の糞ほども役に立たないイングリッシュのお勉強だと? ジョウとこの女の芋デートの道具に、俺を使うだと? それに、何が「私達らしいデート」だ。てめぇららしいデートってのは、図書室で保健の教科書おっぴろげて「性器のしくみ」でも熱心に読んで所感を述べ合ったりすることなんじゃねぇのか。
 平然と押し付けられる他人の幸せに、腸が煮えくり返った。ぐらぐらと煮立った腸に、何かしらの残酷な材料をぶっこんで、ドロドロになるまで煮詰めてやりたくなった。
 頼子の女郎は俺の心中を察することもなく、ベラベラと「ご両親」とのスイス旅行の話しをこっちが頼んでもねぇのにしてやがった。父の仕事の関係で七歳の頃にジュネーブに滞在して、広大な自然の中でカヌーや岩登りとか、様々な体験をしたの。だってよ。なぁにがスイスだ。戦争も出来ねぇ腰抜け国家へ親父のドサ回りついでに行っただけの話しじゃねぇか。その時、父に買ってもらったこの時計が今でも宝物なの、なんだとよ。くそったれが。
 ふつふつ湧き上がる怒りの中で頼子の足の奥に目を這わす。泥が爪を汚さない上流階級の自慢話に夢中で、俺の煎餅布団の上でだんだん足が開いて来ていることにも気付いちゃいねぇ。
 頼子の足の奥に白い物が見えた途端。性欲が腹底から湧き上がる怒りに直結し、ボルテージがぐんと上がるのを感じた。まるで怒りの沼に落ちた性欲がバチバチと感電するみてぇだった。
 もっと俺を怒らせろ。もっと、もっと。もっと嫉妬させろ。もっと妬かせろ。もっと絶望的な差を見せつけてみやがれ。
 そんな風に思いながらも俺は頼子の目を盗み、机にそっと手を伸ばして彫刻刀をポケットに忍ばせる。

「私の父と母がいたからこそ、真実の愛を感じられる人間になれて本当に幸せだなって思えているわ」
「そうなんだね。よかったね」
「あら、陽介さんはなんだか納得いかない風じゃない?」
「違うのさ。僕は、ジョウと頼子さんがそうでなくっちゃって感心していたんだ」
「ありがとう! きっと、私と同じようにジョウさんも思っているはずだわ」
「そうだろうよ。だからよ、さっさとセックスを済ましといた方がいいんじゃないのか? あんたの親みたいに、ジョウとせっせと赤ちゃん作って真実の愛を伝えるんだろう?」 
「えっ! セッ、セック……だなんて、そんな! いくらなんでも、早すぎるわ! ちょっと、ジョウさんに誤解されたら困るわよ。今の話しは、ナシよ!」
「そうかい。セックスがダメなら「オメコ」でいいか? どうせ処女なんだろう? とっとと済ましてしまえよ」
「ちょ、何を言うのよ!」
「おまえはお花畑サンだから何も知らねぇだろうがよ、俺はジョウの野郎とはとっくに縁を切ってんだよ」
「え……でも、ジョウさんとは仲良しだったんでしょう?」
「あんたに関係ないね。さっきから聞いてりゃ勝手ばかりヌカしやがって。何が「私達らしいデート」だよ、おい」

 そう言って、俺は隠し持っていた彫刻刀を頼子の顔の前に突き出したんだ。
 あいつ、びくびく震えていたっけなぁ。幾ら善人面こいてたってよ、俺がブスリとやったこと思い出したんだろうがよ。さっきまで浮かれポンチでスイスがどうだのヌカしてた癖によ、途端にバケモノでも見るような怯えた目に変わってやがったよ。
 俺は湧き上がる怒りと性欲がどんどん混ざってとんでもない力になって行くのを感じていたんだ。もう、そこから先は自分の何にも期待なんかしない覚悟が出来たぜ。
 おかげで自信満々によ、頼子を犯すことが出来た。相当に痛がっていたけどよ、腰を振ってるうちに終わって実にあっさりしたモンだったぜ。
 始終、あの女は泣いてたっけなぁ。ジョウさん、ジョウさんゴメンなさいって、あいつの名前を連呼するたびに腹が立ったよ。
 ジョウの野郎よりも濃密な「おしゃべり」の時間を俺はジョウより過ごしているつもりだったぜ。俺はな、散々無理をしておしゃべりしたんだ。それなのに頼子の中に俺なんかちっとも存在していなかった。ジョウと付き合えたことで有頂天になって、学校じゃやたら言えないから学校に行けない俺にテメェのご自慢の幸せを押し付けに来たんだ。
 俺がジョウに突き落とされた地獄に住む悪魔だってことさえ忘れてよ。幾らお勉強が出来たってな、人間としては大馬鹿者だぜ。
 彫刻刀を泣きっ面に押し付けながら、俺は突然背中に生えた黒い翼で飛び回ってるみてぇだった。

「おしゃべりはもういいからよ、おしゃぶりしようぜ」
「……嫌よ」
「するんだよ! 愛するジョウに次会う時、顔面ズタズタになっててもいいのかよ」
「それは、嫌ぁ!」
「だったらしゃぶれよ、ほらぁ!」

 最高だったなぁ。ジョウの名前呼びながらよ、一生懸命やってたよ。反抗のつもりなのか歯ぁ立てやがったから、頭を思い切りぶん殴ってやった。
 父さん、母さん、ジョウちゃん、父さん、母さん、ジョウちゃん、父さん、母さん、ジョウちゃん、ゴメンなさい。
 念仏唱えてねぇで、おまえもちっとは愉しんだらどうなんだい。おめぇの大好きなお勉強。それも性教育のテストじゃなくて、本番だぜ。

 全部が終わった頃には外は真っ白で、空はすっかり暗くなっていた。
 精液が垂れたケツを丸出しにしたまま、頼子は力尽きたみてぇに横たわっていたっけなぁ。
 あれだけベラベラ熱心におしゃべりしてたのによ、もう何も喋らずにぐったりしていたからラッキーだったよ。
 お宝だって言う頼子のスイス産の腕時計を外してよ、俺ぁポッケにしまったんだ。金が必要だったから、ラッキーラッキーだった。
 俺は服を着てそのまま親のいねぇ居間に行って、タンスを漁った。アクセサリーや幾らかの金もポッケに詰めて、俺は部屋に戻るとグズグズ泣きながら制服を着る頼子に言伝をしたんだ。

「おい、ジョウに言うなよ」
「…………」
「あと、警察に駆け込んだらぶっ殺すかんな」
「…………」
「おめえのことブスリとやるなんてな、訳ねぇんだから。その気になれば、おめえ一人くらいすぐに殺せるんだから。忘れんなよ、なぁ?」
「…………」

 頼子は泣きながら、震えながら、何の返事もしなかった。口がついてんだから、喋ればいいものを。ムカついてよ、頼子の頭をしゃぶってる時みてぇにまた思い切りぶん殴ってやろうかと思った。
 俺が近付くと察したように、頼子はブラウスのボタンを留める手をピタリと止めた。
 返事もしねぇなんて、とんでもねぇ女だ。ぶん殴ってやる。そう思ったはずなのに、俺は頼子の頭を撫でていた。なんでだか分からなかったけど、撫でていたんだ。
 しんしんと降る雪が強さを増しているのに、外からも部屋のどこからも物音なんか一つもなくって、何も喋らずに頼子の頭を俺は撫でていた。

「悪ぃな」

 そう言って、俺は二度と戻らないことを決めて家を出た。
 玄関で靴を履いて引き戸を開くと、俺の部屋から頼子のデケェ声で

「せめて、謝んなよ!」

 って聞こえて来て、それが何だかとても恐ろしい声に聞こえた。いつも罵声を浴びて来るうちの親や、弟の俺を刺すような目よりも、ずっとずっと混じり気のない純粋な恐怖を俺は感じたんだ。
 怖くて怖くて、俺は電車に乗ってどこまでも逃げた。
 雪が止む頃にたどり着いたのは、名前だけは聞いたことのある焼津って海沿いの街だった。

「ふーん、十六ねぇ。今まで働いたことは、あんの?」
「いや、ないです」
「そう。君さぁ、家出してきただろ?」
「えっと、家出というか……」
「いい、別にいいよ。こっちゃあ深く聞いても一円にもなりゃしねぇんだから。寮でいいか?」
「寮、ですか?」
「家ないんだろ? 住み込みさせてやるって言ってんだよ」
「いいんですか? ありがとう、ございます」
「礼を言えるだけ大したモンだ。これからどれだけ「スレる」か見ものだわな」

 飛び込みで面接に行った水産会社の社長は恰幅の良いオッサンで、面倒見は良かった。
 だけどとにかく金払いがケチでよ、一ヶ月水産工場で二十五日も働いて給料日に手元に残る金なんて四万切るくらいだった。
 ガキだから船には乗せらんねぇって、港でも俺は除け者扱いだった。仕事で忙しい漁師連中は気性が荒くてドライで、俺みたいなガキを相手にさえしてくんなかったっけ。
 パート連中も二、三の徒党を組んでそれぞれの悪口を言い合うのが楽しみなだけの暇ババアの掃きだめでよ、いっつも「誰々さんがあんたのこと使えないって言ってた」とか「誰々さんをモーテルで見た」だの、他人の噂話なんてくっだらないことに時間を費やしていた。
 俺はそこで二年働いたけれど、仕事の知り合いは出来てもプライベートで遊ぶような友達は一人も出来なかった。
 漁港とは言っても割とちゃんとした所でよ、俺みたいにフラフラ流れ着いた人間なんてほとんどいなかったんだ。
 工場で働くジジイの何人かは俺と同じような正体不明人間で、社長の家のすぐ近くにある寮(ボロアパート)で俺と同じように暮らしていた。
 一間六畳で部屋代が月に七万。光熱費は別だった。食費は工場で余った魚がメインの仕出し弁当とまかないが三回。それが一日千円。何もしなくても生きて行くだけで十万が飛んで行った。
 たまにするパチンコ、それと煙草だけが俺の楽しみだった。昼休みに波止場のビットに腰掛けて海を眺めている時間だけが、唯一癒しの時間だったなぁ。 
 飛び出して来た実家のことは全く考えることはなかったし、親や弟に対して何の感情も湧かなかった。勝手に生きていくから、そっちも勝手に生きて行ってくれって思っていたよ。
 ただ、俺をボコボコにした先輩連中のことは何度も思い出して、海に放り投げてみたり、網籠に詰めてクレーンで海にゆっくり沈めて殺したり、そんな想像は何度もしたな。あいつら、やっぱり許す訳にはいかねぇな。
 そんな頃にちょっと思い出して暗くなったのはジョウちゃんと頼子さんのことだった。
 彫刻刀で目ん玉ブスリとやった先輩に対してはざまぁみろとしか思わなかったけど、あの二人に対しては申し訳ない気持ちになることもあった。
 それは本当に誰も頼れない一人きりになったからこそ、しみじみと実感したんだろうな。

 そんなある日、事件が起こった。俺と同じ寮に住む高田って七十五の独身ジジイが昼休みなってから「財布がない」なんて騒ぎ出したんだ。
 俺はどうせ自分には関係ねぇやと思って、食堂でまかないの生臭い魚弁当をつついてた。
 のんびりNHKのニュースを眺めていたらよ、社長が食堂にやって来たんだ。

「大西、いるかぁ?」
「はい。ここです」
「おう。ちょっとツラ貸してくれや」

 なにかと思って事務所の奥に連れて行かれると、ソファには先に高田のジジイが座ってこっちをギロリと睨んで来た。俺も頭に来てよ、睨み返してやったんだ。
 するとよ、社長は俺に「これ見ろ」と言って、テーブルの上に置かれていた真っ茶色の汚ねぇ長財布を指さした。

「財布、ですか?」
「ですか、じゃねぇだろう大西。なんか言うことあるよな?」
「さぁ……何ですか?」

 すると社長が答えるんじゃなくて、ジジイが叫びやがった。

「何ですかじゃねぇだろう、おう! ずいぶんイイ根性してんじゃねぇか、おおう!?」
「あぁ? なんだテメェ」

 この老いぼれが。撲殺してやろうと殴りかかると、身体のデカイ社長に肩をぐっと掴まれた。元ラガーマンっていうだけあって、とんでもない力で俺の肩がバラバラになるかと思った。

「まぁ、待てや大西! 高田さんの財布な、おまえのロッカーで見つかったんだよ!」
「はぁ? だって、休憩入る時にはロッカーに財布なんて入ってなかったっすよ」
「言っちゃ悪いがよ、そんなことを証言した所でここじゃあ誰もおまえを信じないと思うぞ」
「信じないって、何すか? 俺が盗んだって、社長もそう思ってんですか?」 
「当たり前だろ。この港はよ、地元の人間が信頼し合って成り立ってんだ。だっておまえ、結局のトコロは余所モンだろ」
「余所モンって……俺、もう二年もここにいるんですよ?」
「いるったって、ただいるだけじゃねぇかよ。それにな、たった二年住んでるからってナニ寝言こいてんだよ、おい。水産のイベントにも顔出さねぇし、この二年でただの一回でも祭りに出たコトあるんか? 自警団に入ったんか? 何ひとつしねぇでアパートにこもってただけなんじゃねぇんか? おまえのこと信用してる人間なんてな、ここには一人もいねぇんだよ」 
「あぁ? 上等だよ。村八分なんて今時ずいぶんご立派じゃねぇかよ。そりゃあ、この街の伝統か?」
「それがてめぇの本音かよ?」
「そうだよ」
「普段てめぇは誰とも喋らねぇからなぁ、本音がやっと聞けて嬉しいわ。じゃあ、警察呼ぶから」
「勝手にしろよ」

 高田はジッと俺を睨みつけていたが、ソファに深く座り直すなり、ずいぶんとエラそうに俺を見上げた。

「おう、ガキんちょ」
「んだよ、ジジイ」
「俺はおまえと違ってセコくないし寛容だから、土下座をしたら警察だけは勘弁してやる。あのぅ、私はそれでヨシとしますけど、社長……いいですか?」
「高田さんがイイってんなら、俺は何だっていいよ」
「だ、そうだ。未成年のガキなんだから、警察呼んだら親元に帰されるかもなぁ。いいなぁ、お父ちゃんとお母ちゃんが待ってるおうちがある人は、いいなぁ~。うらやましいな~」 
「待ってねぇよ、別に」

 何も知らねぇ癖に、このジジイ勝手こきやがって。誰かが、俺をハメようとしたんだ。それは俺が余所モンで、誰とも喋らずに「仲間」じゃないからなのだろう。漁港の連中は俺のことを無視する漁師共も、いがみ合うババア共も、ここぞとばかりに「仲間」という言葉を使うのが好きなようだった。
 なにが仲間だ、くっだらねぇ。そんなもの互いを縛り付けるだけの呪いの言葉じゃねぇか。

「おい、ガキ。おまえは他人様の財布を盗んだんだからしっかり詫びろ。泣いて詫びて、申し訳ございませんでしたって土下座して、俺に謝れ」
「大西、せっかく高田さんがそう言ってくれてんだ。さっさと土下座しろ。余計な遺恨を作らないのもルールのうちだぞ」 
「社長さんよ、ルールじゃねぇんだよ。やってねぇこと、どうやって謝んだよ」
「てめぇ誰に向かって口利いてんだコラ。もういいわ、警察呼ぶわ」
「だらだらし過ぎなんだよ。さっさと呼べよ」

 警察が来たら俺の無実を証明してやる。ジジイの財布を盗んでも何一つ俺にいいことなんかねえんだから、盗む理由がねぇ。そう思っていると、沖田という別のジジイが爪楊枝で歯をほじりながら事務所にやって来た。 

「高田さんいる~? あ、いたいた」
「おう、沖ちゃん。どうしたんだよ」
「悪ぃね。さっき預かってた財布なんだけどよ、大西のロッカーに間違えて返してたかもしんねぇわ」
「え?」

 ほら、俺が言ったとおりだ。沖田の言い分に社長も高田も青ざめたツラになって、何が言いたいのか知らねぇがうろたえながら互いに目配せし合い始める。
 俺はよ、すぐに沖田に確認したよ。どういうことかってよ。

「俺のロッカーに高田さんの財布が入ってた所為で、警察呼ばれるトコなんすよ。どういうことっすか?」
「警察!? ありゃあ、それは悪いことしちまったなぁ。俺が「母ちゃん弁当」に昼メシ買いに行くって言ったらよ、幕ノ内買って来てくれって高田さんに頼まれてよ。預かった財布を返し間違えてたみてぇなんだ。騒ぎになってるって聞いてよ……この通り、申し訳ありませんでした」
「おい、沖田さんよ。そりゃあ誰に謝ってんだよ?」

 俺が訊ねてみると、沖田はヘラヘラと頭を掻きながら答えた。

「そりゃあ、迷惑掛けちまった仲間のみんなだよ。この通り!」

 そう言って深々と下げた顔面を、俺は全力で蹴り上げた。
 折れた歯が飛んで、沖田は血を噴いた口元を抑えながら転げまわり始めた。足をバタバタと動かす所為で、事務所と応接間を仕切るパーテーションが動いて俺達は事務所から丸見えになった。
 事務員の女共が立ち上がって様子を伺い出したが、なんとかドッグとかいう臆病な動物を見ているみたいで俺はカッとなったよ。

「テメェら、見てんじゃねぇよ!」

 事務員共はサッと目を伏せて椅子に座り直した。沖田は転ばせておくとして、問題は犯人が俺だと決めて掛かった社長と高田のクズ人間二人組だ。

「おい、社長さんよ。警察呼ぶんじゃなかったのかよ」
「それは……実に、すまなかったというか……」
「なんだよ、呼ばねぇのかよ。じゃあ、そっちのソファに座ってるジジイはどうなんだよ? 土下座する頭をこっちゃ持ち合わせてねぇんだけどよ、俺が床に頭ついて「すいませんでした」って言えばいいんか? 満足か?」
「いえ……勝手に疑ってしまいまして……大西くん、申し訳ない。この通り」

 高田はソファから滑るようにして床に座ると、頼んでもない頭を下げて定型文のような詫びの言葉を吐いた。到底許すつもりはなかったが、許して欲しいと高田は何度も懇願した。その間中、社長はだんまりを決め込んで俺と一緒に高田を見下ろしていた。

「てめぇらに変な言い掛かりと難癖つけられてよ、警察まで呼ばれそうになってよ、それを許して下さいってのはおかしいってこと、わかってんだろうな?」
「……はい」
「社長はどうなんだよ? 余所モンのガキ相手だから、俺は何も悪くねえってか」
「いやぁ。その、俺は財布盗まれた訳じゃないしなぁ……うん」
「あんた、余所モンの言うことは誰も信じねえって言ってくれたよなぁ? 二年も住んでやったのによ。傷ついたなぁ」
「じゃあ、すまなかったよ!」
「じゃあってなんだテメェ。詫びる気ねぇならハナから口に出すんじゃねぇよ」
「そうだよ、俺ぁ詫びる気なんかねぇよ! 大体、俺が財布盗まれた訳でもねぇしよ! 一体どうしたら大西は満足なんだ? おまえ、何がしたいんだ?」

 土下座しっぱなしの高田の頭頂部は、丸く禿げ上がっていた。感情が昂っているのか、その地肌が紅潮しているのを眺めている内に、俺はあることを思い付いた。ありゃあ今でも最高の提案だと思ってるぜ。

「じゃあ社長さんよ、こうしてくれよ」
「教えてくれ。おまえの気が済むんなら、何でもするから」
「カンタンだよ。このジジイの頭によ、ちんぽ出して小便ぶっかけろ。あー、あと、アレだ。事務の女二人に、小便してるところ見てもらえ」
「何言ってんだおまえ! 出来る訳ないだろ!」
「おいおい、何でもするんだろ? 社長に嘘つかれたって、噂好きの水産仲間のババア共に言いふらしてもいいんだぜ」
「クソ……クソ……」
「俺の気が変わらねぇうちに早くしろよ」
「おまえ……悪魔かよ」
「そりゃこっちのセリフだぜ。でもな、人間なんてみーんな悪魔みたいなもんだ」
「ふぅっ……ふぅっ……クソッ! おい! 松島、添田、こっち来い! 今すぐ来い!」

 事務員の女はどうせ聞き耳を立てていたようで、恐る恐ると言った様子でやって来た。けれど、何の用事で呼ばれたのかは聞いて来なかった。本当に、下衆な性格をしてやがる。
 社長はズボンのチャックを下ろしてお粗末ちんぽ君を事務員達に見守られながらポロンと出すと、顔を真っ赤にさせてたっけなぁ。
 事務員がわざとらしく「きゃっ」なんて言うからよ、俺は言ってやったよ。

「何が「きゃっ」だよ。股にさんざブチ込まれてんだろ」

 事務員共は何も言わずに、それでも目だけは社長のおちんぽ君から背けてなかったから立派なモンだったなぁ。まぁ、どうせ後から話しのネタにするのに目だけは離さなかったんだろうけどよ。
 社長は「すまん!」と大声を出すと、打たせ湯みてぇなチョロチョロした黄色い小便を高田のハゲ頭に放り始めた。
 小便は頭、肩、そして床にびしゃびしゃと滴れた。すぐに事務所内が異臭に満ちた。毎日生ゴミでも食ってんのかと思うような、とにかくネギ臭い小便だった。

「これでいいのか。大西!」
「くっせーなぁ。もう飽きたから、いいよ」
「そうかそうか、満足したか。そうですか、そうですか。おまえやっぱり、ガキだな」
「他人を犯人呼ばわりする大人より、マシだと思うけどな」
「次同じことが起こったら悲しいけどな、きっと俺はまたおまえを疑ってしまうだろうよ」
「何泣いてんだよ。泣きたいのはこっちなのによ、馬鹿なんか?」
「次は小便じゃ許してくれないだろうな。きっと、もっと凄いことを要求されるだろうな。でもな、それをする前に、俺はおまえのことを殺してしまうかもしれないな」
「あんた社長だろ? 何おっかねぇこと言ってんだよ」
「だからな、本当に心苦しいけどな、おまえ、今日でクビな」
「村八分にされるようなこんなトコ、こっちから願い下げだわ」
「ごめんな、大西。本当に、ごめんな」

 社長はお粗末ちんぽ君をぶら下げたまま、ごめんなと言って泣いていた。仲間に出来なくてごめんな、と。
 俺はこんな気持ち悪い連中と仲間になんかならなくて良かったと心底ホッとしていた。 
 その夕方には焼津を出たけれど、社長は「退職金だ」と言って三十万俺に渡してくれた。退職金というより慰謝料の意味合いだったんだろうけど、当然だと思った。そして、もう二度とあの漁港には近寄りたくもないと感じた。
 あれから四十年近く経つが、あれ以降あの土地に足を踏み入れたことはない。

 夜になれば家賃保証会社の連中はここにはやって来ないと思っていた。
 小便を溜めたペットボトルを捨てに、そして水を汲みに公園へ出ようと思ってゴミに埋もれた窓の隙間から外を伺うと、強い青光が目を刺した。
 闇に紛れて、スーツ姿の男が二人。懐中電灯を持って俺の部屋の中を照らしていた。
 息を殺して遣り過ごそうとしていると、外からの話し声が聞こえて来る。

「おい、あったあった。アレだよ。見える?」
「うわっ……マジじゃん」
「な? 言っただろ? あれが噂の「ゴミ観音」だよ」
「ゴミまみれなのに、段ボールの上には観音様かぁ……信仰心とかあんのかな」
「意味分かってたらこんな生活してねえだろ。観音様はきっと、地獄気分だろうな」
「うっわ……窓のヘリ、凄いな。死んだ虫だらけじゃん。このヘリの部分だけでこの虫たち、輪廻転生繰り返してんのかな」
「はははっ! だから観音様置いてあるんか。このゴミ部屋、小宇宙さながらだな」
「コスモだ、コスモ! ははははは!」

 笑い声が二つ重なって、遠ざかって行く。続いて、バンのドアを閉める音。エンジン音。発進音。
 奴らは催促や退去勧告の為に来た訳じゃなく、わざわざこの部屋を笑いに来やがったのか。
 なんて心の貧しい連中なんだ。馬鹿野郎。
 俺はとりあえず何事もなく奴らが去って行ったことに救いを感じ、段ボールの上に置いた観音様に手を合わせた。

 焼津を出てから俺は西成、寿町、山谷とドヤ街を転々と移った。けれど街中に漂う負を塗り固めたようなオーラやドカタ気質な連中と折が合わず、どこも長居することはなかった。
 一番長かったのは寿町だった。まだ活気があった頃のドヤ街、朝イチで仕事にありつけなければ、一日することは決まっていた。少ない金を持って朝からフルオープンの呑み屋へ行き、競馬、競輪、ボート中継が流れる数台のカラーテレビを観ながら店内で賭ける。
 負けたら当然のように回収したくなるから、底をついたら他人に借りてまで賭けに出る。そんなことを繰り返していたら悪い連中から金を借りるようになり、あっという間に人生が破綻する。
 まだ若かった俺はギリギリ、悪い所から金を借りずには済んだ。
 けれど、金を返せと煩い金城というおっさんから即金で大金が稼げるバイトがあるからそこで稼いで来いと言われた。

「ヨウちゃんまだ若いんだからよ、頼むから身体使って稼いで来てくれよ。な?」
「稼ぐったって、キンちゃんの紹介じゃあなぁ。どうせ危ないバイトなんでしょ?」
「違う違う! ちゃんと合法だよ! チケンだよ、チケン!」
「キケン? ほら、やっぱり危ないんじゃん」
「キケンじゃなくってチケン! 治療研究の略で、チケンだよぉ! まさかあんた、知らないの?」
「知らないよ。なんだよ、その如何にもヤバそうなバイト」
「学生だってなんだってやってるよぉ。製薬会社の新薬があるだろ? あぁいうのを試す研究でよ、謝礼がすごいんだよ。寝てりゃ稼げるんだから、いいもんだろ?」
「人体実験じゃねぇかよ。大体、どうやって始めるんだよ」
「近々のチケンの募集があっからよ、俺が手配してやるよ」
「ふーん……まぁ、どうせこんな命二束三文だから、いっか」

 治験の応募のために、俺は金城から教わった住所に記載された市内病院へ向かった。
 受付へ行って治験のことを話したら門前払いでもされるかと思ったけれど、薄暗い通路を抜けた先に治験専用の受付があると聞かされて驚いた。

 受付をした後は看護婦が流れ作業のように問診や身長と体重測定、血液採取と進んで行った。
 何も分からないままとりあえず言われるがままにしていると、結果が出るのは三日後だから再び来院するように言われて帰された。
 帰りしな、説明係の看護婦なのか事務員なのか分からないネェちゃんから茶封筒をもらったので中身を確認すると、交通費の名目で三千円が入っていて俺は驚いた。
 身体の健康をチェックして三千円ゲット出来るなら一石二鳥じゃねぇかと、呑み屋にいた金城にさっそく報告した。
 金城は俺の話を特に驚きもせず聞いていたが、実は問題がここから先なのだと聞かされた。

「若い奴らなら多分心配はねぇんだろうけど、治験の種類によっても集めてるタイプも違うから本番までいけるヤツってのは意外と数が少ねぇんだよ」

 そんな風に言っていたが、三日後に病院へ行ってみると医師から診断結果と共に「不合格」を伝えられた。年齢の平均よりもガンマGTPがずっと高く、この数値では治験は到底受からない旨と摂生を努めるように釘を刺された。
 診察室を出て不合格だったことを金城へ伝えなければと考えていると、病院の通用口を出た所で坊主頭にスーツ姿の男に声を掛けられたんだ。素人が見てもカタギじゃないことはすぐにピンと来たのに、俺はついつい反応しちまった。

「お兄さん、チケン? 受かった?」
「いえ、不合格でした」
「あーっそう。あのさ、うちもっと割の良いバイトやってるんだけど、どう?」
「バイトっすか。話し聞くだけなら、いいっすよ」
「うっし。じゃあ、車で話そうか」

 車の中で話すだけ、という約束だったのに俺が寿町のドヤ暮らしだと分かった途端、男は乗っていたクラウンを発進させた。
 仕事は二交代制の「小屋番」と言われるもので、馬鹿でも出来るから大丈夫だと聞かされた。給料は一日二万。煙草や出前でとる飯は無料だと聞かされ、俺はドカタ仕事よりはマシだと思い二つ返事で了承した。寿町から話し始め、高速に乗って寮や仕事上のルールを聞かされているうちに小屋番の仕事があるマンションにあっという間にたどり着いた。
 その晩からさっそく仕事が始まったのだが、まず覚えて欲しいと言われたのは三つだけだった。
・扱っている女の顔・組の人間の顔・出入り業者の名前
 基本、女と組の人間の出入りをわざわざ止めることはないが、業者に関して徹底して身元をチェックするように言われた。飯や施工関係、管理関係の業者名簿と名札の照合、会社の電話番号をソラで言えなければマンションの中には入れるなと念を押された。
 俺はマンションのエントランスで管理人のようなことを任された。メインは出入り業者のチェックで、それも初日は俺が頼んだ岡持ち以外に出入りはなかった。
 数日経つと異様な光景を目にするようになったが、そういうものなのだろうと自分に言い聞かせながら働いた。
 組の幹部が若い女を数人連れて来て、挨拶を済ませると顔を紙袋で隠された女が別の女と手錠で繋がれていた。片方の女は手錠なんかしていないみたいにケタケタ笑いながら、幹部に話し掛けていた。
 仕事の為だと思い、紙袋を被された女のことを幹部に伝えると「これはいいんだ。覚えておきな」と教えられた。
 女の出入りを特に制限しろとは言われてはいなかったが、紙袋を被された女は週に二、三度目にすることがあった。
 このマンションで一体何をしているのか、そして誰が住んでいるのかは聞かされていなかった。
 仕事をしているうちに段々と何をしているのかは分かって来たが、それが分かった所で仕事を変える気にはなれなかった。

 バブル盛りのマンションには色んな人間が出入りしていた。慣れた人間以外は組の人間か女と連れ合いの形で入って来る。その中には芸能人、野球選手、財界人の姿もあった。一番滑稽だったのは国会でいつも偉そうにふんぞり返っている高齢の幹部が、おしゃぶりとレースの帽子を被った姿で組の人間とマンションにやって来た時のことだった。
 俺はたまらず笑いそうになると、組の人間が傍へ来て耳元で「笑ったら沈めるぞ」なんて脅しやがった。あれは心底肝を冷やしたぜ。あの場で笑っていたら、一発で人生を退場させられていたかもしれない。
 仕事にも慣れて来て勝手も分かった頃、業者の恰好でマンションへやって来る奴らの姿が増え始めた。ちょうど夏に差し掛かって来たころで空調設備の人間も出入りが多くなっていたが、それに合わせるように怪しげな奴も増え始めた。

「メイワダイサン、ですか?」
「はい。三〇五号の部屋の件で伺いました。広岡と申します」

 額に汗を浮かべながら、男は笑みを浮かべた。いかにもベテラン作業員と言った風貌の男だったが、すぐに嘘だと分かった。俺は吹っ掛けてみることにした。

「三〇五号ですね。どなた宛ですか?」
「えーっと、確か「シマザキ」さんですかね。女性の方で」
「そうですか。申し訳ないんですけどね、会社の番号教えてもらっていいですか?」
「ええ……あのぅ、私、もしかしたらマンション間違えたかなぁ」
「…………」
「ここ、レオサンド幸田ですっけ?」
「いいえ、違いますけど」
「あー! 申し訳ない! 間違えましたぁ、失礼します!」
「…………」

 このマンションの三〇五号室に住民はいなかった。それを分かっていて、帰されるのが前提の偵察だったのだろう。奴は入って来るなり用もないのにエントランス内をジロジロ見回していたからだ。
 業者を装って来るあの手の連中は警察関係だとか、引き抜きの業者だとか、様々なことが言われていた。バブルで仕事が溢れ返っていたから、夜の女共も引く手数多だったが、数には限りがあったから守る側も必死だったのかもしれない。
 組のことについてあーだこうだ言える立場じゃない俺は、来る日も来る日も淡々と人の出入りをチェックする日々が続いていた。
 あの保証会社のアホ共が笑った観音様を部屋に置くようになったのは、この仕事での出来事がきっかけだった。

 エントランスに居ると、時々暇を持て余してた女共が話し相手を求めてやって来ることがあった。
 セックスの時にあんなに泣いていた頼子さんとは真反対に、俺をガンガン誘ってくる強者までいた。

「ねぇ、兄さん。私と遊ばない? タダでいいよ。もういい加減、たまにはフツーのセックスさせてくれって感じなんだよねえ」
「そんなのバレたら、俺もあんたもぶち殺されるよ」
「だよねぇ……だってさぁ、聞いてよ? 銃あるでしょ? 銃、ガンよ、ガン。ケツにローション塗られてさぁ、弾の入った銃を一時間もケツの穴に突っ込んで来るバカがいんのよ」
「なんだよ、それ。あんた何か悪いことでもしたの?」
「違うのよ。そうじゃないとね、興奮しないんだって。しかも、ずっと引き金に指掛けてんの。殺すかもしれない、死ぬかもしれないのにケツの穴に銃を入れられているのを見るのがイイんですって。キチガイばっかよ、ここらの人間」
「それに耐えてるんだから、あんたも凄いね」
「ね? 凄いでしょ? 凄いけどこんなの自慢話しにもなりゃしないから、あんた相手に話して鬱憤晴らしてさぁ。本当、ストレスばっか溜まって嫌になる仕事よ」
「ご苦労さんだ」
「まぁ、学も頭もない自分が悪いんだけどさぁ。選んだのも自分だしねぇ」

 その女は時々エントランスに愚痴を零しにやって来たが、そのうちツレの女と一緒に来るようになった。
 ツレの女は「ミカ」と名乗り、身体の線が細くて目も切れ長で細い美人だった。聞いてみたら歳が同じで、なんと故郷も近かった。コレはマズイと思ったけれど、向こうからあっさり言われたことで全てバレた。

「ヨウちゃんってさ、先輩をブスリしちゃった人でしょ?」
「えっ、ミカ何それ?」
「ハルナ聞いてないの? ヨウちゃんって、めっちゃくちゃ怖いヒトなんだよ。プッツンしちゃって、挙句の果てに先輩の目を彫刻刀でくり貫いて三人、殺したんだっけ?」
「誰も殺してねぇよ! 目ん玉突いたんは本当だけどよ。くり貫いてねぇし、調子こきやがったから足をブスっとやっただけだよ」
「やっただけって、ヨウちゃんめちゃくちゃヤバイ人じゃない! うわー、こんな怖いヒトにケツに銃入れられたとか私グチってた訳?」
「あはは! いいじゃんいいじゃん。うち、もっと怖いヒトばっか揃ってるんだもん」
「まぁね……確かにそうだ。人を殺してないだけマシよ」

 ハルナもミカも日頃どんな恐ろしい目にあっているのか聞くのも怖かったけれど、意外だったのはミカが俺の顔を知っていると言ったことだ。事件が起きて家に監禁状態になっていたあの頃、友達数人と自転車に乗ってわざわざ隣町から俺の姿を見に来ていたらしかった。他にもアルバムや写真が出回っていたから、顔を見た瞬間にピンと来たのだと言っていた。
 故郷と結びつきがあったら後々厄介な女だと思っていたが、ミカも俺と同様故郷を捨てて出て来たクチなんだと言っていた。
 同郷のよしみなんてものはクソほどご免だったけれど、気が付く頃には俺とミカはエントランスで話し込む日が増えた。組の連中には「外と客の前じゃやめとけよ」と釘を刺されたが、それ以外はその頃頻繁に出入りしていた空調工事のおっさんに冷やかされる程度だった。

「お二人さん、いっつも仲良いねぇ」

 梯子を持ちながらそんな風に揶揄ってくるおっさんだったが顔をよく知っている分、唯一安心して出入りを許せる業者でもあった。 
 ミカは「夢があるんだ」と言っていた。 

「あたしさ、身体で稼ぐしかないけど……正直いつまで続けられるか分からないじゃない?」
「歳が来たら引退だもんな、あんたらの商売は」
「まぁ長くやってる人もいるけど、万年お茶引くようになったら辞めようと思ってんだ」
「辞めたとして、ミカは何かやりたいことでもあんのかい?」
「笑わないで欲しいんだけどさ、あたし喫茶店やりたいんだよね」
「喫茶店?」
「それも、この辺りでやりたいんだ。深夜喫茶」
「深夜喫茶? それって、おパンティ一枚で接客するとかの、エロい店?」 
「馬鹿! あたし、エロはもうこりごりだよ。そうじゃなくて、普通の喫茶店。この街で働く女の子が夜中に少しだけホッと出来る場所、作りたいんだよ」
「ホッと出来る場所、かぁ」
「あたし達の故郷と違って夜中だってここには人が溢れているけどさ、人はたくさんいるのに自分は独りなんだなぁって感じることが沢山あるんだ。だから、あなたは一人じゃないんだよ、って分かってもらえる場所を作りたいんだよね」
「立派な夢だな、それって」
「そう? でも、この街が嫌いじゃないからね。出来ることしたいんだ」
「故郷に帰ろうとは思わないんか?」
「嫌だね! あんな田舎……ゼッタイに、帰ってたまるか!」
「だよな」

 ミカの故郷を忌む気持ちは俺と同じだった。だから、二人きりで話してたって故郷のことで盛り上がったことなんてタダの一度もなかったんだ。
 外で会うことの出来ない俺とミカは朝方のエントランスで話すことが多かった。空が白み始めた頃になると、大体決まってミカがやって来る。
 始めのうちは他愛もない愚痴を聞いてやったりしていたけれど、段々とミカの将来に向けた本気の話しもするようになっていたっけな。
 何月までにいくら貯めたら出られるけれど、それだと店の資金が貯まらない。せめてもう一年頑張れば何とか軍資金が作れるから、その金で何処かに小さな店舗を借りたい。最近は珈琲のプロから直接レッスンを受けられることになったんだ、とか。
 夢に向かって着実に行動しているミカを、知らないうちに俺は熱心に応援し始めていた。自分には夢なんてなかったから、熱に浮かされていたのかもしれない。
 寿町に借金を返すために行ってよ、金城のおっさんと会って話をしていると、あのクソオヤジはなんとその昔に喫茶店を営んでいることが分かってなぁ、あの時は興奮気味にミカに知らせてやったっけ。
 ぜひ会いたいって話しになったけれど、俺達は外じゃ会えないし、ミカは金城のおっさんが金を払って遊べる程度の女じゃなかった。マンションに金城のおっさんを呼んだら部外者も部外者だからよ、俺がボコられて済む話しじゃなくなる可能性だってあった。
 だから、寿町に出向いては金城のおっさんから喫茶店のハウトゥーを聞いて、それを拙い恰好でミカに伝えるってことをしていた訳だ。
 喫茶店におけるポイントとして、内装の雰囲気っていうのが大事なようだった。だから、ミカはしょっちゅう内装のイメージをスケッチして俺のところへ見せに来ていたっけ。

「これは……シャンデリア?」
「違うよ、シーリングファン」
「シャンデリアじゃないのかよ」
「絵が下手なんだよ! ヨウちゃん、そこはなんとなくで想像してよ」
「うーん。そしたらさ、この位置にあったらお店入った瞬間に真上にあることになるから……もう少し奥の方がいいんじゃないか?」
「あっ、なるほど! 気付かなかったなぁ。そうだよね、なんとなく邪魔に感じるものね」
「役に立てたみたいで、良かった」
「ねぇ、あたしのこと応援してくれてるんでしょ?」
「うん? まぁね」
「じゃあ頑張るよ! まずはファンと棚の配置を決めないとだねぇ」

 エントランスに朝陽が射すまで俺達は話し込んでいたけどよ、正直ミカがいつ身体を休めているのか不思議でたまらなかったよ。だって昼間は珈琲の訓練しているっていうし、夜間は変態客の相手で身体を使っていたからよ。
 このまんまだと何処か身体を壊すんじゃねぇかって心配にはなっていたよ。それは一時の恋心とか、そんな安っぽいモンじゃなかった。ただ単に一人の人間として応援していたしな。それに、なんだかミカを支えてやりたいなんて妙な感覚もあったんだ。本名も知らないし、故郷だって近いけれど具体的に何処に住んでいたのかさえ知らない。だけど、叶えたい夢や日頃のことなんかはよく聞いていたから、俺が近くに居て出来ることはなんだってやってやりたいって思っていたんだ。

 ミカが新しいスケッチを見せて来たのが八月二十二日の朝だった。盆明けの忙しさもだんだんと引いて来た頃でよ、金城のおっさんからもアイデアをもらいながらスケッチブックの上じゃあだいぶ立派な喫茶店が仕上がり始めていたんだ。
 まず扉を開けると木造りのカウンターが真正面にあって、これまた木製の椅子が五脚。ミカはいつも正面に立って作業していて、話したい客はカウンターに座る。ゆっくり落ち着きたい客は四人掛けのテーブル席。その頃はやり始めていたゲームテーブルは置かないで、あくまでも静かな空間でゆっくり珈琲やお喋りを楽しんでもらう。テーブルの上に影を作らないように、シーリングファンの配置を考える。カーテンレールに照明が付けられるらしくて、店の奥や暗くなりがちな部分はそれで灯りをとることで落ち着いた雰囲気にして、本が読みながら珈琲が飲めるように、小さな本棚を置く。

「ミカ、すっげーな! こいつはちゃんとした喫茶店だよ!」
「ヨウちゃんと金城さんの協力のおかげで、なんとか形が見えて来たんだ」
「ここまで来たらよ、あとは実際に動くだけだな」
「そのつもり! 今までも忙しかったけど、これからもっと忙しくなるよ」
「まぁ、身体だけは無理すんなよ」
「うん。でも、忙しくなるからここに来る回数も減るかな」
「そっか、まぁ……そうだよな。でもよ、応援してるからよ」
「ふふ。ヨウちゃん、寂しいんでしょ?」
「俺が寂しいだなんて、おまえ、馬鹿言っちゃいけねぇよ。なんだよ、それ」
「あはは。なんていうか、あたしが喫茶店を開くんじゃなくて、みんなで作った喫茶店を開くんだ。そしたらさ、みんなで盛大にお祝いしようよ」
「おう、当たり前だろ」
「その頃にはさ、あたし達は外で会えるようになっているんだね」
「まぁ、そういうことになるよな」
「ヨウちゃんと外で会うのかぁ……想像すると、ちょっと緊張するかも」
「なんだよ。ミカが緊張するとか言ったらよ、俺まで緊張しちまうじゃねぇかよ!」
「あら? 人の目ん玉刺しちゃう人が緊張なんてしないでしょ?」
「俺だって人間なんだよ! 馬鹿野郎」
「あはは! でも、楽しみがうんと増えた! ヨウちゃんと金城さんのためにも、あたし頑張るね」
「おう。あのさ、なんていうかよ……何かあったらいつでも、相談のるからよ」
「言われなくたってそのつもりだよ。じゃあそろそろ寝るわ、ありがとね」
「おう、また明日な」

 ふと手元を見ると、スケッチブックがエントランスに置かれたままになっていた。呼び止めてやろうと思ったけど、少しでも早く寝た方がいいんじゃねぇかと思ってな、明日渡せばいいやって思ってエントランスで預かっておくことにしたんだ。
 仕事を交代して次の夜勤が始まって、俺はいつも通りに仕事を始めた。その日は出入りがあまり多くなかったから、誰が来たのか今でも全部覚えてんだ。
 最初に組幹部が一人でやって来て、変わりはないかって話した後にすぐ麻雀で負けたって話しになった。その直後に組の連中が政治家を三人案内。それからハルナが変態客を連れてエントランスを過ぎて行って、それに続いてミカも客を連れてエントランスを過ぎて行った。
 ミカは客にバレないように一瞬だけこっちを向いて、しかめっつらを浮かべた。そして、口元だけで「スケッチブック」と言ったのを見て、俺は大きく頷いた。エレベーターにそのまま吸い込まれるようにして消えた後は、後からどちらの客も組の連中に連れ添われて帰って行った。
 深夜を回った頃に空調のおっさんがやって来て、エレベーターに載って消えて行った。
 それから一時間くらいだった。銃声のような音が三発、上階から聞こえて来た。何か不味いことが起きたのかと思ってすぐに事務所に連絡したんだ。一応マンション内にも組員がいるから、奴らの方が流石に動くのが早かった。
 続けざまに発砲音が聞こえて来て、しばらくしてからエレベーターが開いた。
 ゆっくりと開かれたエレベーターには返り血を浴びた若い組員二人と、黒い袋が載っていた。それがすぐに死体を入れたものだと分かったけれど、初めて目にするそんな光景に俺はびびっちまった。マンションの前にすぐに黒塗りのクラウンがやって来て、黒い袋がトランクに詰められた。
 若衆が「もう一本、どうします?」と幹部に声を掛けていたけれど、幹部はそれを無視して俺の所へやって来た。麻雀で負けた話しをしてる時の陽気な感じじゃなくて、本筋の雰囲気を漂わせていたから俺は焦ったよ。

「大西、てめぇ今まで何を見て来たんだよ。ええ?」
「えっと、何があったんすか……ちょっとわかんなくって」
「てめぇがわかんねぇ訳あるかよ。さっきのガラだけどな、あのおっさんだよ」
「おっさんって……空調の?」
「ったく……まぁ、前から用意周到に仕込まれてたってことだな。プロ相手なのにうちの若いモン、よく仕留めたモンだ。組員に怪我がなかった分、良しとするけどよ。おまえはもうここに置いておく訳にはいかねぇからよ、今すぐに出て行ってくれ」
「えっと……そんな急に……」
「俺はおまえが好きだから言ってるんだ。頼むよ、今すぐ出て行ってくれ。な?」
「そんな、急に言われても……どういうことなんすか? あの、ミカは、ミカは大丈夫なんすよね?」

 あん時はまさかと思ってなぁ。息が荒くなって、頭に酸素が回らなくなっていたよ。有り得ないことだけどよ、俺は幹部のスーツを掴んで必死にミカの無事を確かめていたんだ。確かめていたっていうか、信じたかった。縋りついちまったんだ。でもよ、それってきっと自分本位の欲望ってヤツだったんだろうな。だからきっとよ、バチが当たったんだよ。
 降りて来たエレベーターが開くと、幹部はスーツを握る俺の手を包んだ。ヤクザの癖して、赤んぼを抱くみたいによ、俺の手を優しく包んでくれたんだ。

「だから、今すぐ出て行けってよ……守れんかった……すまんな」

 さっき外に出された黒い袋よりふた回りも小さな黒い袋が、俺の前を通って行った。
 エントランスから出された黒い袋は俺が縋りつく暇もなく、クラウンのトランクに載せられて走り去っていった。
 信じたくなかった。俺は何も、考えられなくなったよ。何があったのか考えれば考えるほど、ミカの楽しそうな顔が頭中に浮かんでは消えて行った。それ以外に、頭に浮かぶものなんて何ひとつなかったんだ。
 息が出来なくなった俺は、いつの間にかわんわん泣いていた。子供みたいに泣きじゃくりながら、こともあろうに幹部に問い質していた。

「ミカが何したって言うんですか!? ねぇ! おかしいでしょ! 喫茶店やりたいって、夢を持って頑張ってたんですよ!」
「……落ち着け、大西」
「本当に、ミカはイイ子っていうか、イイ奴なんですよ! ミカが殺されるなんておかしいっすよ! 誰が指示したんです? あのおっさんはヒットマンなんでしょう? 俺が黒幕のタマ取りに行ってやりますよ!」
「馬鹿言うな。ミカがイイ奴だなんてな、みんな知ってるんだよ。俺達だってな、悲しいんだよ」
「そんなはずないっすよ! 俺が一番悲しいに決まってるでしょう!? 誰が命令したんですか!? せめて教えてくれたっていいじゃないっすか!」
「おい、調子くれてんじゃねぇぞ」

 俺は幹部に突き飛ばされ、倒れた拍子に蹴り飛ばされた。先の硬い靴で何度も何度も蹴り飛ばされて、鼻血が出た。次に、口の中が切れて血を吐いた。身を護るために頭を庇うと、その瞬間に腹を思い切り蹴られた。人が痛がる場所を熟知している、重たく強烈な蹴りだった。
 しばらくすると髪の毛を掴まれ、立たされた。

「大西。ミカを守れなかったのは、すまないと思っている」
「…………はい」
「でもな、おまえに言えないこともある。それはな、おまえが知らなくていいことだし、知らない方がいいってことなんだ。わかるか?」
「ミカを……殺されたんすよ……わかりたく、ないです」
「おう、大昔に人の目ん玉刺したくらいで調子ブチぬかすなよクソガキがコラ。おまえはな、筋モンじゃねぇんだ。あんまりこっちに寄って来るってんならな、殺してでも俺はおまえを止めるぞ」
「…………」
「おまえは普通に生きていけ。な?」
「……はい」
「手配はしてやるから、今すぐここを出て遠くに逃げろ。分かったな?」
「はい……あの」
「まだなんかあんのか?」
「ミカのスケッチブック、預かってるんですけど……どうしたら?」
「見せろ」

 幹部はスケッチブックを開くと、まじまじと眺め始めた。突っ立たまま微動だにせず、最後のスケッチを少し手元から離してじっと眺めていると、その目が段々湿って来たように見えた。
 俺はなんだか見ちゃいけない気がして目を背けていると、「ごめんな」と呟く声が聞こえた。
 エントランスで幹部と二人きりで、少しの間だけ泣いた。

「すぐに清掃と回収入るから、それはおまえが持ってろ。いいな」
「ありがとう……ございます」
「本当はよ、何も残せないんだ。すまんな」
「はい……あの、これ絶対に大事にします」
「おう。墓まで持って行けよな」
「はい」

 俺はミカのスケッチブックを抱きながら、西へ西へと新幹線で向かった。
 もうこの世界にミカがいなことや、朝方のエントランスで話すことが出来ないことが、まるで信じられなかったぜ。遠くに見えていた富士山が近付いても、何の感動もなかった。
 あんな馬鹿みたいにデカイ山なんかよりもミカの語った夢の方が、俺を何万倍も動かしたんだとその時ようやく思い知った。
 潜伏先として案内されたのはホテルよりずっとドヤに近い安宿で、払いは全て組持ちだった。
「念のため」と観光地や大きな街への外出を控えるように釘を刺されていた。そうは言っても全くといっていいほど土地勘のない西の地で行きたくなるような場所も俺にはなかった。
 監禁生活のおかげで外に出ない生活は身体が慣れていたけれど、宿の中でじっとしていると次から次へとミカの姿が浮かんですぐに胸が塞がれるような想いになった。
 少しずつ近所を散歩するようになって、ある小さな寺の観音像に俺は何故か魅了された。
 じーっと観音様と向き合っていると、ミカは死んだんじゃなくて観音様になったんだと思えるようになった。
 みんなが安心出来る場所を作りたいと言っていた彼女の本音もなんだか観音様と重なって、その時から俺は観音様を大切にするようになった。
 それが俺が今でも、観音様を大事にする理由だ。

 あのスケッチブックはこのゴミ山の中にはないことは確実だ。俺はミカを失った若者からただの中年になり、仕事も転々とした末に家賃も都度未払いになって夜逃げを何度も繰り返した。
 だから、どこかのタイミングでミカのスケッチブックは置きっぱなしにして来たんだろう。本来なら俺がミカの代わりに夢をかなえてやりたい所だったけれど、俺が他人にとって安心出来る場所を与えたいかと言われれば、完全にノーだった。自分の安心でさえも四苦八苦しながらいまだに手に出来ていないこの俺が、他人のことなんかに構っていられる余裕なんか持てるはずもない。
 それに今はガストもコンビニあるし、街中に安心出来る場所が溢れている。少なくとも、何かのメニューさえ頼んでいれば店に居続けることが出来る。それで、十分じゃないか。
 そんな風に思うことで、俺はあのスケッチブックも、ミカのことも、記憶から遠ざけて来た。今も観音様を拝んでいるのだって、ミカへの後悔を払拭する為の行いだ。
 死んだ人間に今さら出来ることなんて、ただの一個もない。俺はそう、思っている。

 ゴミ袋だらけの俺の部屋は、結界そのものなんだ。世間の馬鹿共はこういう部屋を「ゴミ屋敷」なんて簡単にひとくくりにするが、俺のはそうじゃない。
 このゴミの一つ一つには、俺の魂が触れた痕跡が残されている。そいつらをあっさり捨ててしまうと、魔が差しに来るんだ。「魔が差す」っていうだろ? あの魔だ。
 俺は俺の魂を用いた結界を張っているからこそ、今も生きていられるんだ。もしも結界を張っていなかったら、とっくの昔に死んでいたっておかしくないんだ。それをゴミだなんだ小馬鹿にする理解不能者があまりにも多いから、そんな風に言う奴には俺の身の安全と生活の確保を保障しろと言ってやりたくなる。SDGsだのなんだの言っているが、あんなの上辺だけに過ぎない。いくら多様性だなんて言ったって、俺みたいな奴はいつも除け者にされるのがオチなんだから。

 全国を転々としている生活を送りながら二十幾年が過ぎた頃によ、たったの一度だけ故郷に帰ったことがあるんだ。
 その頃の俺はギャンブル漬けの毎日で、馬鹿みたいにカンタンに金が借りられる時代だったりしたんだ。気付いた頃には借金が雪だるま式に膨らみまくってなぁ、五万が十万、十万が二十、四十、気が付いたら二百万まで膨らんだんだ。当時の仕事って言ったって地方のちっぽけな倉庫で派遣作業員やってたくらいだからよ、 稼ぎなんてタカが知れていたんだよ。
 返済がストップして一ヶ月もすると、借金取りが家に押し寄せるようになったんだ。

「大西さーん、居留守使ったってダメですよー。出て来て下さいよー」

 そんな声が丸一日中玄関から聞こえて来るもんだから、家を出る時は朝の七時には出てよ、帰る時はアパートの周りに連中がいないか何度も確かめてから帰っていたよ。 
 ひどい連中になるとドアに「泥棒」なんて貼り紙をしたり、玄関の前で

「ご近所のみなさーん! 借りたお金を返さない人がここに住んでますよー! 犯罪ですよねー?」

 なんて、大声で喚き散らす借金取りまで居やがった。
 それでも負けの分を取り返そうとヤケになって、ギャンブルは頭では止められなかった。不思議なもんでよ、平均すると十回に一回は勝つんだよ。その一回がなぁ、爆発的な快感だったんだ。
 でも大負けしてるもんだからそのうち家賃も未払いになって、借金取りに加えて大家までやって来るようになっちまった。
 こうなると俺はいよいよ闇金に頼るしかなくなったんだけど、電話で事前審査申し込みしたニコニコファミリーっていうふざけた名前の闇金屋によ、こう言われたんだ。

「申し込み前ではございますが、お客様の属性では融資不可と思われます」

 信じられるか? イケイケ全盛期の闇金によ、俺は門前払いされちまったんだぜ? 自分でもびっくりしてよ、思わず電話口で笑っちまったよ。
 闇でも借りられない、金がないから借金も家賃も払えず、やがて携帯が止められる、そうなると派遣元から出勤確認が取れないからと勤務対象から外される。あれよあれよという間に、一気に底辺の底の底まで転落よ。 
 その頃に夜逃げすることを決意して、俺は故郷に帰ってみることにした。
 百万とは言わねぇ。一万円だけでもいいから、親か弟に借りられないか無心しようと思ったんだ。
 故郷に帰ってみると駅舎はえらい立派なモンに変わっていてよ、ロータリーまで出来ていやがった。でもよ、畑は荒れまくってたし、人の姿もほとんどなかった。茶色の空っ風にあちこちではトタンの塀がバタバタ音を立てていてよ、まるで廃墟みたいに感じたよ。
 俺は実家の在った場所へ行って目を丸くしたね。農家だったから造りは古い家だったんだけどよ、家そのものがなくなっていた。その代わりに真っ白くて大きな家が建っていたんだ。表札を見ると「桑田」って書いてあって、ピンポンしてみると「移住して来たから以前のことは分かりません」だってよ。
 かぁーって思って、面食らったね。仕方ねぇから誰か近所のモンでもいねぇかと思ったけどみんなジジイババアになって大半が死んでいたよ。向かいの家の田中って家のババアがまだ生きていてよ、訊ねて行くと俺の親はとっくに死んだって聞かされたよ。あのババア、煙草吸いながら吐き捨てるように言いやがった。

「ヨウちゃんね、来るのが遅すぎなんだよ。あんたみたいな親不孝者いないよ。あんたの親の代わりに言うけどね、もう顔も見たくない。さっさと出て行っておくれよ」
「田中さんよ、確かに遅すぎたと思うけどよぉ……こっちにだって事情ってもんがあんだよ。な?」
「あんたの事情なんてね、これぽちも聞きたかないね。まともな神経していたら親が死ぬ前に顔見せに来てやるのが筋だろうがよ」
「なぁ、陽二はどうしてるんだよ? 俺の弟の陽二だよ」
「陽二ぃ? あぁ、あのタコ助かい。あの子もあんたに似たのかグレにグレちゃってね、ヤクザモンになってどっか行っちまったよ。もう何年も前から行方不明だって聞いたけどね」
「ヤクザ? 組は何処の組なんだよ、なぁ」
「そんなもん、あたしが知る訳ないだろう!? あんたらと違ってね、こっちゃ健全な一般人なんだから!」
「…………」
「ふん、揃いも揃ってとんだ親不孝者だよ、あんたら。一応教えといてやるけど、父親の孝行さんが死んだのは七年前、母親の詠子さんが死んだのは四年も前だよ。孝行さんは葬儀やったけどね、詠子さんの時は面倒見る人間なんていやぁしなかったからね、行政が火葬場で直葬したんだとよ」
「あぁ……そうかい」
「墓も別々でね、詠子さんの骨は無縁仏みたいな合同墓っていうのかい? あれに入れられたって聞いたよ」 
「おいおい、墓があるのは知ってたんだろ?」
「知ってるから、なんだってんだい。こっちゃあね、いくらご近所ったってただの他人なんだよ」
「おい、バアさんよ。知ってたならせめて親父と一緒の墓に入れてやってくれたって良かったじゃねんかい? それが人間のすることかよ」
「誰が言ってんだい、この馬鹿タレが! あんたもイイ歳なんだからね、いい加減「恥」ってもんを知りな! そのツラ二度と見せんじゃないよ! ったく、気分悪い」

 ババアは俺に煙草を投げつけて、玄関を閉めた。ついカッとなって玄関を蹴飛ばすと、家の中から「警察呼ぶよ!」と怒鳴られて、俺は結局一円も借りられず、墓に行く気力もなく、一日中借金取りがウロつく安心なんてまるで出来ない自宅アパートへ帰って行ったんだ。

 ないもんは返せって言われたって返せないから、俺はバッグに着替えと観音様だけを入れて夜逃げした。逃げた先へもしつこい業者は追い掛けて来てよ、トムとジェリーみたいに全国を追い掛けっこしている気分だったぜ。
 そんなヤモメ暮らしが続いてから数年経ったある早春の昼すぎだった。
 やたらどんよりした天気の日でよ、たまたまありつけた雑工の現場の休憩中だったんだ。向かいのビルの屋上でクレーンが鉄骨を揚げているのをぼんやり眺めていたら、クラッと来たんだ。
 あ、こりゃあ脳の病気だな。一発で逝けたらラッキーラッキーなんて思っていたらよ、ドーン! と辺りが激しく揺れ出した。足場から工具やらペンキやらがいっぺんに落ちて来て、現場の人間は急いで造り掛けの屋内に避難したよ。
 揺れが止まると向かいのクレーンにぶら下がってた鉄骨がゆらーん、ゆらーんって信じられない揺れ方してたっけなぁ。
 現場連中は「関東大震災だ」なんて言ってたけどよ、その日の作業は即刻中止よ。早いうちから道路は渋滞しまくってて、駅まで送って行くなんて言われて乗ったバンがロータリーに着いたのは夜の八時を過ぎた頃だった。
 ドヤに帰ってテレビを点けると、津波で流される街の映像が色んなチャンネルに映し出されていたっけ。たまによ、「世の中全部めちゃくちゃになっちまえ」なんて思うことがあったけどよ、いざめちゃくちゃになっちまうとトンでもねぇんだって、その時よく分かったよ。

 それからしばらくしてから、俺は原発の作業員として福島入りしたんだ。半年の契約で三百万だって言うから喜んで食いついたらピンハネが凄かった。
 朝方になるとバスに乗って現場まで移動するんだけどよ、「ここが寮になります」なんて言われたのはごくごく普通の一軒家。それも生活感丸出しで、昨日まで誰か住んでたんじゃねぇか? って疑いたくなったぜ。
 自由時間はたっぷりありますよ! なんて謡い文句だったけど周りには何もねぇ、移動するにも制限があって自由が利かねぇ、とにかく「娯楽」と呼べるものが何もなくてよ、刑務所上がりの連中も「ムショなら本が読めた」って落胆してたっけ。
 これは金を貯め込むには持ってこいだと思ったけど、雀卓が持ち込まれたのが良くなかった。
 俺は負けに負けてよ、借金を多少でも返せるんじゃねぇかって希望を持って働きに行ったのに結果的にはマイナス抱えて作業終了日を迎えることになった。
 寮長の塩崎ってジジイがどえらいケチな奴でよ、一円でも回収しよっていつもムキになってたっけ。
 最後の日なんかお別れのバスに乗り込んだって言うのに、道中もずっと「千円だけでも今返せへんか?」って五回も六回も聞いて来やがった。セコいジジイでどうせロクな死に方しないだろうと思っていたけど、あのジジイはそれから二年後に山中で車ごと焼死体になって発見されたってニュースで観たな。

 仕事も金もないまま新しく転々とする日々が始まって、今日まで生きるか死ぬかの毎日をずっと繰り返してんだ。経済状況なんて変わるどころか年々苦しくなるばかりだけど、踏み倒した借金が取り立てられることもなく、あの手の商売をしていた連中は鞍替えをして今は家賃を回収する商売になったみたいだ。
 奴らの手口は、借金取りのそれそのままだ。少しでも入金が遅れると電話口では決まり文句のようにこう言われる。

「遅れているなんてのはね、分かってるんすよ。で、いつ払えます? 今月末、来月分と合わせて入金するって約束してもらっていいっすか? あと五日しかないんで急いでください。で、約束守れなかったら分かってますよね?」

 奴ら、こっちの話しや事情なんか一ミリも聞きやしねぇ。「お気軽に相談してください」なんてお気軽に電話したらよ、さっさと返せと来て、返せないなら出て行け、なんてザマよ。
 だから、俺だって頭に来ちまってんだ。返さないって言っているんじゃねぇ。返せないって言っているんだ。返さない、返せない、この違いは天と地ほどもあるんだぜ? 
 奴ら金には困ってねぇだろうから、苦しみってモンが理解出来ねぇんだろうなぁ。理解出来ねぇ癖に取り立てのようなお仕事ごっこをするから、かえって反発を生むってことを分かってねぇんだ。

 ペットボトルの小便を捨てて、水を汲んで帰って来ると、後はもうやることナシ。
 電気もガスも止まった真っ暗な部屋の中で、ゴミ袋ベッドの上で焼酎を原液でやりながら朝が来るのをただ待つだけよ。
 聞こえて来るのはカサカサとゴミの上を這う、ゴキブリの足の音だけ。俺が動きを止めてしばらくするとな、あちこちから這い出て来るのが分かるんだ。あいつらにとって、ここはきっとパラダイスなんだろうな。なにしろ外敵はいねぇ。餌は食べ放題。主人は叩き潰す気力もねぇと来たもんだ。
 もしも生まれ変われるならよ、俺もこの部屋のゴキちゃんに生まれ変わってのほほんと暮らしたいぜ。
 ゴキブリの方が食べるに困らない良い暮らししてるんだから、まいっちまうよ。

 朝になるとまだ八時半だっていうのに、奴らがやって来やがった。出勤早々ご苦労なこった。

「大西さーん。いらっしゃいますよねー? ちょっとお話しがあるんですけど、いいですかー? あのー、わたくし管理会社の堤と申しますー」

 コンコンコン。だなんて、お上品にノックなんかしやがって。そんなんじゃあ、滞納者はぴくりとも動かないぜ。もっと保証会社の奴らを見習えよ。あいつら、ドアなんか平気で蹴り飛ばすんだからよ。今となっちゃあ、ドアを蹴られる音が俺にとっての目覚ましだ。
 管理会社の野郎はお上品な割に粘り強さだけはいっちょ前だった。壊れた機械みたいに何度も何度もノックと同じセリフを繰り返して来やがった。

「大西さーん。いらっしゃいますよねー? ちょっとお話しがあるんですけど、いいですかー? あのー、わたくし管理会社の堤と申しますー」

 これでもう八回目の同じセリフだ。あの野郎、イカれてやがる。何が何でも出るまで帰らない為に体力温存型で俺と勝負しようってんだな。そっちがその気なら、俺だって負けてらんねぇ。
 昨日汲んだばかりの水をグイッと飲んで、ペットボトルをその辺に放ると空のペットボトルがボーリングみてえに散らばった。元あった場所には黒ゴキブリが四、五匹、固まって仲良しこよしで死んでいた。こんなに餌が豊富なゴキちゃんパラダイスで、集団自殺でもしたのかね。そんなことを想っていると、野郎のセリフが変わった。

「今日はお金のことではなくてですねー、現状解決のために参りましたー。お願いですから、お話し出来ませんか?」
「とうとう折れやがったかぁ? 俺はなぁ、払えないもんは払えないって言ってんだよぉ! ねぇもんは、ねぇ! 以上!」
「ですからー、大西さん違うんですよー。あのー、お金のことじゃないんですー」
「だったらなんだってんだよ! おめえさんが金でも払ってくれるってのか? あぁ!?」
「えーっと、私が払う訳じゃないんですけどぉー、払ってもらえるかもしれないですよーってお話をしに来たんですけどー」
「はぁ? 詐欺だろ! さては、おまえ詐欺だな!? 俺はな、騙されないぞ! 観音様、どうか私をお守りください観音様、どうか私をお守りください」
「え? なんですって?」
「観音様にお祈りしてんだ! 話し掛けんじゃねぇ!」
「はーい。終わったら声掛けてくださーい」

 観音様にお祈りを終えて二十分。こっちからは声を掛けずに黙っていると、物音がしなくなった。
 詐欺野郎がやっと帰ったことに安堵して、「あーあ」と溜息をつくと声がした。

「もういいですかー?」
「てめぇこの野郎! まだいやがったのか!」

 なんてしつこい野郎なんだ。いっちょ対峙してやろうかと思って玄関を開けると、背が低くてずんぐりむっくりな体型のもじゃもじゃ頭の若造が立っていた。スーツは着ているがあまり似合ってなくて、ガキの七五三みたいに思えた。

「あぁ? なんだ、子供か?」
「いやぁー、これでも二十五なんです。うっわー、きったねぇー。ぐへえええ、すっげーきたねーっすね」
「ふん。これはな、結界なんだよ」
「確かに。死んでも入りたくないですもん。なので、ここでお話しさせて頂きますね」
「おう、どんな詐欺話しか聞かせてみろ。論破してやる」
「いやいやいや。本当に管理の人間なんで。あ、お話し出来ないなら即刻出て行ってもらって、修繕費を全額お支払い頂きたいくらいなんですけど、如何しましょう?」
「……だから、話せよ」
「はい、じゃあよく聞いていて下さいね」

 聞いた。けれど、半分も理解出来なかった。生活コンキュー、保護セード、家主にもメリット、定額きゅーふ家賃上限クリーヤー……生活保護のことを言っているのは分かったが、制度の仕組みやら単語がまるで理解出来なかった。
 全く訳が分からないまま「うんうん」と聞いていると、俺は聞いたこともないセンターへ連れて行かれていた。ケースワーカーがなんちゃらと言っていて、俺は堤と一緒にそのケースワーカーとかいう怪しげな奴に会うことになった。
 やって来たケースワーカーとか言う無愛想女はこなれた様子で俺の生活状況を聞き取りした。

「仕事もなされてない、親族も亡くなっていて弟さんとは音信不通。他に頼れる方もいらっしゃらない?」
「いる!」
「お名前、連絡先伺えますか?」

 無愛想女がそんなトチ狂ったことを聞いて来やがったから、俺はバッグの中から観音様を取り出してカウンターの上にドン! と置いてやったんだ。そしたらケースワーカー女、鳩が豆鉄砲で射殺されたみてぇなツラになりやがった。どうやら高尚なものが理解出来ねぇらしい。

「……なんですか、それは」
「なんですか、じゃねぇ。俺が一番、頼れるお方だ」
「はぁ~……わかりました。もういいです、しまって頂いて結構です」
「なんだと!? ちゃんと見ろよ馬鹿野郎!」
「はいはい、見ました。神々しいです。それで、今日はご本人様を確認出来る証書などはお持ちでしょうか?」

 あれよあれよと手続きやら確認やらが進んで、俺は訳が分からないまま生活保護を受給することになった。
 条件としてはハローワークに通ったりしながら就労を目指すことと、肝機能が障害一歩手前なので必ず通院すること、とかがあった。元々激安物件だったものの、これからの家賃の払いはどうしたら良いか訊ねてみるとなんと家賃まで面倒を見てくれるとのことだった。
 ただし単発でバイトをしたら保護費っていうのから差し引かれたり、無断でバイトをしたら不正受給になって打ち切りになるとか、とにかく小難しくて細かな条件も付けられた。

 数日後に書類を持ってやって来た堤が、玄関先でこう言った。

「大西さん、よかったですね。これで保証会社に追い掛けられなくて済みますよ」
「おう、なんだか助かっちまったなぁ。ありがとな。あんた、住んでる人間まで管理してくれるとは立派だよ。だってよ、ただの管理会社の人間なんだろ?」
「まぁ、そういう感じっすかねー。で、お約束の件なんですけど」
「おうおう、分かってるよ。支給日になったらあんたに一万円振り込む、で良いんだよな? 元々文無しだったんだからよ、安いモンだよ」
「ええ。それでよろしくお願いします。また支給日になったら来ますから」
「よろしくな。まったく、詐欺野郎だなんて疑っちまって、悪かったな」
「いやー、流行ってますからねぇ。じゃあ、また連絡しますんで」
「はいよ。ご苦労さん」

 堤の気のイイ野郎はボサボサ頭を揺らしながら帰って行った。あんな気持ちのいい野郎だらけなら、きっとこの世界はもっと住みやすくなるんだろうがよ。

 保証会社のクソ共が取り立てに来なくなってから、俺は少しずつ部屋を片付け始めた。結界を張る必要がなくなったからだ。観音様も毎日ピカピカに磨いて、生ごみが底に溜まって腐臭を放つゴミ袋も燃えるゴミに出すようになった。
 きったねぇ床が見えて来たある日、スポンジで汚れを落としているとチャイムが鳴った。
 今さら何かの取り立てに来る奴がいただろうか? ガス代の払いが二日遅れているから、まさかガス屋が取り立てに来たんじゃねーかと思って魚眼レンズを覗いて見ると、俺と同じ歳くらいの細身のオッサンが立っていた。仕立ての良さげな赤いネルシャツに、高そうなジーパン。俺にこんな上品な知り合いはいなかった。
 ドア越しに「どなたですか?」と訊ねてみて、返って来た声でそれが誰なのか、俺にはすぐにピンと来た。

「ヨウちゃんか?」
「…………」

 間違いない。この声は、ジョウの野郎だった。俺自身すっかり忘れていたけれど、金の無心の為に奴の住所を思い出しながら手紙を出したんだった。
 あれきり、返事が来ないとは思っていたがまさか本人が来るとは思いもしなかった。
 なんとなく、今の心持ちなら玄関のドアを開けられそうな気がした。何十年ぶりに、「ジョウちゃんさぁ」なんて笑いながら、話せそうな気もした。
 心のひだに引っ掛かったきりになっていた謝罪も、出来るんじゃないかと思った。ジョウちゃんと、頼子さんにしてしまったこと。それが後悔を生んだことも、素直に話せる気がした。
 ドアノブに手を掛けて、深く息を吸い込んだ。五十も半ばを迎えて、取り立て以外で今さら人生でこれほど緊張することがあるとは、自分でも驚いた。

「ヨウちゃん、開けてくれよ」

 返事はせずに今一度、魚眼レンズを覗き込んだ。ジョウちゃんはジーパンのポケットに手を突っ込んで、不安げな様子で辺りを見回していた。如何にも、「こんな所に住んでいるのか」と言いたげな雰囲気だった。ただ、それ以上に俺のことを本当に心配で来てくれたんだろうというのが、正面を向いた顔から伝わって来た。恰好こそ若々しかったけれど、髪は白髪がほとんどになっちまって、目尻も頬も皺だらけになっていた。首筋にもたるんだ皺が浮かんでいた。でもな、ジョウちゃん。俺もだよ。俺も、おまえと同じ分老けて、同じように何処にでもいるオッサンになっちまったよ。いや、俺の場合はもっとひどいモンだ。だから、俺になんか関わっちゃいけない。手紙を送ったのは確かに俺の方だけど、ジョウちゃんはもう俺と生きている世界が違うんだ。こっちに少しでも関わったら、俺は骨の髄まで縋りついてしまうかもしれない。おまえは、きっと幸せなんだろう。だから、ごめんな。

「ヨウちゃんじゃないです、あの……違います」
「ヨウちゃん? なぁ、ヨウちゃんなんだろ?」
「すいません、違います。うちは、後藤です」
「…………」

 馬鹿だよ。本当に、俺は相変わらずの大馬鹿者だよ。わざわざ声色まで変えちまえやがってよ。なんで、ドアノブを捻って開けてやれないんだろう。久しぶりだな、おまえも老けたなって、笑ってやれないんだろう。ずっと会いたかったって、言えないんだろう。
 魚眼レンズの向こう。ジョウちゃんは歯を食い縛って、涙を浮かべていた。俺が全部悪い癖に、俺もきっと同じような顔をしていたかもしれない。
 顔を擦ったジョウちゃんは、何も言わずに立ち去って行った。
 勇気が出ずに大きなチャンスを投げ捨てた俺は、心底自分の馬鹿さ加減を恨んだ。

 ポストにはジョウちゃんからの手紙と、三十万が入った封筒が入れられていた。
 手紙には、こんなことが書かれていた。

『ヨウちゃん、手紙をもらった時は驚いたよ。もしも今日留守にしていたらと思って、手紙を残しておくよ。お金は大した額じゃないけれど、どうか気にせず使ってくれたらいい。
君から絶交を告げられたあの日が、僕にとっては忘れられない一番大きな悲しい出来事だった。
もう二度と会えないだろうと思っていた。
だから、こんな金の無心でも僕を頼ってくれて、嬉しかった。

頼子さんのことを覚えているか?
僕は高校を卒業して、慶応へ進んだ。卒業後は当時まだ黎明期だったIT産業に就職して、今は自分の会社を立ち上げて従業員達をなんとか食べさせてやることも出来ているよ。
頼子さんは、今も僕の人生のパートナーだ。
きっと君は高校受験が終わった後で交際をスタートさせたと思っているだろう?
それは違う。僕と頼子さんが交際を始めたのは社会人になって、同窓会で会ったのがきっかけだった。

中学三年時、頼子さんは僕のあとに君の家へ通っていたそうだね。
後から初めての相手が君だと聞かされて、僕は激しい嫉妬と共に妙な安堵を覚えた。
またヨウちゃんに先を越されてしまったと思いながらも、何故か嬉しかったんだ。

あの頃の頼子さんは君と僕とを天秤にかけていたそうだよ。彼女、おとなしいフリをしていて実は本当は気が強くて生意気な人なんだ。
おかげで今だって振り回されっぱなしだよ。
君が初めての相手で、乱暴だったけれど彼女は後悔していないって言っていた。だから、君も後悔なんてしてくれるな。
もしも後悔なんてしていたら、彼女の夫である僕が君を絶対に許さないからな。
これを読んで尚、後悔なんてするようであればその時こそ本気で絶交だ。

小学校の頃からいつも先頭を走るジョウちゃんはいつもカッコよくて、羨ましかった。
誰の意見にも耳を貸さないで、先輩にだって立ち向かえる勇気や情熱が、僕にはなかった。
あの時、僕は君を庇ったつもりだったけれど、結果的に君にすべての罪を擦り付けるような恰好になってしまった。
本当に、申し訳なかった。
君の言う通り、僕は優等生を演じることで君のように誰かの注目を浴びたかったのかもしれない。
あの事件が起こる前まで、君は本当にみんなから愛される天才だった。

そんな天才と共に過ごし、笑い合い、時に傷ついたり、共に障害を乗り越えた以上の経験というものを、僕は大人になった今も他では見つけられていない。
まだ知らぬ海外に旅行に出ようが、著名人達とパーティーを開こうが、君と共に畑を駆けまわって怒られたり、屋根から飛び降りた時の高揚感に勝るものはひとつもないんだ。

僕はそれこそがきっと、この世界の真実のような気がしてならない。
永遠の親友よ。
またいつか何処かで必ず笑い合おう。高らかに、そして大らかに。

本間常より』

 手紙を読んで、俺は不覚にも泣いてしまった。俺はやっぱり、大馬鹿野郎だ。
 それに、ジョウちゃんも頼子さんも元気でいてくれたことが、何よりも嬉しかった。知らない間に勝手に後悔して、知らない間に許されていた。少しだけ手を伸ばせばすぐに分かりそうなそんなことさえ、俺は四十年も放っぱらかしにしていたんだ。
 どうか、おまえもお元気で。返事は出さない代わりに、一人で呟いた。
 当然ながら、誰の声も聞こえやしなかった。

 金は現金書留で送り返した。もらう訳にはさすがに行かないと感じたし、不正受給ってやつになるのもご免だった。
 ただ、三十万のうち返したのは二十万だ。十万はきっちりと、競馬で溶かした。
 ジョウちゃんがいつかそれに気付いてやって来た頃に、そんな下らないことに使ったのかと怒れるように、きっちり負けた。
 けれど、きっと来ないだろうなという気もしていた。来るかもしれないと心の隅に残しておけば、何となく明日の糧になりそうな気がしたんだ。
 ジョウの野郎も怒ると案外おっかない所があるから、その顔を見るまでは生きる目標が一つ出来た。

 ハローワークへ通う以外に一ヶ月も何もしないで暮らしているのに、金が振り込まれた。
 家賃を差し引いた分が振り込まれていて、俺は心底国の制度ってものの有難みを知った。
 ゴミ袋もほとんどなくなって、床に敷きっぱなしにしていた色んな物が滲み込んだ布団も捨てた。今はインターネットで物が買えるっていうんで、ケースワーカーの無愛想女に使い方を習って五千円の布団セットを購入した。本当は一万円の羽毛入りが希望だったのに、こんな茶々を入れて来やがった。

「大西さん、一万円の布団なんて買ったら、生活費大丈夫なんですか?」
「大丈夫大丈夫。俺ぁ摂生の魔術師って言われてんだから」
「いや、安パイでいきましょう。こっちの五千円の布団で十分ですよ。ほら、評判もイイですよ」
「かぁーっ。そんなモンまで口出すかねぇ……あ、一万円で思い出した。一万円振り込まないとだ」
「振り込み? 誰にですか?」
「ほら、爆発頭のあんちゃん、いただろう? 手続き料ってことで、支給日に一万円払うことになってんだ。だってよ、そういうモンなんだろ?」
「大西さん。その話、詳しく聞かせてもらいます」

 ケースワーカーの無愛想女が堤に連絡したらよ、堤が手違いだか勘違いだかなんだかってんで、手続き料も払わずに済んだんだ。おかげでこっちゃラッキーラッキーよ。無愛想女は規定がどうの、本来行政制度において保護費における手続き料などなんちゃらかんちゃら言ってたけど、俺はまるで聞いちゃいなかった。
 とにかく、払わずに済んだってことさ。

 布団を敷いて寝るようになると、なんとなく人間の生活を送っている気がした。
 電気も点くし、ガス代を捻れば火もちゃんと出る。水だってな、蛇口から出るんだ。まぁ、今でも川から勝手に汲んでる水をなんでタダにしねぇのか理解不能だって点は変わっちゃいねぇけどな。
 あらかたゴミを捨て終えて、押し入れの中に突っ込んだままになっているゴミ共もえいや! と片付け始めた。保証会社との戦いもないし、とにかく暇だからよ、掃除くらいしかやることがねえんだ。
 押し入れの中にあった拾いモンのバッグやら服やらも引っ張り出して、どんどん捨てた。俺は気付いたんだけどよ、一年通して使ってねぇモンってのは、この先も使いようがねぇモンってことなんだ。
 どうだ? 中学中退みたいな癖して俺って頭イイだろ? 体験と経験がモノを言うってやつだな。

 バンバン色んなガラクタを引っ張り出して捨てちゃあしていたら、ある物が出て来て俺は驚いた。まさか、と思ったけどよ、まさかだった。
 薄緑のスケッチブックが出て来たんだよ。ずっと昔に何処かで失くしたと思っていた、ミカのスケッチブックが出て来たんだ。
 ガラクタに押されて金具がひん曲がっちまっていたけどよ、中は綺麗なままだった。
 ミカと話し合いながら想像で作った喫茶店が、描かれていた。他のページには俺とミカの落書があって、面食らっちまったな。

 ミカ→将来の夢「みんなが安心できる喫茶店」 
 ヨウスケ→俺の夢「そこの従業員」
 ミカより、ヨウちゃんへ→なら、さっさと珈琲の勉強しろ

 だってよ。思わず噴き出して笑っちまったよ。本当、懐かしいなぁ。懐かしいって距離まで、来ちまったんだな。なぁ、ミカ。
 また一緒に、笑いてぇな。あのクソハゲの変態がさぁ、なんて愚痴聞いてよ。幹部が来た時はたまにはビッとしてよ、そんで、朝方の白んだ空を横目にまだ時間あるよな、なんて思いながらどんな喫茶店にするのか話し合うんだよ。こんなアイデアがあるっておまえが意見出したら、俺は金城のオッサンにそれを伺いに行ってよ、おまえに金城のオッサンの意見を伝えるんだよ。
 なるほど、じゃあこれはオッケーだね。これはダメだ。なんて、真剣な顔してるおまえを眺めて、あんまり分かっちゃあないけど俺も「うん、うん」なんて頷いてよ。
 そんな日々が、あったんだな。そんでもって、もう戻れないんだとよ。一緒に笑うことも、話すことも出来ねえんだ。
 悲しいよな。俺だけが老けちまって、ごめんな。外で会ってみたかったな。おまえ、緊張したのかな。でも今じゃあ、こんなオヤジになったから緊張もクソもねぇだろう。なぁ? それとも、気持ち悪いって笑われちまうかな。
 馬鹿! ってしょっちゅう言われてたっけな。本当、その通りなんだ。
 でも、近頃思うよ。おまえが言ってた「みんなが安心出来る場所」ってことがよ。
 安全ってことじゃあねぇんだよな。肩の力が少し抜ける程度の、そんな場所で良いんだよな。
 今さら分かったってしょうがないよってか? だから、おまえに馬鹿だって言われちまうんだよな。

 桜の季節になった。街はどこへ行っても観光客の外国人で溢れ返っていて、俺は不良外人がいねぇかチェックしながら作業所へ向かっている。
 この前も外国人カップルに話し掛けられてよ、奴ら図々しいから日本にいるのにイングリッシュで話し掛けて来やがるんだ。

「ヘイ。ウェアイザステイション、オンザトウブイセサキライン?」
「おうおう! オーケーオーケー! ハローセックス、ニイチャン、ネエチャン、ワタシとダブルセックスオッケーオッケー!」
「オーマイゴォ……」

 奴ら、俺にビビって逃げて行ったよ。ありゃあきっと「金を出せ」って言ってたんだろうな。目で分かったぜ。言葉は通じなくてもよ、目を見ればなんだって分かるからよ。
 作業所の帰りに柄じゃあねぇけど、便箋なんて買っちまった。さんざ悩んだけど、ジョウの野郎に一筆かましてやろうと思ってよ。まぁ、頼みたいことが出来たからなんだけどよ、奴にしか頼めねぇからな。
 あの幹部との約束がまだ生きてるから墓なんかどうせ要らねぇけど、せめて俺が死んだ時にはスケッチブックも一緒に棺桶に入れてくれってな。それだけお願いしようと思ってんだ。
 文字が下手だし学もねぇから、図書館で辞書まで借りちまったんだ。
 ついでに「珈琲の淹れ方」なんて本も借りてみた。夕暮れ時で天気も良かったからよ、図書館のすぐ側の公園で座って珈琲の淹れ方の本を読んでみたんだ。
 豆にしたって淹れ方にしたって、こんなに種類があるなんて俺ぁ知らなかったね。豆にお湯ぶっ掛けりゃ珈琲になるとばっかり思ってたんだよ。
 ミカはこんな難しいこと勉強してたのかと思って、感心しながら読んでいると若い娘っこに話し掛けられたよ。

「すいません。もしかしてバリスタさんですか?」
「バリのスター? 違う違う。ジャパニーズ、スター。俺、ほとんど無職」
「そうですか。頑張ってください」

 娘っこは笑いながら行っちまったけど、そんなに無職が珍しいのかねぇ。
 何がおかしかったのか分からなかったけどよ、読み進めているうちに「バリスタ」ってのがバリのスターじゃなくて珈琲を淹れるプロだって書いてあって、俺は恥ずかしくて叫びたくなったよ。
 何がジャパニーズ・スターだよ、馬鹿野郎。
 でもよ、ひょっとしたらさっきの娘っこもミカみたいに喫茶店をやりたいって夢があんのかもしれないよな。
 五十半ば。珈琲の「こ」の字も知らないけどよ、負けてらんないって思ってみてもイイもんかね?
 え? ナメんじゃねぇよってか。なんて、ミカと心の中で少し話してみたんだよ。
 桜の花弁が本に向かってどんどん飛んで来て、そのうち邪魔くさくなったから帰ってゆっくり読むことにした。
 家に帰ってからはスケッチブックを広げて、落書の続きを書いてみた。

ミカより、ヨウちゃんへ→なら、さっさと珈琲の勉強しろ
ヨウスケより→うるせぇ! コーヒーの本借りて来た。たまには、ほめろ

 そういや最近、観音様に手を合わせてねぇな。
 そんなことをふと思いながら、俺は本に挟まっていた桜の花弁と一緒にスケッチブックを丁寧に閉じた。

【あとがき】

この作品はまだまだ整える必要があるんですが、とにかく一旦外に出したいと思い、出してみました。
近いうちに直します。
伝えたいことなんかないと普段言っていますが、そんな訳ないことは多分読んで下さっている方には伝わっているのかと思います。
お付き合い頂き、感謝。

この小説を書くにあたり、取材協力して頂けたプラム宝玉堂さんへ感謝申し上げます。

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