【連載小説】 夕刻に死す 【全十話/第八話】

 クリスマスイヴの金曜日。仕事を終えた鶴巻と広瀬の中年男二人組は、多くの買物客でごった返すスーパーの中で肩を寄せて歩いていた。

 母親の死を葬儀後に知らされて以降、広瀬の目は生気が欠いたように見えていた。家を勘当されていた自分の行いが招いた結果と分かっていながらも、心の整理がつかず、仕事に没頭して気分を紛らわす予定だったのだが、繁忙期を越したハート物流に年内中に仕事らしい仕事は特になく、モップと箒を手にさして広くもない庫内をウロつく毎日なのであった。  

 普段ドカ食いの広瀬は家に帰っても食欲すら殆どない様子で、鶴巻と男二人の晩酌も早仕舞いにして、早々と布団を被って寝てしまうのであった。

 それが二十四日の昼過ぎになってから突然明るい声になったものだから、鶴巻は広瀬の様子を見て「反社野郎がどうせシャブでも打ったのだろう」ぐらいに思っていたのであったが、彼の身体は至ってクリーンであった。

「鶴ちゃん、今日はイヴだっぺな!」
「イヴ? なんだ、パチンコ屋かキャバクラか、それは」
「違うべなぁ。クリスマス・イヴだっぺなぁ!」
「あー、そんな日もあったっけね」

 鶴巻はクリスマスと聞いて、ぼんやりと過去を反芻し始める。息子がまだ幼かった頃、ラジコンヘリをせがまれてクリスマスに玩具屋へ足を運んだことがあった。

 あの頃はまだギャンブル沼の入口に立っていて、経済的にはまだ余裕もあった頃だ。
 息子が「どうしても欲しい」とせがんだラジコンヘリよりも、もっと高価で大きな物が店に在る事に気付いた鶴巻は、息子が「小さい方がいい」というのを無視し、そちらを購入して息子に手渡した。
 しかし、大きくて高価とはいえ本来欲しい物では無かった物をプレゼントされた息子は浮かない表情でそれを受け取った。

 その事に腹を立てた鶴巻は玩具屋を出てすぐの角を曲がり、人通りがない事を確認すると、まだ幼い我が子の脳天目掛けて真上から本気の拳骨を食らわせたのであった。
 雪にならない雨の降るアスファルトの上に、子供が抱えていた箱が落ちる。ラジコンヘリを包むクリスマス仕様のラッピングはすぐに濡れ、ぐしゃぐしゃになった。

「要らないなら最初から要らないと言え! 気分の悪い顔しやがって!」

 そう叫び、鶴巻はぐしゃぐしゃになった箱を思い切り蹴飛ばした。雨に濡れたラッピングはボロボロに剥がれ、蹴飛ばされた箱からはラジコンヘリの羽根が飛び出し、黒く雨を弾いていた。
 その傍で白い息を吐きながら泣き崩れる息子を置き去りにし、鶴巻は街の中を進んで行った。
 息子を置き去りにして向かった先は、パチンコ屋だった。

 鶴巻は自身の息子のことを今思い出してみても、所詮は金玉袋の中を泳いでいた雑魚一匹、本当に可愛げのないクソガキだったと心中で罵り出す。
 自身の恥を憶えているならば、例え息子であろうとも即日すぐにでも死んでくれと呪いさえ掛けるのであった。

 スーパーでクリスマスチキンとケーキ、そしてトリスウィスキーを買い込み、下らない世間話で夜を越していた二人であったが、悲しいかな。中年の胃袋をクリスマスメニューは容赦なく疲弊させ、飲み食いを始めて一時間もしない内に二人は床に入る準備を始めるのであった。
 チキンの包装紙に書かれた「Merry X'mas」という文字をぼんやり眺めながら、鶴巻は「こっちゃ苦しみますだよ」とぶつぶつ言いながら三分の一を残したチキンをゴミ袋に投げ入れた。
 布団を引きながら、赤ら顔の広瀬が「そういえばよ」と前置きして話し始める。

「明日は朝の汽車でクニに帰るからよ、七時には出てくからな」
「ほう、そうか。じゃあ六時には起きなきゃだな」
「いやいや。鶴ちゃんは寝てても構わねぇけども、俺がいねぇ間は戸締りだけ、よろしく頼んだよ」
「うん、まぁ任しておいてくれよ。大丈夫だ」

 ふむ。田舎ヤクザは七時に出て行くのか。そうか。

 そう思いながら広瀬の就寝後に床に就いた鶴巻であったが、朝の四時半には起床していた。
 全ては計画通りであった。
 音を立てないように静かに身体を起こすと、福島に帰る為に必要になると言っていた豚の貯金箱、すなわち二人の共同貯金箱がテレビの前に置かれたままになっているのを確認する。

 皮が剥がれてボロボロになったボストンバッグのジッパーをやはり、音を立てないように静かに開けると、テレビの前の貯金箱にそっと手に伸ばす。何度も何度もイビキを掻いて眠りこける広瀬に目を遣りながら、貯金箱をボストンバッグの中へ仕舞うと、少しの物音も立てないようにしてそっと立ち上がり、玄関を出た。

 まだ真っ暗な冬の朝方の空気は肺まで凍えそうなほど冷え切っていたが、無我夢中の鶴巻にとってはそんな風情など感じている余裕などなかった。アパートの階段を下り、女子大生にゴネて三千円で購入した中古自転車に跨ると、駅を目指して一心不乱に漕ぎ始める。

 立ち漕ぎなどしたのは一体、何十年ぶりだろうか。凍てつく空気も体内に入るとすぐに熱せられ、国道にはトラックしか通らぬ冬の朝方だというのにも関わらず、両脇から中年汗が止まらず噴出して来る。
 思えばここ二ヶ月余り、日課であったギャンブルを必死に自制して過ごして来た。広瀬の前で一日も早い自立を目指ながら、如何にも節制を心掛けているポーズを見せつける意味もあったが、本来の目的は異なっていた。

 十二月二十五日。

 それは、有馬記念の日。世間の「クリスマスドンちゃん馬鹿騒ぎ」などハナから頭にない鶴巻にとって、有馬記念は年に一度のこれだけは外せぬ大祭の日なのであった。
 わざとらしく半額フライなど買って来たと広瀬に報告をしたのも、したくもない掃除や炊事、そしてギャンブルを節制して見せていたのも、全てはこの大祭の為であった。
 豚の共同貯金箱は広瀬が福島へ帰郷する事となったずっと以前から、この日の為に使おうと画策していたのだ。

 なぁにが共同貯金だ、えっらそうにあの東北黒ゴキブリめ。散々この俺を恫喝してくれて、今までこき使いやがって。低学歴クソヤクザのおまえとの貧乏生活も、貧乏飯を折半し続ける地獄生活も、これでおしまいだ。俺は今日、大勝ちして人生を変えるんだ。いや、変わるんだ。もうそれは、決まり切っていることなのだ。おまえはどうせ福島に帰れずに「だっぺなーだっぺなー」と泣き喚くだろうが、ヤクザをやってた所為で実家から勘当され続けていた挙句、親の死に目にも会えなかった。それが死んだ途端に線香を手向けに行くだなんてな、調子が良過ぎるってもんだ。行かれた方だって迷惑するに決まってるんだ。死んだ人間に出来ることは何も無し、今を生き、明日を変えようと奮起する俺の為にこそ、この共同貯金の存在意義があるってもんだ。だから、俺がありがたく使ってやるからおまえは大人しく家でセンズリこいて眠ってろ。おまえが外へ出るだけでも俺のようにお天道様の下を歩ける人様に迷惑が掛かる事を忘れるなよ、この反社ゴキブリめ!! 死ね!!

 そう意気込んで始発電車に乗り込み、着いた先で早々と酒を煽り、人目のつかないガード下で共同貯金であった豚の貯金箱を叩き割った。二人で貯めた貯金箱に二十万近くの軍資金があることを確認した後、忌々しげな表情で割れ散った豚の欠片を蹴飛ばした。
 街へ繰り出すと再び酒を煽り、競馬場では丸めた新聞紙をぐるぐると回しながら馬の耳に念仏とは知らぬ様子で本気の声援を送り続け、陽も傾き掛けた夕方前になると、鶴巻は半ば意識を失くし、呆然としながら競馬場のベンチに腰掛けていた。

 貯金箱の中にあった二十万を注ぎ込んだ結果、手元に残ったのは僅か千五百円。あまりに熱を入れ過ぎた結果、一度は大勝ちしたものの、欲をかいて大損も大損をこき、予定ではせめて軍資金分だけでも回収し、形だけ広瀬に詫びを入れて何事もなかったように新しく購入した豚の貯金箱をテレビの前へ戻す予定だったものが、全て、煙のように消え去った。

 不気味なのはきっと朝から怒り心頭であろう広瀬からはただの一度の連絡も入らず、メールさえも入っていない事だった。
 朝起きて貯金箱が無い時点でキレ狂うに決まっているだろうと踏んでいた鶴巻にとってこの展開は予想外であり、広瀬が今どんな心持ちでいるのか見当もつかなかった。

 福島へ行けずにきっと家にいるであろう広瀬の待つ家には帰り辛く、鶴巻は野宿をして過ごそうとロクに知らない街の夜を彷徨い始める。
 しかし、あまりの夜の冷たさにロングTシャツにボロボロの釣りベストという軽装備状態の鶴巻は吹き荒ぶ寒風に耐えかね、夜の十時を回った頃に顔面をめちゃ糞に粉砕される覚悟で広瀬の待つであろうアパートへ足を運ぶのであった。

 アパートへ着き、なるべく音を立てないようにそっと部屋に帰ろうとすると、部屋に灯りが点いていなかった。福島に帰れず、これといった趣味もない広瀬のことだから、どうせ酒でも飲んで寝たのだろうと思いつつ、頭を下げる準備だけしてインターフォンを押してみたものの、中からは何の反応も無い。
 もしかして不在なのだろうか? 念の為に確認した電気メーターは回っていない様子で、鶴巻は部屋へ入れない事を想像して怒りで肩を震わせた。

「おいおい、冗談じゃねーぞ」

 そう独り言を呟きながらドアの隣に据え付けられた給湯器のカバーを開けると、ガスメーターの上に予備の鍵が置いてあるのが分かり、安堵の溜息を漏らす。
 鶴巻は鍵を使って部屋の中へ入ったが、やはり電気は点けられておらず、広瀬の姿は部屋の何処にも無かった。
 荒れ狂って何処かへ飲みにでも出掛けたのだろうか? そんな事を想像しながら台所の収納扉から甲類焼酎の四リッターペットボトルを取り出すと、何の割材も入れずに秒速でグビグビとコップ酒をやり始める。
 そして風呂にも入らず、布団も引かず、暖房を三十度の「強」にしたまま酩酊し、床で眠りこけるのであった。

 その翌日の夕方になってから、広瀬は帰宅した。 
 玄関を開けると狭い廊下で土下座して待ち侘びていた鶴巻の姿に、広瀬は堪らず苛立ちを爆発させそうになる。浅い溜息を吐き、こうなることは何処かで覚悟していたが、一縷の望みを託し、こんな言葉を鶴巻に掛けた。

「なぁんだよ、鶴ちゃん。家決まったならさ、そう言ってくれたら良かったんによ」
「いや……あの金なんだけど」

 その物言いに、広瀬は落胆した。しかし、崩れ落ちそうになる心を、無理にでも掴み上げて必死に堪えた。

「ははっ。あれはほら、鶴ちゃんが自立する為に使う金だって、そう言ってたっぺ? 俺の方は、親孝行したくてもおふくろ死んでしまったしな。ほら、新しい住所、書いてくれよ」
「…………」
「福島はなぁ、寒かったよぉ。雪も降ってたけどさ、いとこも元気しててなぁ。もう二十年も会ってなかったんだ」
「すまん……」
「こっちの金はさ、何とかなったんだ。朝起きたら鶴ちゃんはいねぇし、貯金箱がねぇんだもん。驚いたいなぁ」
「本当、すまん……」
「まぁ、いとこに頭下げるつもりで電話したらな、とにかく片道だけでも来てくれたら金は工面するってんで。行きは何とかなったし、金は返さなくて良いって言われたけんど、申し訳なくて借金して帰って来ちまったよ、ははは」
「あの金なんだが……その」
「もう、頭上げてくれよ。な? もうすぐ正月だでな。めでたい話でもしたい所だけんど……なんだか、ちょっと疲れたな」
「本当、すまんかった……!」
「鶴ちゃん、あのよ」
「はい……」
「オメの「すまん」はもう信用ならねーからよ、謝ってくれなくていいよ。疲れるだけだから、やめてくんねーかな?」
「……じゃあ、何て言えば……」
「何も言わんでいいから、早く出て行ってくれよ。な? こっちゃ正月くらい、ゆっくり過ごしてぇからさ」
「……」

 広瀬は頭を下げたままの鶴巻を跨いで通り過ぎ、幾つかの紙袋を部屋に下ろすとそのまま風呂場へと向かって行った。

 ついに、愛想を尽かされた。そう思った次の瞬間に鶴巻は過ちを反省する訳でもなく、寧ろ金の事を責め立てられずに済んでラッキーだと舌を出し、あとは年を越してからどれほどの期間ここでの生活を引き伸ばせるか算段し始めるのであったが、その算段は派遣営業担当の井ノ瀬からの電話によってブチ壊しになるのであった。 

 年内の残り勤務はあと四日。つまり、日払いの五千円があと四回、合計二万円もあれば年を越してから次の単発バイトにありつくまで何とか持つだろう……と計算している最中に鶴巻の携帯が鳴った。相手は営業担当の井ノ瀬である。

「はい、もしもし? なんだよ、休みの日によ」
「どうもー。鶴巻さんは年内で終業になるんで、返却物の確認なんですけど」
「そんなのこっちゃ全部分かってるから大丈夫だよ」
「あ、じゃあ一々確認しなくて良かったですね。すいません、お休みの日に」
「んなこたぁどうでもいいけどよ。日払いがあるんだからおまえ、年末までしっかり頼むぞ」
「ちょっと鶴巻さん、何言ってるんですか。日払いはもう年内はないんですって」
「ない? 日払い持って来るのがおまえの仕事だろうがよ」
「いや、そうじゃないですけどね。元々言ってましたけど年内の日払いは先週で終わってますから、残りの稼動分は来月末の振込になりますんで。大丈夫ですよね?」
「おいおいおい! テメェ冗談じゃねぇぞ、いつそんな事言ったんだよ!」
「受入の時にお話しましたし、面談の時にも紙でお渡ししてますよ? 読んで下さいよ。年末で事務所も締めに入りますから、現金が準備出来ないんですよ」
「じゃあおまえ、ポケットマネーで何とかしろよ。明日食うにもこっちゃ困ってんだからよ」
「ちょっとぉ、マジこれ以上の無理は勘弁して下さいよ。鶴巻さん、あんたどれだけうちとハートさんに迷惑掛ける気なんですか? この前の督促電話と嫌がらせの件だってめっちゃ叱られたんすから。あと少しとは言え、契約が続いてるのがマジで奇跡ですよ」
「あんな所、他に人が来ないからうちに頼るしかないんだろうがよ。来てもらってるだけありがたいって思ってもらってよ、俺に寸志の一つでも寄越しやがれって話だけどな」
「鶴巻さん」
「なんだよ?」
「あんた、中々のクズ人間っすよね」
「目上の人間に向かって何だ、その口の利き方は!」
「これだけ迷惑してるんすから、上も下も関係ないっすよ。年明けたらうちはもう鶴巻さん取らないですからね? 仕事なくて電話掛けてくるのも勘弁して下さいね。じゃあ、そういう事なんで」
「テメェ……! クソ、このガキめ」

 プツリと切れた電話を置くと、鶴巻は親指の爪を噛みながらフケまみれの頭をバリバリと掻き始める。競馬場を出る頃には千五百円あった金も、ここへ帰って来る電車賃で千円近く使ってしまい、残金は僅か五百円。
 日払い給与の差額分の振込はあるものの、利率が比較的安く、いつでも借りられる御用達の「買取業者(闇金)」への返済がある為、手元にはほとんど残らない。それは最低限の命の保険であり、バックれてしまうと来月が凌げなくなってしまう。

 次の仕事の予定もアテもなく、全財産五百円で年を越せと言うのは無理があると危機を感じた鶴巻は、ある物を発見して目を止めた。それは脳で意識して発見したのではなく、まるで野生の本能が察知したような、強い反応であった。

「借金をして帰って来た」という広瀬の言葉を反芻しながら、風呂場の前に脱ぎ捨てられたズボンのポケットを凝視すると、ハッキリと膨らんでいるのが見て分かった。バリバリと掻く頭から舞い落ちるフケの粉雪が降り止むと、中年脂で濁った曇り眼鏡を掛け直し、四つん這いになると、そっとズボンに近付き始めるのであった。

第七話はこちらから


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