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「なぜ?」という問いの持つ創造性と凶暴性を知り、「なぜ?」という問いを有効活用する

「なぜ?」、たった二文字のこの言葉。実はめっちゃくちゃ創造的なワードなのです。一方で、僕たちが「言葉の持つポテンシャルを使えていない度」ナンバーワンと言っても過言ではないワードでもあります。

今日は「なぜ?」が持つ創造性と凶暴性を解体し、そのうえで「なぜ?」にどんな向き合い方をしていけば有効的に活用できるのか。そんなテーマについて考えてみたいと思います。


01.「なぜ?」はメチャクチャ創造的


「なぜ?」は探究心から生まれるモノです。「なぜ?」は好奇心から生まれるモノです。「なぜ?」は興味から生まれるモノです。幼い子どもが発する「なぜなぜラッシュ」なんて、まさに典型ですよね。その勢いに圧倒されたことのある大人も多いことでしょう。

本気の「なぜ?」は、対象を知りたい欲求から生まれます。他者に向けたとき、究極の受容につながものが。企業活動や事業の取り組みで言えば、課題の本質・価値の本質に行き当たります。個人の内面に目を向けてみれば、自分の熱源や原体験に行き当たります。

トヨタによって有名になった「Why×5回」によって課題の本質に行き当たる手法は世界を席巻しましたよね。このように「なぜ?」の問いかけには途方もないエネルギーがあります。

僕自身、「なぜ?」の持つエネルギーを活用したワークをいくつか行っています。「あり方を整える365日」という、毎日の問いかけから自分の姿を少しずつ探っていく企画。英会話で自分について深堀りする「ジブンの『あり方』English」という企画。このどちらも「なぜ?」の持つエネルギーを有効活用したワークです。

実は、慣れていない人が「なぜ?」を重ねて本質に行き着こうとするプロセスは難易度が高いのです。トヨタ式Why×5回は誰にでも実践できるモノではありません。うまく問いかけないと同じ場所でグルグル回ってしまうような現象が起こるのです。

コレを解消するには以下の三原則を守ることです。

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★「なぜ?」でブレずに掘り下げするための三原則

  • 主語を意識する、つまり「なに」を忘れない

  • 同じ場所をループしたら「時間」を過去に遡ってみる

  • これが答えかな?と思ったとしても、さらにもう一声

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日本語は「主語」を省きがちな言語であるため、「なぜ?」での問いかけを重ねるうちに主語がアッチコッチに飛び回り、何について考えているのか分からなくなることがあります。また、同じ時間軸だけで思考しているとひたすら答えがループすることがあります。さらに、「答えっぽい」モノに出会うと、そこで問いかけをやめてしまうこともありますが、実はその奥に本質的なモノが眠っていることも多いのです。

個人の人間性に潜り込む「なぜ?」の問いかけは、もしかすると「本質」みたいなモノには辿り着かないかもしれません。そもそも個人に本質なんて無いのかもしれません。でも、ひたすら掘り下げを進めていくと「これを自分の答えにする」と決めていくことができる。そんな自己決定性すら増幅させてくれるのが「なぜ?」の問いかけなのです。



02.「なぜ?」はメチャクチャ凶暴的


しかしながら、そんな「なぜ?」は探究のエネルギーを社会の中で発揮できていません。それは「なぜ?」が探究とは異なる意図で使われるからです。

皆さんも、きっと身に覚えがあるはず。受けたこともあれば、発したこともある。他者否定のための「なぜ?」です。

「なぜ、そんなことをしたの?」と親が子に問いかける
「なぜ、売上が上がらないんだ」と上司が部下に問いかける
「なぜ、あんな態度をとることができるの?」と他者に問いかける。

一見すると「問いかけ」の体裁を取っていますが、この背後にあるモノは否定です。相手からの回答がいかなるモノであったとしても、基本的に否定の意をそのあとにぶつけます。

つまり、ここで使われる「なぜ?」は問いかけではありません。否定のための枕詞です。問いかけであるならば、相手の回答があればそこで終わるはずなんです。あるいは、さらなる探究に入るはずです。「否定」につながる時点で「問い」としての体を為していません。

この「否定の“なぜ”」を僕たちは幼い頃からシャワーのように浴び続けています。同時に他人に対してもこの意味を浴びせるようになっていきます。浴びること・浴びせることを繰り返し、いつしか「なぜ?」から探究の意味は無くなってしまいます。

だから僕たちは「なぜ?」を向けられると反射的に身構えます。「なぜ?」は僕たちの内にあるモノを抉り取し、否定するためのナイフだからです。「なぜ?」からは身を固くして守らなければなりません。攻められると防衛反応が出て当然です。

防衛反応のある状態ではそもそも「なぜ?」が機能しません。よく課題の原因究明などには「なぜ?」で追求することも必要だろうといった声も聞こえますが、それを人に対して向ける限り防衛反応を呼び覚ましてしまうので、そもそも原因究明には機能しないんです。

自分自身に向ける「なぜ?」はまだ探究の意図があったとしても、他人から向けられる「なぜ?」ほど恐ろしいモノはないのです。その言葉が発された瞬間「自分が否定されている」と感じ取ってしまうから。それほど恐ろしいものに、成長する過程でなってしまうのです。

例えば、アートを通して感じたことをフラットに語り合う「対話型鑑賞」の場でも「なぜ?」はあまり使わないそうです。「なぜ?」を使うことで心の壁が出来上がってしまい、その先に有効な対話ができないからだそうです。代わりに「なにがそう思わせた」といった外に原因を求める言葉を使うそうです。

例えば、英語圏は「Whyの文化」とも言われますが実はアメリカでもwhyは慎重に使うと聞いたことがあります(正確な情報ではなく個人の主観かもしれませんが)。これが事実であるならば、アメリカのような一見オープンに感じる文化圏でも「なぜ?」の持つ凶暴性が認識されているということでしょう。



03.なぜ?の創造性を失わせず、凶暴性を排除するには


さて、ここまでで「なぜ?」の持つ創造性と凶暴性を何となくでも感じ取っていただけたかなと思います。しかし、ここまでの内容をベースにすると現実社会で「なぜ?」の創造性は凶暴性によって活かされていない状況ということです。しかも、その状況には根深い課題がある。

ならば僕たちは「なぜ?」の持つ創造性を諦めなければいけないのか?

まったくもって、そんなこともないと思うのです。特に最も難しいと想像してしまうような「他者に対するなぜ?」だって、機能させることができると思うのです。


以下の3つは、僕ができる限り対話の場をつくるときに意識していることです。「なぜ?」の創造性を失わせないための三原則だと考えてください。

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★なぜの創造性を失わせない三原則★

  • この場で使う「なぜ?」に責める意図はないと言葉にして確認

  • 責める「なぜ?」をリアルな場で絶対に使わない

  • なんだったら「なぜ?」は探求のときだけにする

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最初の確認、わざわざ言葉にすることが大事だと考えています。

なぜなら僕たちは基本的に「否定的なぜ」の世界に住む住民です。その国境を越え「探究的なぜ」の世界に入国する際には、何らかの儀式が必要なのです。ほら、よその国に行くときには必ずパスポートをチェックされますよね。アレが一種の儀式なわけです。わざわざ言葉にするから、今ここが「探究的なぜ」の世界だと認識できるのです。

そんな場に参加してもらった人がいたとして、数日が経過したあとに僕が責める「なぜ?」を使ってきたらどう思うでしょう。自分自身に向けた言葉でなくても、誰かに「否定的なぜ」を向けていたらどう思うでしょう。

「一つの否定」は「十の肯定」を消し去ってしまうエネルギーがあると感じています。

だからこそ、「否定的なぜ?」を使わないことは強く意識に持っておく必要があるのです。とは言え、これはめちゃくちゃ難しいことなんですけどね。僕自身、子どもに対して「否定的なぜ」を向けた経験があります。だからこそ、その何十倍も肯定的であり探究的な「なぜ?」を向けていかねばと思うのです。

で、そこまでいくのなら、そもそも「なぜ?」をどんな場面で使うか自分の中でスタンスを決めてしまえばイイと思うんですよね。「なぜ?」の創造性を活かし、凶暴性を出さない使い方をしていくためには、使い方のスタンスをそもそも固めてしまうことだと思うのです。



04.まずは「なぜが使える関係性」を作ることから始めよう


とは言え、世間の使い方は否定的ニュアンスの「なぜ?」が多数だと思います。また、否定的ニュアンスの影響力が強い以上は、まだまだこの状況は続くでしょう。

仮に、世間で使われる「探究的なぜ」と「否定的なぜ」の比率が9:1ぐらいになれば、だいぶ変わっているのかもしれません。でも、逆に言えばそれぐらいの比率にならないと「否定的なぜ」の影響力は強いままだとも肌感覚を抱くのです。

だから、「なぜの使い方を広める」よりも「なぜが使える関係性を作る」を優先しようと思うのです。

いわゆる心理的安全性ってヤツと近いのかな。先ほどの三原則に従った関係性を作るなかで、相互に「なぜ慣れ」していくことが大事だと思うんですよね。

受け手は「なぜ?」を受け止めることに慣れていく。
発し手は「なぜ?」を発することに慣れていく。

そんなプロセスを重ねることで、自然と「なぜ?」が「相手に対する興味からの探究」と「相手を否定する意図を載せない」といった二つの性質を帯びていきます。

関係性づくりのなかで「否定的なぜ」を見かけたら即座に適切に介入することも大切です。とは言え「適切に」が難しいんですけどね。ときにテーマが発展すると価値観同士のぶつかり合いになることもありますし。だから前提として「なぜ?」を相互に承認し合う場をつくり、そこから徐々に広げていく感覚だと思うのです。

個人のスタンスにおいても「自分は「なぜ?」を否定的な意味では使わない、だからガンガン使うんだー!」って姿勢はあまり誉められたモノではないと思うのです。多くの人にとっては「ナイフとしての“なぜ”」として捉えられているのです。自分にとっては探究の道具だったとしても、相手にとっては凶器なのです。

いろいろ書き連ねましたが、僕自身は「なぜ?」による探究が大好きです。対話のシーンでもよく使わせてもらいます。一方で、やっぱり他人から向けられるときに未だ身構える自分もいます。だからこそ、もっと適切に使えるようになりたいのです。

そして、みんながこの言葉をもっと有効に使えるようになれば、社会はもっと創造的であり受容的になる、そう感じるのです。

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