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人間SFのエコシステム「ドグラ・マグラ」

まず初めに、これから自分はキチガイについて語ろうと思いますので、受け付けない方はご遠慮ください。
できれば自分も攻撃的な言葉は使いたくないのですが、この言葉を避けて語るのは少し無理があります。
この本はそういう話です。

一応無料で読める本ですが、おすすめはしないです。
「推理小説三大奇書」と言われる、アンチミステリで括ったうちの代表格でありながら、読んだら気が狂うという前評判通りの危なっかしい本でした。
この本は好きか嫌いかの二択で真っ二つに分かれる内容なので、好きな人だけ読んでください。

主要登場人物と概要

呉一郎:20歳の青年
正木博士:九州帝国大学精神病科教授
若林博士:九州帝国大学法医学教授
呉青秀:呉一郎の先祖
呉モヨ子:呉一郎の従姉妹

1926年(大正15年)の話
精神病棟の独房で目が覚めた主人公は、担当医である若林博士からの手がかりをもとに、「私は誰だろう」という問いに直面していく。

考察

「推理小説三大奇書」と言われる所以について

そもそもこの本が奇書と言われる所以は、ミステリ仕立てでありながら最終的にハッとさせられるような結末を用意していない点にあります。

精神病棟の独房で目が覚めた主人公は、若林博士からさまざまな手がかりを伝えられるにつれて、自分がとある大犯罪に関わっているのではないかという疑念を持つようになります。

ここまではミステリ的でありながら、単純に話としてもかなり興味を惹きつけられるものだと思います。
ただここから話は学理的なものになり、精神病患者の境遇、人間に関する独自の理論を二連発、さらにぶっ飛んだ遺言書を前提に踏まえながら、それまでのミステリの筋書きを踏襲していきます。

本来のミステリといえば、何かしらの事件が起きて、探偵が謎を解いて、犯人の自白という流れが一般的です。
しかしこの本では、あくまで結論を主人公に委ねます。

謎解きの結論を主人公の想いに委ねるというミステリは見たことがありません。
これが奇書、アンチミステリと言われる所以です。

この本のジャンルについて

では、この本がどのジャンルの棲み分けになるのか。
強いて言えばですが「SF」になると思います。

SFの定義も難しいですが、あえて言うのであれば「前提を覆した上で一般的な価値観に則る」みたいな感じですかね。
これで大雑把にSFというジャンルを括れると思います。

この定義の上で考えると、この本が覆した前提とは何でしょうか。
それは、独自の理論である「脳髄論」と「胎児の夢」がもたらした、人間の根本的な原理です。

脳髄論とは、脳がものを考えるのではなく細胞が考えている、というものです。

胎児の夢とは、人間の祖は小さな細胞であり、それが海の生物、陸の生物と進化を遂げて今の人間に成り立っている、という仮説です。

現在の科学で言えば「胎児の夢」の方は否定されているそうなのですが、「脳髄論」についてはあながち間違いでもないかもしれないらしいです。

ただ仮にこの二つが正しいと捉えた場合、人間というものの認識を再定義しなければなりません。
そう考えると、この本が先ほどのSFの定義に則っているのが分かります。

ただし簡単にSFと言ってしまうのも味気ないので、人間を再定義した意味を込めて「人間SF」という言い回しにしました。

誰がキチガイか

ここからが主題です。
今後はネタバレを多く含むので、まだ読んでない方はここでご遠慮ください。


この本のラストでは呉一郎が「若林こそが悪である」と決めつけていましたが、これはおそらくキチガイの行き過ぎた思考回路です。

結論として、若林博士はただただいい人であって、キチガイなのは呉一郎だけだと思います。

呉一郎は、この思考実験は繰り返し行われているものであり、若林がその実験の指揮系統を一人で担っているという考えに至りましたが、それにしては辻褄の合わない箇所がたくさんあります。

まず、時間がそんなに経ってないことが挙げられます。

呉一郎が若林博士と話をしていた時は10月、バッドトリップを起こして正木博士と話をしていたのが一ヶ月前の9月、そして正木博士が自殺を図ったのが同じタイミングです。

また、髪を整えたときに理髪師から「一ヶ月前と同じでいい?」という質問がされています。
何度も繰り返しているのであれば、こんな初歩的なところでボロを出すとは考えられません。

若林博士が嘘をついている可能性もないでしょう。
呉一郎が廊下を通った時、外にはコスモスが咲いていたという描写がありました。
コスモスは秋に咲く花なので、季節的にも間違いはないです。

では、教授室にあった「ドグラ・マグラ」が誰かに読み込まれていたという点については如何かという問いになると思いますが、それは若林博士の説明通り「学術的な価値があったから読み込まれた」だけだと思います。

結果として、これは思考実験でも何でもなく、ただ単に頭が狂った呉一郎が思い違いをしているということになります。

もっと言えば呉一郎の先祖である呉青秀がぶっちぎりでキチガイなのですが、それを細胞レベルで覚えてしまっている呉一郎の運命、そしてそれに触発され巻物を盗んだ正木博士が暫定2位のキチガイです。

正木博士が若林博士をこき下ろすシーンもあるのですが、全部偏見混じりなので説得力がありません。
これも正木博士がキチガイたる所以、行き過ぎた思い込みの真骨頂です。

エコシステム

ということで、呉青秀と正木博士は悪人、その流れ弾を喰らった呉一郎は可哀想なキチガイ、若林博士は肺病持ちの善人というラインナップになるのですが、例えば若林博士が呉一郎の思い込み通りの悪人だったなら、この話はどうなるでしょうか。

まずは思考実験のエコシステムを再確認します。

柱時計の音で目が覚めるが、自分が誰か分からない

身綺麗にする

従姉妹のモヨ子と会う

教授室で若林博士と会話

資料読み込み

正木博士との会話のバッドトリップ

思考実験の全容を把握

「ドグラ・マグラ」の執筆

こんな感じです。
これを永遠にループさせるためには抜け穴を塞がなければなりません。
資料を読み込ませたらあとは勝手にバッドトリップしてくれるので、問題はそこに辿り着くまでです。

ということで、自分なりに必須条件を考えてみました。

  • 他人との接触を最小限にする

  • 物の経年劣化を防ぐ

  • 季節をごまかす

  • 若林博士とモヨ子が死なない

他人との接触を最小限にするためには、若林博士がその全てを負担しなければなりません。
目が覚めてから服を着せて、髪を整えるまで。
他人が介入すればそれだけ不安要素が増えるので、できれば全て一人で行いたいです。

物が古くなりすぎるのも良くないです。
柱時計、正木博士の論文、巻物など、このエコシステムは物をきっかけに回ってもいるので、その古さ加減を指摘されれば言い逃れできません。
なので、定期的なメンテナンスが必要です。
「ドグラ・マグラ」の執筆については、その都度で新版をあげてくれるので問題ないです。

先ほども述べましたが、季節を感じさせるのもダメです。
発端になっているのが9月のことなので、常にその時期だと思わせる必要があります。
具体的に言えば、外を見せるのはNGです。

最後に若林博士とモヨ子が死なないことです。
これが最重要事項です。
わざわざ言う必要もないと思いますが。

これら要素を完璧に満たすことができれば、理論上はエコシステムを成立させることが可能です。

ということで、呉一郎を永遠に精神病棟に閉じ込めることが出来ました。


こういうことを考えさせてしまう本なのです。
こんなものを読んでいたら精神が保ちません。
よくない本です。

感想

個人的にはあんまりおかしくなった感覚はないのですが、この記事と、それを書くために残したメモを見た時にはゾッとしました。
なんで自分は被害者のはずの精神病者を病棟に閉じ込めようとしているのでしょうか。
それもこれも、この本の真骨頂である論点ずらしが効いていると思います。
これを読んだ人は分かると思いますが、あちらこちらに話が飛んだり、文法を変えられたりするので、どうしても意識が散漫になります。
その結果、本質的な問題があやふやになったまま突然新しい事実を告げられるので、それを鵜呑みにしてしまいます。
論点をずらして、話題を変えて、文法を変えて、手を替え品を替えで読者を混乱させようとしてくるので、相当の読書家でなければこの本を読むのは難しいと思います。

またこれは余談なのですが、同じタイミングでドラえもんの映画を見ていて、とある登場人物が先祖の記憶を呼び起こしたことを「奇跡だ!」と言って喜んでいるシーンがありました。
特に考えずこのシーンを見ていた場合は
「奇跡なのかな」
と思えたのですが、ドグラ・マグラを読んでいる途中でこのシーンを見たせいか
「あ、細胞が覚えてたのか」
という感想が真っ先に浮かんでしまい、そこから話が入ってこなかったです。
せっかくいい映画だったのに残念です。

以上です。

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