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作家とライターを隔てる深い溝

とある1冊の本の、Amazonレビューが中々衝撃的な評価で結構びっくりした。
その著者が、界隈ではカリスマ的な人気を誇るwebライターだったので、余計に驚いている。

もちろん、悪い意味で。

頭にぱっと思い浮かぶ、web界隈の著名人の著作をぜひ検索してみてほしい。僕の言っていることが理解できると思う。

書店で彼らの本を見かけたときに、その帯やプロフィールにはこんな肩書がよく書いてある。

・Twitterフォロワー○○万人
・月間○○○万PVのブロガー
・人気webライター

そこに「作家」という2文字を見かけることは、ほとんどない。

作家とライター。同じ「書く」仕事であっても、そこには決定的な違いがあるように感じている。

その違い、というか溝を生んでいるのは、才能や質といった「クオリティ」ではないのだと思う。

そもそも本来は黒子であるはずの一端のwebライターが、自分の名前で本を出版すること自体がすごいことなのだし、何より彼らの「クオリティ」は「Twitterフォロワー○○万人」「月間○○○万PVのブロガー」「人気webライター」という、肩書が証明している。

だから、作家とwebライターの間にあるのは、壁(能力)ではなく、溝(感性)ではないかと、最近思うのだ。

これはぼくだけが感じていることなのかもしれないのだけど、このnote、正直、詩や短歌・小説といった「文芸」を読むのには少々適していない気がする。

そもそも縦書きじゃないし。
「書く側」の人間からすると、非常にシンプルで使いやすいエディタなのだけれど、wordで起こした「20字×20字の原稿用紙フォーマット」のテキストをここにペーストすると、非常に違和感を覚える。

文章から「重み」がごっそり抜け落ちている気がするのだ。

noteは「誰でもかんたんに創作を」みたいなコンセプトも掲げていたと思うし、別にこれでいいのだけれど、この場所では、たぶんエッセイのようなものしか書けないし、読まれないよなと感じる。(たくさんの読者がつく小説を投稿する「作家」もいるのだろうけど)

そう、これでいい、これでいい…「軽い言葉」を書くだけなら…

あらかじめ断っておくと、僕は基本的にコンテンツに優劣はないと思っている。
世界的文学も雑誌も映画も、漫画もアニメもライトノベルも、人の気持ちを動かすものは等しく素晴らしいものだ。

だけど、「重さ」の違いは絶対にあると思っている。

「最近の若者はもう7秒だか、10秒くらいの動画しか観ない」という記事を何かで読んだけど、若者だけじゃない。大の大人だって、そうなってきている。

2時間の映画を観るのは億劫だけど、youtubeをぼけっと観ていたら、気付けば2時間経っていた、ということはざらにある。

かんたんで、わかりやすくて、はやくて美味しいものが増えすぎてしまった。
視聴するのに2時間かかる映画が「つまらないかもしれない」のかもしれないなら、確かに映画なんて観たくなくなる。

「文章」にもまったく同じことが言える。

わかりやすくて、キャッチーで、かんたんにエモさを感じられる言葉ばかりがあふれている。

なぜか?
それは、求められているから。

コモディティ化した世界の中で、コンテンツや商品を見つけてもらうためには、わかりやすくて、キャッチーで、かんたんにエモさを感じられる言葉はとても便利だから。

人類史上最高傑作ードストエフスキーが生み出した不朽の名作『カラマーゾフの兄弟』

軽い文とは、そんな枕詞をつけられない、よちよち歩きのコンテンツたちが、はてない資本主義の大地で力強く立ち上がるための、不本意なレジスタンスになっているのだと思う。

ぼくもそんな業界に身を置いているから、よくわかる。
「こんなこと書きたくない」「もっとこういうことを書きたい」「自分の感性を生かしたい」と思いながら仕事をしているライターは、たぶんいっぱいいる。

インターネットや広告の世界にずっと住み続けていると「軽い文章」しか書けなくなる。最近、そんな恐怖を覚える…

だからこの、「殺し合いの螺旋」からそろそろ降りたい。
「殺し合い」が言いすぎだとは思わない。
ライターはたぶん、誰かを喜ばせたり、役に立ってたりするのかもしれないけど、感じる楽しさや考える力、想像の余白を殺しているとも思うから。

文芸と文章。文学と記事。なんていったらいいかよくわからないけど、「文芸」や「文学」を書きたいなら、自分の言葉をよく見つめる必要がある。

ぼくは、「軽さ」の居場所はここに残していくとして、「もうひとつの言葉」の居場所を他に作ろうと思っています。

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